第001話 非・日常

 片桐康平かたぎりこうへいは、どこにでもいるような高校一年生で


 彼が今いる場所は、日本どころか地球でさえない。


 木造や石造の建物が当たり前とされる中世ヨーロッパを思わせる町並み。耳を澄ませば、町中であっても鳥のさえずりりが聞こえてくるほど長閑のどかな時間が流れている。自動車や工場からの排気ガスのもやが立ち込め、光化学スモッグ注意報が発令されるような科学現代社会とは、まったく関係がない世界だった。


 移動手段は馬等に因る馬車移動が主だ。稀ではあるものの、テイムした魔獣の背に乗って移動手段としている人々さえいる。電気やガソリンの代わりに、魔獣から取れる魔石、鉱山資源である魔鉱石マナタイトや人であれば生まれながらに持っている魔力が、様々な産業や人々の生活を支えているのだ。


 そう、この世界は、科学の代わりに魔法があり、魔導学として広まっている分野が技術の骨格なのだ。当然、片桐康平が生きてきた現代日本とは、大分生活様式が異なっている。


 詰まる所、は、ファンタズム大陸というファンタジー世界に、突然、召喚されたのだった。


 ただ、複雑な作りの魔道具は非常に高価なため、一部の貴族や大商人等の資産家にしか手の届かない代物。高度な魔道具があるにもかかわらず、その恩恵にあずかれるのはほんの一握り。


 とどのつまり、科学技術が発展していない世界における一般市民の生活水準は、便利や安定とは言い難く質素である。


 そんな一般市民が住む町並みに馴染んだ何の変哲もない木造の安宿――その二階の一室に、彼はいた――――


「はぁー、これだよ、これ。ここが一番落ち着くなぁ……無事、戻ってきたよ」


 僕は、戦闘で傷ついた身体を休めようとベッドに寝転び、先の戦闘から生き残れた安堵から誰に言う訳でもなく呟いた。


 ヒューマンたちの悲願であった中級魔族を討伐したのは、約一週間前のこと。


 治癒魔法で体力を回復してもらったけど、関節が軋むような痛みだけが中々癒えない。痛みのせいで落ち着くこともできず、体勢を変える度にベッドから軋む音が聞こえてくる。その古びた華奢な木製のベッドに、僕のこの巨体を受け止めろという方が無理なのかもしれない。


 僕は、高校一年生にしてはかなり体格に恵まれている方だ。シングルサイズのベッドでは、足がはみ出してしまいいつも膝を曲げて寝ている。寝返りを打つと僕の体重に悲鳴を上げるようにベッドが軋むのだ……いや、召喚されてから半年近く経っているから、二年生が正解かもしれないけど、このファンタズム大陸に於いてそれは意味をなさないだろう。


「今日もいつも通り放っておいてほしいんだけどな……」


 天井の隅のクモの巣を見つめ、痛みに顔を歪めながら先程言われたことを思い返す。


 戦闘後の祝勝会はいつも僕抜きでやっているのに、内村主将が、「絶対来いよ。必ずだからな」と念押ししてきたのだ。


 月末だから帝国からの給金支給だろうか。

 それとも、中級魔族を討伐したからだろうか。

 まさか、ついに僕のことを仲間だと認めてくれたのだろうか。


 なぜ、今日に限って呼ばれたのだろう……わからない。


「さっき参内さんだいしたときは、討伐の報告のみで何か受け取っていた様子はないし……うーん、魔族戦はいつも通りというか、最後は気を失ったから怒られるのかも……」


 中級魔族戦では、いままで以上に僕は奮闘したと思う。それでも、最後の最後で気を失ってしまい、気付いたらベッドの上だった。だから、ワイバーンで二日で戻って来られる距離なのに一週間も掛かってしまったのだ。


 となると……


「最後のは、絶対ないか……」


 考えれば考えるほど暗い気持ちになり深みにはまる。


 付き合いが長いこの感情を相手するのも、楽じゃあない。


 討伐の祝賀会は、明日の昼から城でもやるらしいから、本当は行きたくないのが本音だ。しかし、行かなかったら後が怖いと考え直し、ベッドを軋ませて身を起こした。


 部屋を出て階段を下りると、そこでも木床が軋んで音が鳴る。宿屋の木扉を開けるだけでも嫌な音が鳴る。まるで、僕の心の声を代弁してくれているかのように。


「はぁ……」


 ついには、重く深いため息が漏れだした。


 ――あー、嫌だ……行きたくない。


 ◆◆◆◆ ◆◆◆◆


 遡ること約半年。


 柔道部の僕は、年末恒例の柔道場の畳の入れ替えを一人で行っていた。


 入部当初、五人いた同級生は先輩たちの執拗なしごきに耐え切れず、みな退部してしまった。つまり、一人でやらざるを得ないのだ。


「おい、片桐。さっさとしないと……いつになっても、終わらねーぞ」

「は、はい、す、すみません、主将っ!」


 柔道部の主将、内村和正うちむらかずまさ先輩がなぜか竹刀を地面に叩きつけ、言葉の間を意識した低い声で僕のことを煽ってくる。いままで竹刀で殴られたことはないけど、いつかその日が訪れてしまうのではないかと、僕は身体を震わせている。


