第9話
「賄賂です?」
「誠意だよ」
そうして少女がどこかへ電話したり、依が救急車で運ばれたり、それをこっそり見届けたりした後で、駅前にあるチェーン店のファミレスで女子高生に詰問される成人男性の図が出来上がった。夜の八時半のファミレスは、平日であっても仕事帰りらしき人々や家族連れでそこそこ賑わっていた。少女は釈然としない顔のまま、背の高いチョコバナナパフェをつつく。俺はドリンクバーの薄いコーヒーをすすり、口を開いた。
「それじゃあ、事実を統合しましょうか」
今回の騒動から、幻や錯乱や思惑を引き算して整頓すべきお時間だ。
「まず、俺が私怨から彼女、吉木依に原瀬川に突き落とされたことが今回の件の発端でしょうね。そして彼女は何故か、俺を殺してしまったと思い込んでいたようでした。そして落城の折に身内を殺した女の幽霊に憑かれた、と」
「その霊とあの今風の女の人が、お兄さんを呪った。そっか、だからお兄さんに拒絶されても呪いが落ちなかったのか。本体は別にいたんだもんね。そしてその呪われてるっぽい気配を見て、あたしはお兄さん自身に何かがとり憑いていると勘違いした。しかもお兄さんにまでその認識を共有したため、お兄さんは自分の中の幽霊を強く意識した。結果的にお兄さんの認識には強いバイアスがかかるわ、幻覚や幻聴を現実のものとして捉えるわで精神状態がてんてこ舞い」
あの川の呪いは認知と承認と肯定に飢えているから、その存在を知った人により強く干渉するんですよう、と少女はスプーンを回す。俺の前であの怪しいお嬢さんのキャラづくりをすることはやめたらしい。少女の話を頭の中で反復し、はたと手を打つ。
「つまり呪いだなんだの話をされなければ、俺はもうちょっと冷静でいられた?」
「……おっしゃる通りです」
「いやまあ、過ぎたことだよ。本当に呪われていたわけだし、詳しい事情を知らなきゃ信用もできないし、うん」
それにおそらく少女の話がなくとも、俺は遅かれ早かれ浄土思想を妄信した幽霊の思考に中てられていただろう。もしかしたら、それが自分自身の考えだと疑いもせず幽霊に取り込まれていたかもしれない。それくらい、寺生まれの俺にはちょっと相性が悪い考え方だった。でもさすがに、何の対策もせずに依を待ち伏せしようとまでは思わなかっただろうけれど。しかしこうなってくるとどこまでが自分の意志で、どこまでが幽霊やら呪いによる誘導か自分でも分からないな。
「最初あたしは、あなたのことをただ川に落ちたか、通り魔に突き落とされた被害者だと思っていたんです。でもお兄さんの話しぶりから、あなたが犯人である誰かを庇っている可能性を思いついた。しかもなんか遠ざけられそうになりますし? 怪しすぎ」
「ごめん。いや俺は俺で、依も呪われていて、川へ人を突き落とす通り魔の犯人が彼女だと気づいてしまったから」
「あの女の人は勘違いの殺人の罪悪感に付け込まれたのでしょう。そして幽霊の認識に則って、殺すことでその人を救っているのだというふうに認知を歪めた。だから見知らぬ他人を川に突き落としていたけれど、どうしてか殺したはずのお兄さんがまだ生きていると、ああ、えっと、あたし、あたしが勘違いして二日連続で呪いを祓ってしまったので、その、お兄さんを祟り殺しきれてないことに気づいちゃったのかなあ。それで呼び出してカチコミするっきゃねえ! みたいな強硬策を……」
「あー」
少女は話しながら、自分の言葉に少しずつ顔を青くしていった。すごい、この子のやることなすこと大体裏目に出る。いや依のことを隠そうとした俺も悪かったけど。少女はことんとスプーンを机の上に置いて、深く頭を下げた。キューティクルがくるんと黒髪に輪を描く。
「すみませんでした。偉そうな口叩いたくせにお役に立てないどころか、お兄さんを危険に晒して……」
「あ、いや、俺も依のことを前科者にしたくないからって嘘ついてたし、というか結局最後には助けてもらったし、謝ってもらうこともないというか」
誤解や行き違いは解けたけれど、互いの過失が事態をややこしくしていたという事実が残された。救いようがない。揃ってぺこぺこと頭を下げること3分。なんとなく、顔を見合わせて溜息をつく。手持無沙汰にコーヒーカップへ触れれば、思ったよりも熱くてすぐに指を離してしまった。
