第6話

「おるいはつかちゃん? 知ってるよー。後ろの席だもん」


「うっそだろおい」


携帯電話を取り落とすかと思った。嘘じゃないよ、と電波を通して妹の空が怒る声がする。俺は謝りながら、なるほど呪いじみた偶然があるものだと妙に納得してしまった。


実家の妹に電話をかけがてら折井羽束という名前について尋ねたのは、正直もののついでのような気分だった。ただ、あの少女の着ている制服はこの街の、俺の妹が1週間ほど前に入学したばかりの高校のものだったから。当然少女と妹の学年が違うことや、一学年300人ほどいるとのことだしそうそう知り合ってはいないことも考えていた。考えていたというのに、現実は易々と想定のハードルを壊してきたのだった。あにはからんや。むふう、と雑味の多い吐息がする。


「良いけどね! 驚いただけなんだろうしさ。でも羽束ちゃんがどうしたの?」


「あ、いや、今日うちの店に来てさ、名前の入ったプリントを落としていったんだよ。まあなんかの受領書? みたいだったから、本名以外の個人情報はなくてさ、ただ見覚えのある制服だったから一応聞いてみようかなって、うん」


慌ててありえそうな話をでっちあげる。少女と口裏を合わせることができないのは痛手だが、連絡手段がないのでいたしかたない。今日も、また明日来ます、とだけ言って帰ってしまったし。空は気の抜けたような声で相槌を打った。どうにも子供っぽいけれど、これで女子高生としてやっていけるのだろうか。少女とはまるで違う。いや、あれはあれでおそらく何らかのキャラクターを演じているようだけれど、しかし。


「そっかそっか、それは偶然だねえ。私も羽束ちゃんに兄弟がいるって話はしたけど、まさかそんな感じで会っていたとは」


「そうだな」


会っていたどころか、兄さんはその子に従いますって頭下げてるんだけどな。言わぬも聞かぬもそれが花。


不意にささくれた溜息が聞こえた。その後すぐ、誤魔化すような笑い声も。


「なんだ、急に電話かかってきたから何かあったのかと思ったのになあ。兄さん、全然帰ってこないし、家に連絡もよこさないんだもん」


「あー、ごめん」


「べつに良いけどね!」


そういえば最後に実家に帰ったのはいつだったか。卒業式のあった日に家を転がり出て、しばらくは就職が決まっていたからとあの店で寝泊まりして、それじゃまずいからってこのアパートを借りた。そのときに保証人がどうとかで父に会いに行った記憶はある。それから、確か、去年の盆の前と今年の正月の松が取れた頃には挨拶に行ったか。だけど向こうは忙しそうだし、本当に顔を見せただけだったから空には会っていない。


浅い呼吸が聞こえた。呼吸ではない。言葉を出そうとして、戻している音。気が短いくせに言葉を選びたがりな、妹の昔からの癖。俺はいつも、空が話し始めるのを待っていた。それは、結論を急がせて泣かれるのが嫌だったから。ああでも、どうしてか空は家族の中で一番俺に懐いていたんだっけ。


「しかた、ないのかも、しれないけどさ。私は、兄さんがうちに帰ってきたら、歓迎するからね。多分父さんも、きっと母さんだって、大兄さんはまだお山におこもりなんだから、今が一番良いんじゃないかな」


「いや、俺は」


「だいたいどうして兄さんがうちを追い出されなきゃいけないのかな。何で大兄さんは兄さんを殴ったんだ。父さんも母さんも止めようともしなかった! そうだよ何もかもあのストーカーおんなが」


「空」


妹の名を呼ぶ。それだけでもう、空は黙ってしまった。俺が悪かったんだからとか、あの人達は間違ったことをしていないとか、俺は本当に何もかも恨んじゃいないとか、そういう言葉ばかり頭を過る。それでも俺は何も言わないことにした。言ったところで、おそらく空は俺の意図通りの解釈をしてくれない。それは俺のことを好意的に捉えすぎているからであり、長男たる兄貴のことを嫌いすぎているからだ。それはまあ、あの人の自業自得でもあるけれど。


「そのことは、もう良い。元から一人暮らししてみたかったしさ」


「でも」


「良いんだよ」


俺のことは、どうでもいい。


空はしばらく言葉を舌先に留めてから、わざとらしく溜息をついた。今回はこれで話を打ち切るというサインだ。もちろん現状に納得しているわけではないだろうから、この話題は何度でも繰り返されるだろう。それどころか、兄貴がお山から戻ってきたらもっと大変だ。まあもう2、3年は安泰だと信じている。


予定外の話が収束したのを確認して、ところで、と仕切り直す。駄目もとであったこの電話だけど、成果としては十二分だった。俺は空に、友人の折井羽束へCD店にあった落とし物を取りにくるよう言付けを頼む。少女にしてみたら全く身に覚えのない事柄だろうが、そこは機転をきかせてほしい。それに妹は若干思い込みが強い上に鈍いので、よっぽどの下手を打たない限りは俺のことを疑わない。今だって薄情な兄の頼みをすぐさま快諾してくれたくらいだ。


「じゃあ明日にでもお店にその紙を取りに来てって伝えれば良いんだね?」


「あ、いや、明日はちょっと予定があってな。だから明日は来ないで、明後日に来てほしいって伝えてくれ」


「はあい。じゃあ、またね。おやすみなさい」


「おやすみ」


俺は電話を切って、端末を床に転がす。さて、どうしたものか。おそらく少女は、明日店に来ないでほしいということを遠回しに伝えられたと考えるはずだ。それに対してどう思うかは分からないが、あの真面目そうな子なら俺の言うことに従ってくれるだろう。目を閉じる。目蓋の裏で赤色がちらついた。


俺は、彼女に会わねばならない。

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