滑る

もくはずし

滑る

 カーテンが開け放たれた窓から、"それ"は見えた。いつも見下ろしていた、統一された黒で染まるべき場所から規律正しく煌めく人口灯は最早私の目には映っていない。


 今見えるもの。

 それは心奪われるほど鮮明に、淀んだ白い靄が光を放ち目前に広がる。白一色ではなく、ところどころに優しく点在する玉虫色の水玉。遠方に見える赤や緑の光の珠が天然の白く巨大なレースを透過し、重なり合って様々な表情を見せてくれる。

 嗚呼、あれほど柔らかな光に包まれるなら何を投げ出しても構わない。


 外の景色に心を奪われたのはいつ以来だろうか。普段、ここから見える景色はいつも同じだ。輝く威光のあの街の住人になるのだと心を躍らせていた日々は今も昔。


 知りたくなかったことも、知るべきでなかったことも飲み込んだ今となっては、窓から見える光源に自ら成り変わっていくことには汚らわしさすら感じる。しかし、今投射されているこの色彩豊かな白く濁った海には、昔抱いていた街への憧れそのものが想起させられた。



 パキッ



 破裂音が耳を掠める。

 ふと見渡すと、プラスチックの破片が散乱し、黒いインクが床をランダムに染め上げている。父から貰った万年筆だ。どうやら、落としたままにしておいたせいで踏み割ってしまったようだ。

 溜息をつきながら、心の中で落とした時に拾わなかった過去の自分の怠惰を責めた。窓の外の光景に心を奪われていた心地よさから現実に引き戻され、若干の苛立ちを覚える。手元に筆記具をこれでもかと置いていることがそもそもの間違いだ。

 木製むき出しの飾り気の無い勉強机の上。そこには優に二桁を超える黒と赤のペン類が数学Ⅲの赤チャートとノートを取り囲んでいる。

 自分のやるべきことと、住処の模様替えの必要に迫られた僕はピシャリとカーテンを閉め、居るべき場所に戻った。



 あれから一週間経ち、机の上には一本のシャープペンしか置かなくなった。カーテンもきちんと夜には閉めるようになった。夕餉の際に両親には模試の結果を伝え機嫌を取ってきたので、貧乏ゆすりへの苦情もなく穏やかに食後が迎えられた。

 心地よい飽食感に眠気を誘われるが、僕にはまだ欲しくもない成果の為にやるべきことがある。あの日の窓から見た景色を雑念と振り払い、机に向かう。


 カーテンは閉めなければならなかった。

 何故なら、あの日は結局その後勉強には手がつかなかったからだ。その上、心なしかちらりと横目なに見える窓の外にはいつもあの靄がかった光の海が漂っていると感じてしまう。実際にそちらに目線を向けたときの無機質な闇と光のコントラストに落胆させられる為、メンタルに悪い。

 特段受験への備えに憂いは無いが、失敗に繋がる要因は少しでも減らしたい。万が一にもあの幻想的な景色に思考を乱されるなど、今の僕にとっては健全とは言い難い。あと1か月しか準備の猶予が無いのだ。

 淡い光を透過するカーテンに後ろ髪を引かれる感覚を残しながら、4回目の168ページを開く。



 本番を明日に控えた今日、最早心配事は体調とダイヤの乱れだけだった。試験会場までは歩いても2時間かからない。例え頼れる交通手段が徒歩のみになろうと試験会場に辿り着けるよう、今日は早く寝てしまおうか。

 室内灯をつけずに自室に踏み込む足には迷いが無い。最近まで散乱していた、在る筈のない書類とペンの山を踏み越えようと大股になりながら、カーテンを閉めにゆく。


 …… あの街だ。


 白く濁った夜を、数多の光の帯が渦を巻く。窓の外には、恋焦がれていた僕の理想郷が広がっていた。それぞれが独立せず、かといって完全に同化もしていない。

無にも等しい闇の中、幾星霜も孤立し尚燦然と光り続ける星々に憧れた僕は、もういない。代わりに、穏やかで混沌とした目の前の世界に魅せられ、手招きされている自分がいた。


 まさか1か月もしない間に、この光景をお目にかけることができるとは夢にも思っていなかった。あれは自身の責務からの現実逃避の兆候であり、僕の思考が作り出した幻覚だと思い込んでいた。


 雑念はすでに清算されていた。行動だけが問題だった僕を引き留めていたのは、この景色が幻想であり現実には存在しないものだというドグサだった。

 しかし、その偏見は憂慮であった。現にこの街は目の前にあり、僕を歓迎している。

 突き放すが如く存在した、あの忌々いまいましい秩序は視界に無い。あとは今までと同じ、そこに歩き出すだけだ。違うのは、誰の指図でもないこと、その一点。

 僕は固唾を呑んで、窓枠に掛ける手に力を込めた。


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滑る もくはずし @mokuhazushi

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