「依は、どうなりますか」
少女はそれを聞いて、一瞬だけ眉をひそめた。大方俺と彼女の関係にでも思いを馳せたのだろう。それでも色の薄い唇を指の背でなぞり上げ、しゃんと背筋を伸ばした。
「おそらく、傷害罪に問われるでしょうね。うちの親戚が警察とかに掛け合って、呪いに関連した心神耗弱? ということで減刑はさせるでしょうが、呪いの発端と肥大化は彼女の悪心です」
「そう、ですか。それは、うん、嫌だな」
依の悪心。俺は彼女の行いの中で断罪されるべきこととは、他人を巻き込んだこと以外ないと思う。前も、今回だってそれは変わらない。特に今回に関してはほとんど正気じゃなかったのだから。依の行いを悪とするなら、俺だってその報いを受けるべきだ。だって彼女をそうさせたのは俺だから。だから俺を、俺だけを殺そうとしたのなら。
「……ねえ。でもお兄さんは人の心配より、ご自分の心配をするべきなんです」
「俺?」
「耳、貸してください」
少女が手招きするので、ファミレスの大きな机に身を乗り出す。少女は俺の耳に頭を寄せて、髪の毛を1本引き抜いた。予期していなかった痛みに思わずそちらを睨み上げれば、赤い瞳が見返している。少女の爪先が不自然なほどきらめいた。違う、きっと目にも留まらないような火の粉が瞬いたんだ。細く白い指に摘ままれた俺の髪が燃えるように輝いて、その端からぱたりと赤い雫を零した。それは、まるで、そう。
「お兄さん、まだ呪われているんですもの」
しなやかでたおやかな声が、ひどく遠くから鋭く聞こえた気がする。その言葉は昨日にも聞いたものだった。俺から離れた少女が机に落ちた赤に指をかざすと、それはすぐに消え失せる。夢のように、幻みたいに、最初から何もなかったように、何も残せなかった死者みたいに。それでも俺の網膜にはその赤色が焼き付いたように離れなかった。鼓膜よりずっと深いところでおんなが笑う。それはそれは幸せそうに笑っている。おれのことを、わらって、いる。まだ生きたいのって、いきて、どうするのって、おんなが、よるが、おれのことを、ころしてあげるよ! ゆうくん。ゆうくん、ゆうくん、死にたがりの、ばかな、ゆうたろう、く。
「呪いは!」
少女が俺の手を握った。唇の端はぎり、と噛み締められている。あたたかい。そう思った。その感覚で俺は浮上する。浮上。そうだ、鼓膜の奥の、体の芯の、肺の行き止まりの、脳髄の中にできてしまった冷たくて深い水の中から、少女は俺を引きずり出してくれる。
それでもまだ冷たくて、寒くて、自然と少女の手を握り締めていた。そのことを自覚して、笑ってしまいそうになった。この子は女子高生で、妹と同い年で、そんな子供に縋りついているのか。馬鹿みてえ。違う、馬鹿そのものだ。それでも少女は強く、暖かな手で俺を掴んでくれる。
「さっきも言いましたよね。この街の、あの川の呪いは、いつだってとても肯定に飢えています。だって原瀬川では、名もなき多くの誰かとして亡くなった人が多すぎるから。お兄さん、呪いを受け入れてしまいましたね。その証がばっちり体に残って、染みついてしまっている。だからお兄さんは、きっとこれから無数の呪いを引き寄せてしまう」
「ああ……」
心当たりはあった。依と対峙したときに死んで、殺されてしまっても良いか、と思ったのは本心だ。今だって、それで少しでも彼女が満足して、苦しまないなら、死んでしまっても良いと思う。この数日間のせいで、俺はなんだかどうしようもなく死にやすくなってしまったようだ。それが呪いを受け入れたことよる副作用か、それとも元来俺が持ち合わせていた性質が現れたものか、今の俺にはきっと正しい判別がつかない。つけようとも、思わないけれど。
「お兄さんをミディアムレアにして良いなら、今からでもあたしが残さず祓ってあげるけど」
「それはちょっと」
少女は、ですよね、と下手くそに微笑んだ。冗談だったんだ。そのままゆっくりとうなだれたので、俺からはもうその顔が見えなくなる。チョコバナナのパフェはもうどろどろに溶けて、アイスもチョコレートソースも一緒くたに硝子の容器の底に沈んでいた。
「ごめんなさい。あたしのせいだ」
