第8話 六月のとある木曜日 -その2-
明日香はそっと本を戻し、図書館を後にした。
図書館の出口前に並ぶテーブルスペースを横切り、コンビニから少し離れたベンチに腰を下す。お昼時で人通りは多い。しかしその分、多数の声が羽音の様に鳴り響き、万が一腹の虫が鳴いたとしても、掻き消してくれるのではないかと思った。
なんか、みじめだな――。
そう思うとその事がより強調され、身体の力が奪われた。更には時折コンビニの方から漂ってくるホットフードの香りが、明日香の胃を苛めてゆく。
……今日はもう帰ろうかな――。
そう思い、立ち上がろうとした時だった。
「あの、良かったら、これ――、」
前触れなく声をかけられた事で飛び上がりそうになってしまった。
ハッと顔を上げる。
目の前には昨日のあの彼がいた。
それも、何故だか、先程まで明日香が読んでいた小説を差し出してきている。
突然の事に困惑していると、彼はどこか柔らかみのある表情で言った。
「借りたかったんだよね?」
え? なんで――。
図星だった事に困惑を深めたが、そう言ってきたのが昨日の男性だった事には、どう納得すれば良いのか考えられない。明日香には何かと限界が近付いていた。
「あ、そうだ。ちょっと待ってて」
彼はそう言うと、本を明日香に押し付けるように渡し、人混みに紛れていった。
彼の言う通りにする必要は無かった。
今の内に逃げてしまえば、少なくとも目の前の問題からは逃げる事ができる。
しかし手の中にある小説と、昨日してしまった彼への態度を思うと、何も言わずに去ってしまう事が躊躇われた。
数分後、彼はコンビニ袋を下げ、戻ってきた。
一人分のスペースを空けて明日香の隣に座ると、袋からサンドイッチとおにぎりを取り出し、柔らかな笑みで尋ねてきた。
「どっちが良い?」
明日香はまたも困惑した。ただ、今度はかろうじて声が出せた。
「え? あ、あの――」
「昼食まだだよね? それともどっちも嫌かな?」
そんな事は無い。むしろ、くれると言うなら今の状況ではまさに救いだった。
ただ、ある程度の理解できなくては、何もかもに不信や疑惑などが付きまとってしまう。
すると、そんな明日香の態度を見ての事か、彼は一度手を下げて、切り替えてきた。
「そうだよね。ごめん、色々急だった。一応説明させてくれるかな?」
明日香はどうする事が正しいのか解らなかった。だが彼の様子から真剣さは見て取る事ができる。なら、と明日香は恐る恐るながら彼に頷いた。
「ありがとう。といっても大袈裟な事ではないんだけど、まずは――昨日はすみませんでした。突然、声をかけて――しかも変な態度取っちゃって、本当にごめん」
「あ、えっと――こちらこそ、ごめんなさい」
頭を下げた彼につられ、明日香も頭を下げる。すると今度は彼も困惑した。
「待って、何で君が謝るの?」
「私も、昨日、失礼な断わり方、したから……」
「――いや、俺が言うのも変だけど、あんなふうに訳の分からない声のかけられ方をされたら、丁寧に対応するよりも君みたいにきっぱり断る方が良いと思うよ」
「そう……ですか?」
経験に乏しい明日香には、よく解らなかった。
とにかく、本当にごめん。と彼はもう一度謝り、説明を続けた。
「実は、さっき図書館で君を見かけたから、一度きちんと謝ろうとタイミングを窺っていたんだ。そうしたら、君が本を借りようとしていたのに、残念そうに棚に戻して図書館を後にするのを見て――もしかして、学生証を忘れたんじゃないかなって思ったんだ」
それで代わりに借りてくれたってこと――?
明日香は手に収まっている小説に目を落とす。
「……ごめん、迷惑だったかな?」
「あ、いえ――そんな、ことは……」
何故か「ありがとう」と言葉にできず、明日香は代わりに小さく頭を下げた。
「それで、ここで見つけた時に何をするでもなくベンチに座っているから――もしかしてサイフごと忘れたのかな、って思ったんだけど――だから、これは昨日のお詫びと思って受け取ってくれないかな?」
ほとんど見ず知らずの人に自分の失態を見抜かれたて、あまり好い気はしなかった。
ただ、再び差し出された食事を見て、彼への疑念が少しだけ薄らいだ。
助けてくれてるんだ――。
「……ありがとうございます」
自分の惨めさからか、出た声はか細かった。
すると心配させてしまったのかもしれない。彼は不安気な表情で訊いてきた。
「もしかして、体調悪い?」
「い、いえ、そんな――」
体調悪いんじゃなくて、お腹が空き過ぎて、なんて言えるわけがない。
彼の深刻そうな問いかけに焦り、思わず機敏な反応をしてしまった。しかし、明日香のそんな様子に彼の心配は多少和らいだようだった。
「――そう。良かった。じゃあ食べようか?」
柔らかな笑みで胸を撫で下ろした彼は、袋からおにぎりを取り出し、食べ始めた。
お好きなのどうぞ、と彼は袋ごと明日香に差し出す。
普段なら重たいはずの『遠慮』という心の天秤の分銅も、今は『食欲』より遥かに軽い。
明日香は小さい声で「いただきます」と言っておにぎりを食べ始めた。
〇
「それで、そのあとは?」
拓也が過剰な期待をしている事に気付いた慎太郎は、助長させないよう簡素に答えた。
「特にないな。俺はおにぎり二個食って、彼女に残りを全部あげた。全くお金が無いのも不安だろうから二千円貸して、その場で別れた。それだけだ」
「ううん……まあ、そんなもんなのかもな」
露骨につまらなさを見せる拓也に、慎太郎はさらに淡々と続けた。
「様子からして、相当お腹空いてたと思う。ただそれでも、ほとんど見ず知らずの奴から急に食事を渡されたら、例え嬉しかったとしても、目の前で何個も食べるのは抵抗あるかもしれないだろ?」
「ああ、確かにそうだな。親戚の家でも、普段付き合い薄かったりすると、出される菓子とか微妙に手ぇ付けにくいもんな」
うんうん、と拓也は誰にともなく頷く。
「んでよ、それはまあイイとして。知らない女に声をかけるなんて事をしないお前の心を惹き付けた、その彼女の名前は何ていうんだ?」
「名前? ……そういえば、訊くの忘れてた」
つい、植物を相手にしているいつもの感覚で、名前を訊かずにいた事に今頃になり気が付いた。
知る由もない拓也は「なーにしてんだよ」と、呆れていた。
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