第7話

桜はもう満開になっていた。


夜闇の中でひらりひらと小さな明かりに照らされる花びらは美しく、なんだか面白くない。俺がもみ合っていたときにうっかり蹴り壊してしまったぼんぼりは、壊れたままで放置されている。申し訳ないなあ。川面を眺めながら、うっそりと溜息をついた。けれどそもそも、俺は桜があまり好きではないのだ。だってこれ見がよしに諸行無常を象徴しているから。暗い畑の奥に、相変わらず場違いなアパートが見えていた。自転車はまた倒したりしないように橋の前に停めてある。だから俺はひとり、彼女を待っていた。


この川に呪いだなんだというものがあったから。俺が幽霊なんかにとり憑かれてしまったから。少女が偶然にもそれを指摘してしまったから。ひとつひとつの事柄が絡まって、こんな面倒なことになってしまったのだ。本当なら、もっとシンプルに法令と賠償で表せるような事件だった。あるいはただの痴情のもつれ、とだって語られてしまう事件だっただろう。そこに不満はない。真実も同様にないけれど、それはどうだっていいことだ。


そう、どうだっていいことだ。俺が、彼女に会えさえすれば。


俺が高校時代に彼女と付き合っていたのか、付きまとわれていたのかもどうでもいい。大学へ進学しないことがばれてしまった卒業式の日に、彼女が俺の実家のお寺で裁ちばさみを振り回したことも仕方のないことだった。そうして今、後ろから首筋に手をかけ頸動脈を締めてきたことだって。


「それは良くない!」


いつの間にか視界を埋めていた、赤いまだら模様の黒髪を払いのける。シルクのカーテンのような手応えの髪を掻き分けて、なんとか振り返ることができた。いつの間にか、俺に憑いているという幽霊に思考が乗っ取られていたようだ。これが呪いか。多分。それは良くない。彼女を前科者にしたいわけじゃないから、俺はわざわざ夜にひとりでこんなところへ来たというのに。民事、民事で片をつけられる範囲にしてくれ本当に。そしたら俺は訴えないから。


「え、だめなの?」


吉木 依(ヨシキ ヨル)は、無邪気に首を傾げた。心底不思議そうに唇をすぼめてみせる仕草からは、夜闇にまぎれて人を川へと突き落とすようにはまるで見えないだろう。同様に、つい今さっきまで人を絞め殺そうとしていたとは、きっと考えられまい。彼女という人間をよく知っている俺だって、その容姿からだけなら画一的な女子大生としか捉えられない。肩の上で暗い茶色の髪を内向きにカールさせて、紺色の花柄スカートを膝上で揺らし、華奢なフリルのついた七分丈の白いブラウスを身にまとっている、ありふれたおんな。


ただその腕一面にびっしりと、髪の毛のように細い切り傷が刻まれていることに目をつむれば。


「どしたの、ゆうくん。黙っちゃって。あ、この腕? 大丈夫、痛くないよう。でも心配してくれるのは嬉しいなあ」


照れるように、誤魔化すように、依は自分の腕をさすった。彼女が傷口に触れるたび、それらは脈動でもするみたいに深く広がっていく。傷は腕の表面を、手の甲を、掌を、指先を、赤く蹂躙していった。俺は自分の喉がひきつるのを、まるで人ごとのように感じた。視線ばかりが赤色にとらわれて、無意識に一歩退いていた。そのことすらも欄干と靴がぶつかる音で気づく。随分見苦しく怯えているだろう俺の顔を認めて、依は笑った。桜が奇麗だねと、そんなことまで言い出しそうなほど日常に準じた笑顔だった。