繋がったままの手は暖かさと、少しの震えを俺に伝えてくる。思えば、この子の手はいつだって暖かかった。それがパイロキネシスじみた超能力っぽいものの影響だったなんて、全く思いもよらなかったけれど。あのお守りだって、暖かくてさ。素っ裸でそれに縋りついたのが随分前のことのようだ。溜息をつく。閉じた目蓋の裏で、賑やかで晴やかな爆竹の閃光が瞬いた。少女の背が、その、混じりけのない瞳の赤色が、もう熱烈に俺に焦げ付いてしまっている。
救ってあげるって、いいやそう言われる前から、俺は少女に救われている。
だから、まあいいか。
飲みかけのコーヒーを一息に飲み干す。ちょっとだけ強めにカップを机に置くと、少女はその音に促されるようにこちらを見上げた。だから俺はその顔を覗き込みながら、意識して晴れやかに笑う。
「じゃあ羽束さん、俺に憑きそうになる呪いとか幽霊とかそういうの全部、祓ってよ」
「え」
少女が、羽束さんが、呆気にとられた顔で俺を仰ぎ見る。その両の瞳は目の縁に溜まった涙のせいできらきらと光を乱反射していた。その水面に、俺の顔はどう映っているだろう。なるべく勝気で、強気で、少し怪しいくらいで、それでいて暖かで、頼り甲斐がありそうに映れば良い。
「依についての一連の顛末は、まだ誰にも言っていませんよね?」
「あ、うん。お兄さんに話を聞いてからまとめて上司、じゃないけど偉い人達に伝える予定でした。だから彼女が犯人で、何かにとり憑かれていて、お兄さんが何故かとても呪われていることまでしか伝えてない、です」
「うん。都合が良い」
「……何に?」
「順番を逆にするのに」
羽束さんはいよいよ訳が分からないように眉間のしわを深くした。俺は疑問を挟ませないほど過剰なくらい笑ってみせる。
「俺達は前提条件を間違えていた。俺は、元々呪いに付け込まれやすい質だった。それで、たまたま俺に憑いた何かが、依に襲い掛かろうとして、反射的に彼女は俺を川に突き落とす。それでその罪悪感から、戦国時代に幼子を殺したおんなの霊に憑かれてしまった。後は現実通りの展開。それなら依はまっとうな被害者で、俺もまあまあ被害者。それで今回の件の事後観察も兼ねて羽束さんは俺を監視する、と」
そんなことをうそぶきながら、俺はこんな浅知恵が通用するとは思っていたなかった。相手は仮にもこの街に巣くうという呪いの専門家集団だ。それでも非公式で、不合理な存在ではないかと思う。だって、扱う内容が呪いなんて眉唾なものなんだから。俺という今回最大の被害者が何も被害なんて受けてない、それどころか自分が加害者だと主張すれば、きっと表立った反論はできないだろう。それで良い。嘘で、誤魔化しで、依が罪に問われなければ、それが一番求めていることだ。
羽束さんはしばらく目を白黒としていた。それから我に返り、でも言葉は感情に追いつかないらしく手を右に左に振り回した。元気だなあ。
「ま、待って待って待って! それじゃあお兄さんひとり貧乏くじじゃないかな?! ていうかあの人達を説得できるかもわかんないし、それにこの街の呪いはほんと洒落にならないやつもあるし、それを、それを今回あんなに失敗したあたしが」
どうせ生きている限り一切は苦しみへ通じる。ならば俺は、せめて自分の周囲の人間が俺のために苦しむ様なぞ見たくない。俺がこの体に呪いを集め続ける限り、俺の嘘は検証され続ける余地を生み出す。それが不可能で、この身に余る望みであったとしても、そう願ってしまったんだから仕方ないじゃないか。苦しみを与えてしまったならその分だけの救いを与えたいと、夢想してしまったのだから。
「俺のこと、救ってくれるんでしょう?」
そう囁けば、少女はいよいよ呆けたように俺を見た。それでも、その瞳はまた強い光を宿す。火打石が散らす火花に似た輝き。俺達の前途も祝してくれれば良いけれど。羽束さんは数回深呼吸を繰り返し、そのまま俺を仰ぎ見た。その顔にはちりりとした諦念と、跳ね上るような勝気さと、僅かな期待が照り返していた。
「ええ、ええ。あたしは、あなたを救います。そう、約束したもの」
その眼差しは炎。きっといつか、何もかもを燃やし尽くす。
水死体のような俺には、それが何より美しく思えた。
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