第5話 登山妖精、風雪の余白に
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一度だけ、山をやったことがある。
私の山ではない、ミヤの言うところの山を。
それでも、高さで言えば近くはあった。
ミヤの言うところの山。
通常、高峰を一気に登ることはない。
深海へのそれと同じく、人間は急激な気圧差に耐えられないからだ。
焦りという名の傲慢は、判決に高山病から死までを取り揃える。
気温の変化は無論。
100mあたり0,6度。
山をやる者なら、誰もが知る数字だ。
ベースキャンプ2の高度は、6500mをこえていた。
沸騰する水は80度を示し、ここが異界と教えてくれる。
気温はとうに氷点下を割り、専用の
喉は渇き固形物を通さず、足の踵は常に擦れていく。
四肢末端の血管は、スキあらば血を引き上げようとする。
ありとあらゆる身体箇所からの、一刻も早くこの場を離れるようにとの警告。
全員、
それでも、撤退を言い出す者はいなかった。
本当に無理な者は既に、下のキャンプまで退いている。
あまりに臆病過ぎては、山に登り切ることは叶わない。
翌日に備え、テント内で各自、睡眠をとっていたときの事だ。
息苦しさに、私は目を覚ます。
その夜、目を覚ましたのは3度目だった。
体調不良のせいでも悪夢のせいでもない。
呼吸困難による覚醒は、ただただ高地での日常に属する。
通常、呼吸をコントロールし切ることはできない。
足りない酸素濃度を補うべく、意図的に早くすることはできる。
けれども睡眠時には、そのペースが戻ることになる。
結果として、人間の誰しもが、息苦しさに目を覚ますことになる。
高い山、ことに8000m以上への登山が危険なのは、浅くなる睡眠の為でもあるのだ。
目を覚ました私は、他人たちを起こさぬようテントを出、所要を済ませる。
局部は無論、指先は特に念入りに拭った。
わずかな湿気からも、凍傷は忍び寄るのだから。
テントに戻った私に、ミヤの寝顔が目に入った。
思わず近寄り、吐息の届きかねない至近から、その寝顔を伺う。
魚でも眠るのかとの不思議な気分。
その気分はけれど、気づきひとつで破られる。
呼吸。
呼吸が、明らかに早い。
睡眠時でもそのままに。
普段からこうなのだろうか。
思い返すに、そんな記憶はない。
違う。
この魚は。
このセイレーンは。
ミヤの顔にかざした手を、私はそのまま、無防備な喉に伸ばしかける。
「――んー」
その寝言に。
あわてて身を離した私は。
私はふたたび、窮屈な
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