 当然、「柔道部だろっ!」と言ってやりたいけど、無駄なことだ。そもそも、それを言ってどうする? そんなことを言ってもあとが怖い僕は、死んでも言い返すことができなかった。


 ガタイが良いのにそんな性格であることは、入部数か月もしない内に先輩たちに見抜かれている。そのせいか、訓練の厳しさが増した以上に余計な雑用までやらされるようになってしまったのだ。


 結果、怖いという思いもあるけど、言い返したことで僕に対する仕打ちが悪化する可能性の方が高く、言われるがままを通すことを選んだのだ。


 男だけのむさ苦しい柔道場に女神が現れた。


「康平くん、無理しないで休憩しながらで良いんだよ。ほら、ここに飲み物持ってきたから休憩にしましょう、ねっ」


 実は、何度も退部を考えたけど、好きな柔道をこんな人たちのせいで辞めたくはなかったのと、僕の名を呼んだこの女神の存在が大きい。


 大崎葵おおさきあおい先輩は、二年生の柔道部マネージャーで、何かと上級生たちから僕のことを守ってくれる可憐で心優しい憧れの人。


 柔道場の引き戸を開けて入口から声を掛けてくれた、葵先輩の腰の辺りまで伸ばした黒髪ストレートは冬の乾いた風にたなびいている。


 一瞬、前髪を押さえるように俯いてから顔を上げた葵先輩の一際大きな黒い瞳と目が合う。見つめられると吸い込まれそうなほど美しく、僕の手が止まる。


「おい、片桐、手を止めるな! 大崎っ、甘やかしちゃだめだろうが!」

「そうだよ、葵ちゃん。甘やかすと調子乗るからな、こいつは」


 副主将の高宮雄三たかみやゆうぞう先輩と二年生の山木雅浩やまきまさひろ先輩は、僕に優しくする葵先輩の言葉を遮るなり睨みつけてくる。


「副主将も山木くんもそんなこと言って何もしていないじゃない」

「葵ちゃんはわかってないねー。これは、一年生が柔道場に感謝をするための恒例行事。伝統なんだよ」


 山木先輩はそう言うけど、先輩たちのほうが僕より感謝が足りないと心の中で突っ込んでやる。去年、山木先輩も同じことをやったはずなのだから、この大変さを知っているハズなのに休憩をさせる気はないらしい。


 畳は見た目以上に重く、かなりの重労働なのだ。


「そうでした、そうでした。じゃあ、先輩たちがいても意味がないから部室で待っていたらどうですか?」


 葵先輩は、僕が休憩できるようにするためなのか、先輩たちの背中を押して入口の方へ誘導していく。


「さぼるんじゃねーぞ。さっさと終わらせて報告に来いよ」

「はいっ、主将!」

「そうだ、先輩。終わったらカラオケ行きませんか? なあ、葵ちゃんも行くだろ」

「えー、どうしようかな……」


 このあと、どこへ遊びに行くかの話に気をとられたのか、先輩たちの意識はもう僕には向いていない。それでも、先輩たちの姿が見えなくなるまで気を抜かないように、彼らの後ろ姿を最後まで見送る。そこで、下を向くようにして葵先輩が、僕の方を盗み見てウィンクして微笑んでくれた。僕は、静かにお辞儀をして感謝を伝える。


 やっぱり、女神だ!


 拳を作った両手を腰のあたりから円を描くように天井に向け、ぐーっと伸びをする。そして、ふう、と両腕をだらんとさせる。


「よし、少し休憩してさっさと終わらせるかな」


 葵先輩が用意してくれたお茶で喉を潤し、息を吹き返す。

 ふつうのお茶なのに、癒しの効果があるかのように力がみなぎってきた気がした。



――――――



 畳を全て入れ替え終わった。古い畳をゴミ置き場の方へ運び終えたそのままの足で、報告のために部室へと向かう。


「失礼します。終わりましたので報告に来ま――」


 僕が完了の報告のために部室の扉を開けると、異変が起きた。


「うわ、まぶしー」

「きゃっ」

「片桐、何しやがった」


 山木先輩と葵先輩が、突然の光に反応し、高宮副主将は僕のせいにする。


「ぼ、僕は何もしていません」

「じゃーなんなんだよ、これはっ」


 当然、そんなの僕にわかる訳がない。素直にそう言い返したけど、信じてくれるハズもなかった。


 一〇畳くらいの部室は、小上がりになっており、その畳の上に座ってくつろいでいた先輩たちは、突然の光にパニック状態である。畳の上に描かれた、見慣れない文字で円の中を埋め尽くした模様が、目をさすような光に目を細めた僕の瞳に映った。


 模様からさらなる光が発生し、僕たち五人を包み込むのだった。

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