第7話 六月のとある木曜日
空気に触れる解放感。風が当たる清涼感。
いつもの様に、人目を気にしながらも密かな楽しみに興じようとした。
しかし、心が付いてこなかった。
……ああ、なんかな……やっぱり駄目だ――。
原因は分かっている。昨日の事がずっと頭から離れないのだ。
昨晩、姉にその事を話した。すると「へえ、明日香もとうとうナンパされるようになったか」とからかわれて、相談できなかった。
そういう事じゃないんだよ――。
脳裏に再びあの時の情景が浮ぶ。
見知らぬ男子学生からの突然の誘いに、戸惑った。どうしらいいのか分からず、焦った挙句相手の顔を見る事ができなくなり顔を伏せた。そして「結構です」と言って足早に去ってしまった。
なんであんなふうに――。
自分がそういう事に不慣れなのは自覚している。ただそれでも、もう少しスマートな対応があったんじゃないかと、明日香は後悔していた。
どうすれば良かったのか。どうすれば自然だったのか。何度も考えてしまう。
ダメだ。他にいくらでも良い言い方があったのに――。
後悔しすぎるのが良くない事だとは解っている。
ただ、それが自分なのだとも理解している。
自分が後ろ向きな人間なのだと再認識していると、愛用のトートバッグの中からメールの受信音が聞こえてきた。姉からだ。
『サイフとカギ忘れてるよ』
知ってるよ――。
つい先程、自動販売機で飲み物を買おうとした時に気が付いていた。
今朝も昨日の事で頭がいっぱいだったから……きっと、そのせいだ――。
明日香は姉に返信すると、後悔を止めるため、別の事を考える事にした。
ああ、お腹すいたな――。
〇
慎太郎は今日も彼女の睡蓮に見惚れていた。
昨日と同じく講義に集中できないで窓の外を眺めていると、昨日と同じ場所に座る彼女が見え、同じ手順で睡蓮が現れ、同じ様に慎太郎は魅了された。
だが、昨日と同じ様に声をかける訳にいかない。
昨日の放課後、拓也に相談しようと、自分の趣向と彼女の容姿を伏せて、話しかけた顛末を説明した。すると――、
「お前そりゃただの挙動不審の不審者だろ」
と不審ぶりを重ね掛けで指摘されてしまった。自分でも似た様な事を思っていたので慎太郎は深く反省した。
ただ、決して諦めた訳ではない。
彼女の睡蓮を再び目にし、逸る気持ちを抑えながら想いを募らせていると、やはり昨日抱いた自分の気持ちは間違いではなかったのだと分かった。
でも、どうしようか――。
今は様子を見るべきなのか――。
気持ちのままに話しかけに行っても、また同じ轍を踏む事は目に見えている。何か良い方法はないか。彼女の睡蓮を遠目に眺めながら、思案していた時だ。ふと、ある事に気が付いた。
元気が無い、のか――。
彼女の睡蓮は昨日と変わらず瑞々しく紅く輝いている。
それなのに、彼女の背中からは精気が感じられなかった。
〇
患部を保護し直した明日香は、図書館に来ていた。
音が死んだ空間。雑の無い混沌。数々の生きていた痕跡。群がる生者。
館内には多くの人がいる。ほとんどの人が干渉し合わないように干渉している。
明日香はいつもそれが水中にいるようだと感じていた。
皆が各々の目的に集中している為、包帯や絆創膏を気にする人が少ない――図書館は明日香にとって心安らげる数少ない場所の一つだ。
それに元々、明日香は読書する事が多かった。
特別本が好きと意識した事は無い。ただ、家族の影響で幼い頃から本に触れる機会には恵まれていた。暇つぶしや気分転換、情報収集や何かの参考のためになど、彼女にとって本は何かの手段の一つとして常に選択肢にあった。
空腹な上に昼食の予定も立たない今は、気を紛らわす為の本を探している。だが、本棚に並ぶ多彩な本の数々――その背表紙を目でなぞるだけでも、だいぶ空腹を忘れる事ができた。
これにしようかな――。
手に取ったのは、既に読んだ事ある短編集。最後に読んだのは二、三年くらい前になる。
長い期間を空けて改めて読むと、内容は同じはずなのに感じ方がまるで違う――本のそんなところが、明日香にはいつも不思議で、楽しく感じる部分だった。
当初の予定通り、今の状況を幾ばくか忘れる事ができた。
昼のチャイムが鳴る頃、人の流れは急に激しくなる。明日香はそっとお腹を押さえた。
気にしてはいたのだ。しかし、いよいよ空腹が度を過ぎてくると、腹の虫が鳴り出さないかと心配になってきた。
短編だったら途中で止め易いだろうと選んだ本。だが短編集という事は、佳境がすぐに何度も訪れるのだと気付いたのは、読み耽ったあとだった。
読んだ事があるとはいえ、続きが読みたい。
明日香はその本を借りる事にした。そうすれば場所を移せばいいだけの話だ。
しかし、借りる為に並んだ列で、貸出しに必要な学生証を取り出そうとした時に思い出した。
ああ、そうだった――。
明日香は学生証を常に財布の中にしまっている。
つまり、今は家にあるのだった。
〇
彼女が屋外テーブルから去ってからも、慎太郎は窓の外を見て講義をやり過ごした。
駄目だな――。
講義に身が入っていないのは自覚している。理由が何であるかも解っている。しかし、そうであると認める事は、原因を彼女に押しつけているようで抵抗があった。だから「暑いせいだな」という事にして何処かで涼む事にした。
レポートでもやるか――。
涼めて学生用のパソコンも設置してある図書館へ向かう。すると、入口の自動ドアを潜ったところで、エントランスの貸出しの列に並んでいる彼女を見つけた。
彼女はバッグの中を探っていた。と思っていたら途端に肩を落とし、列から離れ、図書館の奥へと向かっていった。
先程も元気が無さそうだった。
しかし今度は更に――誰が見ても明らかな程に、落ち込んでいる様子だ。
何があったんだ――?
慎太郎の心からはすでにこの場所へ来た目的は消えていた。
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