「よる」


「なあに、ゆうくん」


「ここ数日間、街の若い男を原瀬川に落としていたのはお前か?」


分かり切ったことを尋ねれば、彼女は不満げに髪を梳いた。腕は変わらず流血している。少なくとも俺にはそう見えていた。絶えず多くの赤子に縋りつかれるように刻まれるその傷口からはまっかな血が滴る。腕を、手首を、手の甲を掌を指を爪先を、血は流れていた。彼女の指に触れられたそばから、はしゃぎすぎていない色味の茶髪にはべたりと血が付着する。依は髪の毛先まで撫で下ろして、撫で下ろして、その指先の動きに追従して肩の下から胸元、腹のあたりまで血染めの髪が伸びる。ずるりと、髪は伸びていく。ずるりと、意思でも持っているかのように血染めの髪が、依の、髪が、まるで絵巻物の中のおんなのように、髪が、血染めの髪が、腰を越してまだ止まらず、伸びて、伸びてのびてのびて地面まで俺の足元までおれの、おれのあしにからんで、絡んで縛って戒めて逃がさない逃がさない逃がさない逃がさない逃がさない逃がさない逃がさない逃がさない。


「そうだよ。私じゃない」


その笑みが、あまりに美しかったから。俺は、彼女は正しく呪われているのだと分かってしまった。


「確かにわたしがあれらを川へ落としたけれど、でも、それが目的みたいに言われるのは違いまーす」


くるりと、依はその場で回って見せた。くるりと、赤い茶髪が帳を編むように夜に展開する。女神様。彼女に突き落とされた誰かは、吉木依のことをそう呼んだという。俺は彼女のことを女神とは言わないけれど、聖女とならば呼んでも良かったかもしれないと思っていた。博愛主義者なんだと依は自らを定義していた。そしてそれはおそらく間違っていなかった。ある一点を除いては。


「殺すんだよ。ちゃんと、殺す。殺そうとしたの、あの子達を、ゆうくんを、この世から救ってあげるために。ゆうくんだって、しんだらまともなにんげんになれるでしょ」


ああ、でも、もしかしたら、目撃者にとっては本当に女神だったのかもしれない。いくつもの神話で、おんなのかみさまは地母神として語られる。そして並列して、冥府の神であると。おんなは母となるから。そのひとつの身に、生を孕むことができる。生は死を孕む。おんなは生死を抱く。まるで、この原瀬川のように。ならば、この吉木依は正しく女神であろう。元々その素質を持っていたじゃないか。


だって彼女は、慈愛と自愛をのべつくまなしに下賜する。


「だから今度こそちゃんと死んでね、ゆうくん」


そして、その無償の愛を拒む他者の存在を暴力的に恐れている。


「それだけがわたしにできる、あなたを救うための唯一の方法だから」


今俺の耳に聞こえている声は目の前の彼女が発したものか、それとも俺に憑いているという幽霊の囁いたものか。そんなことを一瞬だけ考えた。考えていたと思う。視界も、思考も、もう俺自身のものだという確信は持てなかった。どうにもまっかな呪いに侵食されすぎている。見慣れていたはずの彼女の姿だって、なんだか古めかしい長い黒髪のおんなと重なって、ぶれて、よく分からない。目を凝らしても見えなくて、歩み寄ろうとした足は縛られていて、依はきっと微笑んでいる。


「依」


呼びかけようとした喉に手がかかる。手。髪かもしれない。そうだ思い返してみれば、この幽霊は血濡れた腕と、長い黒髪で構成されていた。この街の呪いによって現実に再構築された死者の未練は、幽霊は、それを理解する人間に憑くと少女は言った。ならば依は、なあ、よる。お前は。くびが、しまっていく。


「今度はちゃんと、わたしにころされて。そうして、すくわれて」


生きていても、生きていてもうつしよの一切は苦しみだって、俺もそう思うよ。皆くるしむために生きているのではないけれど、生きているかぎり、いきているかぎりおれたちはくるしむばかりだと、知っている。だからって死んだら救われるわけではない。ねえ、いつかの昔に死んでしまったあなた。人間は、人間を救えないよ。信じて、そうして死んでも、浄土へ、くるしみのないきよらかなちへは行けないんだ。それでも、人間は人間を救えないけれど、俺を殺すことで苦しみから遠ざかると、そうしんから信じていたなら、他の誰でもないおれを、ころすことだけが目的だったのなら。あのときは怖くて逃げてしまったけれど、今度はちゃんと。


「おれは、殺されてもいいんだよ」

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