第11話 六月のとある土曜日
待ち合わせの駅。改札を出ると彼を見つけ、彼も明日香を見つけた。
明日香は彼を見つけた瞬間の自分の反応に期待していた。
『俺は〝お詫び〟として連れて行くから、雪村さんは〝お礼〟として俺に付き合ってくれないかな?』
昨日、突然そう言って誘われた時に、逡巡の末「はい」と返事した。
紛れもなく自分で出した答え――それは疑いようのない事実だ。
だけど、何故そう言ったのか、明日香自身もよく解らないでいた。
〝好き〟……じゃないと思う――。
〝気になる〟が近いかもしれない――
でも、恋や愛に近くはない気もする――。
……でもだったら何だろう――。
考えても分からない。だけど、もう一度会った瞬間に、何か解るかもしれない。
――そう思っていた。しかし今あるのは、出会って間も無い相手と出かける事に対する緊張や不安。そして、ほんの僅かな好奇心だけだった。
〇
「お待たせしました。おはようございます」
改札を出てきた彼女は、構内で見る地味目な格好と比べ、少し御洒落をしていた。
しかし肌の露出はやはり極端に少ない。当然、睡蓮の姿は見えない。
ただ、彼女の服の、包帯や絆創膏の下に隠れているだろう睡蓮を思い浮かべると、深い色の曇天もそれを映えさせる為の演出にも思えた。
休日の外出の定番ではあるけど、美術館が混む事はそう無いだろう――と、慎太郎は思っていた。だが、並びこそはしないものの、周りとの距離感を気にする程には客入りがあった。
慎太郎にとって自主的に美術館に来たのは初めての経験だ。尋ねると彼女も初めてらしく、楽しんでもらえるか不安が過った。
しかし、いざ館内を回ると彼女は一つ一つの作品を満足するまで見つめていった。誘った自分よりも堪能しているその様子を見て、来て良かったと、慎太郎は密かに胸を撫で下ろした。
美術館では彼女に付いて回るも、全くと言っていい程、会話は無かった。そこで美術館を出ると、慎太郎は駅から少し離れた場所にある喫茶店に彼女を誘った。
古色が趣を感じさせる落ち着いた空気が流れる、雰囲気の良い店だった。
「随分、熱心に見ていたね。パンフレットも買ってたけど、もしかして好きな芸術家さんだった? ええと、名前は確か――」
「鷲宮イフカ」
慎太郎がチケットの半券で確認する前に、彼女はすかさず答えてくれた。
「やっぱり、好きなの?」
「この前借りてもらった本――あの作者『岩節夏夜見』が『鷲宮イフカ』の作品が好きだって言ってって。私、好きな作家が『岩節夏夜見』だから――」
「なるほど、だからあんなに熱心に……。どんなところが好きなの? 例えば――」
偶然だったとはいえファインプレーだったのだろう。慎太郎が『岩節夏夜見』の好きな点を訊くと彼女は水を得た魚の様に語りだした。 好きな作品、印象的なシーン、お気に入りの登場人物、『鷲宮イフカ』の絵と重なる部分など。慎太郎は『鷲宮イフカ』の絵の感想を交えながら彼女の話に合いの手を入れた。
〇
会話の端々に見える互いの印象。
感受性が高く熱心で知的な明日香。
気遣いがさり気なく包容力があり落ち着きのある慎太郎。
そう意識せずとも二人は徐々に惹かれ合っていった。
〇
絶える事の無い会話に時間を忘れ、気が付くと窓の外は暗くなっていた。
急いで店を出た。すると、待ち構えていたかの様に、ここ数日耐えていた雨雲はとうとうその中身を溢れさせた。
慎太郎は彼女の手を取り、駅へ向かい走り出した。しかし、まもなく雨は激しさを増し、容赦無く二人に降り注いだ。
仕方無くショーウィンドウの前で雨宿りをし、雨の様子を見る事にした。
僅かな時間、僅かな距離だったが、走った事で彼女の心臓と肺が激しく動いている。
――その様子が繋いだ手を通して慎太郎に伝わっていた。
「大丈夫?」
「うん……平気」
息を整えながら答えた彼女の額の絆創膏は剥がれかかっていた。
そこから覗く睡蓮に、雨に濡れ潤い、儚く淫靡で、穴に向かって薄らと変色する生々しい肌の紅いグラデーションは、危険で背徳的な生命力をも感じさせる。
慎太郎はそっと絆創膏を直す。一枚を隔てた上から彼女の睡蓮の感触が伝わった。
――瞬間、慎太郎は彼女を抱きしめた。
「――えっ?」
一瞬間が空き、驚きの声が聞こえる。
「え? あの……」
彼女が戸惑っているのはわかっていた。
しかし、想いを止められなかった。
右手を彼女の頭に回す。小指にうなじの絆創膏が触れる。その上からも睡蓮の穴の感触が判った。これまでにない快感を伴い、心臓がさらに高鳴る。
慎太郎はより一層強く抱きしめると、彼女の耳元で短く想いを告げる。
「好きだ」
「……え?」
強く密着した事で彼女の声が体の内から響いてくる。
彼女のわずかな動きにうなじに咲く睡蓮が揺れ、鼓動が強くなる。
ふと、彼女は慎太郎の胸に手を当て、そっと押した。
慎太郎は応え、抱擁を解く。彼女は顔を俯かせている。
反応を待った。雨の音が全ての雑音から二人を隔離する。
「……ごめんなさい」
突然、彼女は雨の中を走り出した。
「ちょっと――」
追いかけようと踏み出した足は、しかし、たった一歩で止まてしまう。
ごめんなさい、って――。
彼女の言葉の意味は曖昧ながらも良くない答えにしか聞こえず、雨の中去っていくその背中を、慎太郎は追いかける事はできなかった。
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