第8話
「いやだ」
ぱん、と場違いなほど軽い音が、して。
それから聞こえたのはいくつも連なった破裂音。鼓膜がじんと痺れる感覚に襲われる。これは、これは? 場違いなほど賑やかで、晴れやかな火薬の弾ける音。ぱん。そしてほぼ同時に閃光が、黄色がかった炎が立ち上って、俺は思わず耳をふさいで尻餅をつく。視界の端でまばらな輝きに照らされて立ちすくむ依が見えた。
音と閃光はしばらく続いて、煙がもうと辺り一帯に立ち込めている。あれは、きっと、俺の思い過ごしでなければ、地面に視線を走らせる。そこにはもう血のついた髪の毛なんて一筋も見当たらなかった。あるのは燃えさしと、白く焼けたアスファルトと、茶色の靴が、靴、これはローファー、翻ったのは濃紺のスカートで、ぱんっ。また破裂音がして、煙が晴れる。ローファーが力強く、橋のアスファルトを踏みしめた。
「あたしはまだ、お兄さんを救ってない!」
私もね、ふつうのおんなのこじゃないの。
爆竹はまだそこかしこで破裂していて、その音と輝きが煙に反響して拡散されていく。踊る火花は緞帳のように展開していた血染めの黒髪に穴を穿つ。ぎらり。少女の手元がひときわ強く光って、またいくつもの爆竹が中空に放り投げられた。そうして桜のようにう舞い散る小さな火が春の夜闇をずたずたに裂いていく。その中で、何もかもを燃やし尽くさんばかりに赤く、抵抗も馬鹿らしくなるほどに熱く、少女の瞳は輝く。あたりは煙に閃光に夜闇に呪いに、それはもう酷い状態だ。
けれど少女だけは、その瞳の赤と、勝気に弧を描く唇だけは、やけに鮮烈に俺の網膜に焦げ付いた。
折井羽束は俺と、まだ頭を抱えて立ちすくむ依を隔てるように、爆竹を一掴み左手に携えて立っていた。俺は、俺といえば、まだ状況が飲み込めなくて、彼女はライターも持ってないのにどうやって爆竹に火をつけたのだろうと場違いなことを思っていた。ぎらり、と赤い瞳がしゃがみ込んだままの俺を睥睨する。
「家訓その十七、依頼人は嘘をつく」
「は」
「うちの一族は人に憑いた呪いを祓うって言いましたよね。呪いってのはとり憑いた人間の思考や意思やらを書き換える。だから、依頼人の話は信用できたもんじゃない」
制服姿の少女はやたら早口にそうまくし立てて、歯をむき出さんばかりに俺を睨んだ。そこにはもう、うちの店にいたときのような冷静さや、怪しさはまるで見当たらなかった。それどころかいかにも乱暴に、がしがしと頭をかいてみせる。
「ああもう、初仕事だってのに面倒なやつに当っちゃったなあ! ていうかお兄さんは後で事情聴取ですからね! ほんと、あんまりにも下手な嘘だったからもっとなんか企んでんのかと思ったら」
「あの、後ろ」
「はい?」
少女が俺から目を逸らし、依へと向き直る。依へ、あるいは彼女にとり憑いた幽霊へ、先程の衝撃からはもう復帰して、また血みどろの髪をこちらへ伸ばしているおんなへ。
げえ。少女は一瞬だけ頬を引きつらせた。その表情は本当に素直に、自分の失敗を物語っていた。けれどすぐにその瞳は強く輝いて、文字通り赤く、輝いて、爆竹に右手をかざした。短く息を詰める音がして、髪が、肩ほどの少女の黒髪の毛先が、風を受けたように丸く広がる。風が起きたように、大気が揺らめいて。
「こうして!」
まっかな火が、少女の右の指先に灯っていた。
瞳はもう爛々ときらめいて、眼差しすらも熱く夜闇を焼く。小さくとも眩い火は、五指から爆竹の導火線へと滴り落ちた。雨粒が天から降り注ぐように、それが当然のように、落ちた火は導火線を走る。そうして少女がそれらを放ると同時に、夜空いっぱいに破裂音が響き渡った。俺は反射的に耳を塞ぐ。ずるりずるりと髪を伸ばす彼女も一瞬だけ動きを止めて、その隙に少女が地面を蹴った。
「こう!」
少女は一瞬で距離を詰め、呆けた依の腹に向かって掌底を打ち込んだ。煙に吹き荒れる桜の花びらと、火花を散らして舞い落ちる爆竹。喧しく照らされる夜の橋の上で、少女のセーラー服が翻る。依は口から息と唾を吐いて、大きく開いた口から真っ赤な舌がだらりとはみ出した。真っ赤な舌が、真っ赤な、まっかな着物の裾が、彼女の口から覗く。
それでも依は少女ではなく、俺を見ていた。
まっすぐな視線で釘付けにされ、首筋に圧を感じる。這い上がってきたおんなの、おんなの長い髪が俺の首を絞める。地上にいるのにひどく息苦しい。少女は俺の様子には気づかずその爪先に炎をまとわせて、着物の裾を依の口から引きずり出した。長い袖に包まれた、白く細い傷だらけの両腕が、春の夜に顕現する。依が崩れ落ちるとその腕は少女へ飛びかかった。俺は思わずままならない体で彼女らに駆け寄ろうとして、首がきつく戒められる。
殺してあげる!
