変身???
高秀恵子
変身???
桜子さんは驚いた。
確か、自分は茶色いセーターを着ていたはずだ。
だがうたた寝から覚めた自分の腕と手はどうだ。白い毛の生えた腕に4本の獣のような蹄となっている。主婦らしい淡い色のマニュキアをした5本の指がなくなっている。
桜子さんは2階の自室でスマートフォン片手に家計簿の整理をしていた。子どもたちは無事就職をし、夫の定年退職にはまだ間がある。しかし、このご時世には油断は出来ない。子どもたちの結婚だっていつかあるだろう。
そろそろ夕方だ。桜子さんは、とりあえず立とうと思う。が、立てない。脚がしびれた訳でもない。
桜子さんは四つ這いになった。四つ這いにしかなれない。階段を降りようとすると転んでしまった。大きな音が響く。
「どうしたんだ、お前」
リビングルームでTVを見ていた夫がやって来た。
「なんだ、この豚は! あっち行け!」
夫の言葉としては酷過ぎるじゃないか。
桜子さんは文句を言おうとして話したが、その言葉は
「ぶうぶう」
にしかならない。
「それにしてもヨメはどこへ行ったのやら……もうすぐ夕飯なのに」
夫は心から不満そうに言う。
桜子さんは自己の存在を示すため、再び話してみたが、やはり
「ぶうぶう」
となる。
「お母さんが居なくなったんだって?」
遠方に住んでいた、桜子さんの息子と娘が駆けつけてくれた。
「それがかあさん、靴も服も何も持たずにいなくなったんだ。警察には届けたけど」
「ぶうぶう」
息子と娘に心配をかけないため、桜子さんは鳴いてみる。
「ところでこの豚は?」
「どうやらどこかの迷い豚らしい。こいつのことも遺失物として警察には届けたが」
「ペット用の豚みたいだね。この豚どうするの?」
「交番では預かれないので、落とし主がみつかるまで家で面倒をみることにした。デブだが賢そうな豚だよ」
夫に褒められて、桜子さんは尻尾を振った。
「お母さんが見つかるまで、会社に頼んでここの街に転勤できるようにしてみます」
息子が言う。
「私もこの家に帰って来て、近所に仕事を探してみるわ」
娘が言う。
桜子さん、ますます喜んで、ブヒブヒと笑った。
街のあちこちに桜子さんの行方を尋ねるチラシが貼られた。
その横には、迷い豚預かってますのチラシも貼られた。
「豚さん、僕と一緒に寝ようよ」
「ずるいわ、今晩は豚さんは私と一緒よ」
子どもたちは豚とのスキンシップに飽きることがない。
「豚さん、お風呂に一緒に入ろう」
夫までがそう言ってくれる。
家事は夫と娘と息子の手で滞りなく行なっているようだ。
豚が太り過ぎないよう、食事は豆腐と野菜が中心だが、桜子さんはそれでも満足だった。不思議と豚の身になってからは、脂っこいものや甘いものをさして食べたいとは思わない。
散歩には夫と娘が交互に連れ出してくれる。以前、ジムやプールに通う金を家計から工面していたことを思うと、なんとも幸せである。
「母さんは自立して生きたかったのだね」
「母さんも女だから誰か次の彼ができたのよ」
母として、妻としての桜子さんが居なくなったことを、夫も子ども達もそう悲しんで寂しがってはいない。
夫と子ども達が働きに行っている間、桜子さんは日当たりのよい庭と居心地のいい小屋とを往復し、昼寝をする。おやつにカリカリした豚用の飼料が用意されている。
他の主婦なら家計のやり繰りや家事やパートの仕事に追われて忙しい思いをしているが、桜子さんはそんな苦労から解放された。こうして庭でうとうとと昼寝をするのは気持ちがいい。
しかし自分も家族の一員だ。もし、家計が危なくなれば、この身を豚肉として差し出してもいい。
今はただ豚として、ペット用豚として、気持ちのいい日々を生きて行きたい……
桜子さんは目を覚ました。以前に居た、2階の部屋だ。
驚いた。いつの間にか腕と手が元の茶色いセーターと5本の指になっている。
スマートフォンを見る。おや、以前の豚になる前の日付じゃないか。
もうそろそろ夕食の支度をせねばならぬ。
桜子さんは四つ這いになることなく立ち上がり、転げ落ちることなく階段を降りた。
「おーい、何してるんだ、もうすぐ飯の時間だろ」
彼女の目には、そのように言う夫が、一瞬、豚に見えた。
変身??? 高秀恵子 @sansango9
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