第170話 マタイ 山上の垂訓 Ⅲ
マタイ七章で、山上の垂訓の講話が終わります。マタイもきっと、イエスの大切なお話を一字一句漏らさず書き留めた事でしょう。
「裁くのをやめなさい!」
一節はいきなり命令から始まります。裁く……ギリシャ語でクリーといい、判断する、告訴する、有罪宣告をするという意味があります。
もっと身近に当てはめると、相手の小さな欠点を指摘し、あら探しをするということです。
う~ん、一番身近な家族でいうと夫かな。
「もう、脱いだ靴下洗濯カゴに入れてね。あなたのそのルーズな所、本当に嫌い」(うちは逆)
自分のルール、基準で相手を裁きまくります。
しかし、イエスはこの言葉を、主にあのパリサイ派のオッサンに向けて言っていました。
パリサイ派のオッサン連中は、モーセの律法に沿って生活しないユダヤ人を裁きまくり、絶えずあら探しをしていたのです。
「裁くのをやめなさい。裁かれないためです!人を裁いている同じ仕方で自分も裁かれ、あなたがだが量られるとおりに、あなた方も量られるからです」――イエスの教えは単純明快です。
靴下脱ぎっぱなし案件をブツブツ言えば、自分も出来ていない事を言われることでしょう。
「なぜ、仲間の目の中にあるワラを見ながら、自分の目の中にある材木に気が付かないのですか?偽善者よ!まず、自分の目から材木を取り除きなさい!」
ワラ……他の訳ではオガクズみたいな物です。分かりやすく、爪楊枝でいきましょう。
自分には材木のような太い罪があるのに、人の爪楊枝のような細い罪をグチグチ言うな!ということです。自分の義を前面に出してしまいます。反省。
「聖なるものを犬に与えてはなりません。また豚の前に真珠を投げてもなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなた方を引き裂くでしょう!」
はい、有名な豚に真珠です。福音の言葉を犬や、豚のような神を呪う愚か者に聞かせても意味がないっていう意味です。
日本では「馬の耳に念仏」でしょうね。
イエスの教えに反対するパリサイ派のオッサン連中は、豚のようにイエスに怒って引き裂こうとしましたね。実際神を冒涜したとキレて、イエスを杭につけました。
神を謙遜に認め、知りたいと願う謙遜な民に、イエスは言葉を続けます。
「求めなさい!そうすれば与えられます!――パンを欲しがる子供に石を、魚を欲しがる子供に蛇を与える親がいるでしょうか。人間の親でもそんなことはしません。まして天の父は、あなた方に良いものを与えて下さるに違いありません!」
そうですね、神様ですものね。人間が必要なものなら与えて欲しいです。宝くじ一等宜しく。
「それで、自分にして欲しい事は、他の人にもしなさい!」マタイ7:12
これが黄金律です。「人の嫌がる事をしてはいけません!」日本ではこちらの教えの方をよく聞いたのではないでしょうか。儒教の影響。
私も幼い頃から、そう教えられました。
キリスト教は、積極的で愛をべースとしています。自分にして欲しい事をするのです。
親切とお節介を気にする私は、当てはめるのが難しい事ばかりです。
カクヨムの世界で考えましょう。
「コメント欲しいな。コメントしよう!」
「星やレビュー欲しいな。この作品つけよう」
「私の作品読んで欲しいな。この作品を読もう」
はい、皆さま、お気付きですか?この黄金律の当てはめかたに無理がありますね。
べースに純粋な愛がないのです。
「病気したときに、お見舞いに来てもらって嬉しかったな。一人暮らしの私、こうして欲しいな。あっ、栄養のあるもの届けよう!」
べースに相手への思いやり、優しさ、愛がないと上手くできません。イケイケドンドンもダメ。
熱があって眠っている時間帯を避けなければ、愛の行動とはならないのです。日々修行。仏教。
イエスは最後に、岩の上に家を建てた思慮深い人と、砂の上に家を建てた愚かな人の例えを用いて、言葉を当てはめる事を促しました。
いい事を聞いても実行しないなら、砂の城となり、崩れ落ちるのです。
頑張ろうと思います。
さあ、山上の垂訓を聞いて、マタイはこのあと、どう活躍するのでしょうか?
マタイがんばれー!
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