視界が明滅する。こえがした。私が、殺してあげるから、私、私は何も間違っていないの。だって私はきみのことかけがえのないここにいてくれる私のこと見てくれた見てくれたよね愛してくれたよねゆうくん、だから私、わたしゆうくんが好きだから愛してるから私はわたしはあの雑兵共に捕らえられるくらいならばわたしが、私が殺してさしあげなくてはもうここには誰もいない誰も、だれも、みんな、死んでしまって、殺されたのだ! だから若様をころしてころしてころして助けてさしあげねばそうだ助けるのだこれは、これは救いだ、救って差し上げるのだから、だから間違っていない間違っているはずがないわたしは本当に愛して愛してだから水に苦しまないようわたしが首を絞めてさしあげますからねだから、だから、だからねえ。
わたしのことをこばまないで。
声が聞こえていた。依と、きっと落城の折に川へ身投げした、自身の手で幼子を絞め殺して、浄土を希求したおんなの、声。依についた、俺にかけられた、呪いのことば。首筋にぱたぱたと水滴が落ちた。俺はそれに、巻き付いている髪ごと触れる。不思議と気持ちは凪いでいた。苦しいよなあ。生きることは皆、一切が苦しみだ。浄土は遠く、輪廻は巡り、生まれついたここは地獄だ。俺も、依も、とっくに死んでいる彼女も、みんな。生きてなんかいるから、この世に、生まれてしまったから、だから、だったらいっそもう。
「お兄さん!」
ぱん。
耳元で爆竹が弾けた。その衝撃で、俺は春へと回帰する。地面に落ちた両腕と依の側で、少女は肩で息をしていた。そうしたものを認識するのと同じくして、首に絡まっていた髪が落ちる。それに伴って、先程まで五月蝿いくらいに響いていたおんな達の声も消えた。首筋が、やけに涼しかった。締めてきた手に、暖かさを感じたことなんてなかったくせに。だから俺は立ち上がり、ゆっくりと肌寒いそこを撫でる。
「お兄さん?」
「いや、うん、大丈夫です。ありがとう」
「そりゃどうも。でもお兄さんが嘘ついたことは許しません」
「あー。ごめんね?」
「許しません!」
力強く言いきって、少女はふんすと鼻を鳴らす。嘘をついた。さて、どれのことだろう。少女には依のことを隠していたことか、幻覚や幻聴と現実を一緒くたに語っていたことか、それとも空を通じて少女を遠ざけたことか。もうどれだけ嘘をついていたのかも自分では分からない。
少女は俺に背を向け、地面に落ちたままになっていた一対の腕を見やる。その腕にはもう、傷はひとつも残っていなかった。きっと最初から、彼女の腕は血にまみれてなんかいなかった。川上の山城が落とされたのがいつなのか、俺は知らない。けれど決して短くはない年月を経ても、おんなは自分を許さなかったのだろう。長い黒髪と、腕だけの幽霊。いつかの彼女が殺して、助けて、浄土へ往生させようとした若様の顔を忘れ、腕と髪以外の自分の姿も忘れ、それでもなお幼子の首を絞める自身の腕と、その首にかかる自分の黒髪のことは忘れられなかった哀れなおんな。
少女は依が気を失っていることを確認して、腕のそばへとしゃがみ込む。両腕はまだもがくように黒髪を絡ませ、ひくりひくりと動いていた。少女は悲しみや悔しさをないまぜにした表情でそれらを見つめて、両手を静かに合わせる。ほんの一瞬だけ目を閉じて、すぐに立ち上がった。赤くきらめいた指先を軽く振ると、少女の爪ほど小さな火の玉がぼうと現れた。
「あなたの動機も、記憶も、何も知らない。だから安らかに眠れなんて言わない」
指先に灯った火が、雫のように落ちていく。赤い瞳で、少女は彼女達を見ていた。火に当てられた着物は灰のように、弾けて崩れて消えていく。そして手が、腕が、髪が、おんなの記憶の残滓が、一際大きく弾けた。後に残ったのは爆竹の燃えさしと、地面に倒れた依だけだった。舞う火の粉が少女の顔に陰影を落としたから、身の丈に合わない厳めしい顔はどこか幼いものに見えた。
「あなたのことなんにも知らなくても、あたしは全部を燃やさないといけない」
夜風が俺の髪を揺らす。人肌ほどの熱を帯びるような痛んだ髪が、首に触れては離れていく。焦げた香りが鼻をついた。桜は散って、彼女は何も知らない顔で橋の真ん中で眠る。
少女が俺を仰ぎ見た。その瞳からすうっと赤色が遠ざかっていく。春だった。何もかもが燃え尽きて、変わってしまう春の夜だった。
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