第5話

「なるほど。お兄さん、幽霊に呪われたのね」


少女はゆったりと頷いた。けれど瞳は、そんな仕草に似合わないほど剣呑だった。


俺は小さく息をついた。昨晩に起こったことを話すのは自分で思っていた以上に時間がかかった。それはもちろん俺が混乱していたからというのもあったし、少女がひとつひとつの事柄について微に入り細に穿って聞きたがったからだ。昨日この店に訪れた段階で、俺に何かしら憑いていることには気づいていたという。けれど大抵の呪いは自然と消えてしまうものなので、気休めのお守りを渡すだけにした。昨日の時点でもっと話を聞いておけば良かったと謝られたけれど、俺にしてみれば少女に貰ったお守りのおかげで助かったので言いっこなしというやつだ。


「血塗れの長い、黒髪ね。おそらくは川に落ちた際にお兄さんと波長が合ってしまった、くだんの落城のおりに身投げした女の幽霊。つまり、女の死の間際の思念がはらせの川の呪いで現実へ仮構築されたもの。そう、考えるべきなんでしょう、けれど」


少女はしきりに唇をなぞっていた。癖なのだろう。カラーリップすらも引かれていないそこは僅かにくすんだ朱色で、今はまっすぐに引き結ばれている。その端が淀むように動いた。すうと細められた目は暗く、何かに迷っているさまを如実に映し出している。少女の言葉は逆接の接続詞を投げられてから続かない。


「歯切れが悪いですね?」


「ああ、ごめんなさい。どうにも腑に落ちなくて。通常、幽霊は存在理由を固持できません。もし昨晩のようにとり憑いている人に存在を否定されたら、ひとしきり暴れたとしてもそのまま消し飛んでしまうはずなんです。お守りも持っていらしたでしょうし。それなのに、お兄さん」


少女は剣呑な瞳を俺へと向ける。一瞬、ほんの一瞬だけその網膜に赤い影が過る。


「まだ、呪われているんですもの」


髪が、首筋を撫でて、絞めて。


思わず両の指で自分の首を覆う。傷んだ毛先だけが柔らかに手を刺した。頭へ上り、下っていくはずの血流が随分遠く感じられた。肉の皮に遮られているから。肉が、ぶやりと溶け落ちた肉が邪魔だ。いや溶けた? 違う俺は生きているのに、なのに脈が感じにくくて、いいや俺は、俺は生きているのか? 生きて、生きている、本当に生きて、いる? 普段ならば笑い飛ばせるはずの疑問が際限なく脳裏を埋め尽くしていく。俺は生きている、まだ、生きて、しまって、生きていきていてもうつしよの一切は苦しいだけなのに皆くるしむために生きているのではないのに、だから死んだら救われる、いいや救われないよ浄土に行ってもそれは仏となるためではなくて、ちがういやだ浄土が、生きているかぎりいきているかぎりおれたちはくるしむばかり。知ってしって知っているでしょうなのにあなたは生きているの、本当に? じゃあどうしておれはわたしあたしわたくしは、わたくしは!


信ずれば、そうして死ねば浄土へ、くるしみのないきよらかなちへ。


ぱんっ。


「ほら、つかれてる」


頭を小突かれた音。少女はまた、赤い瞳で俺を眼差していた。その視線はあまりにまっすぐで、鋭くて、見慣れたセーラー服には全く似合っていなかったのだ。額に触れていた指先は、そのまま髪を伝って落ちていく。そして1本だけ摘み取って引き抜いた。予期していなかった痛みは、俺の意識を完全に覚醒させた。お礼を言うべきか一瞬だけ迷って、口を開きかけたところで薄い掌に制される。少女は今しがた抜いたばかりの髪の毛を、俺の眼前で揺らしてみせた。


「ひっ」


「髪を媒体に憑いているのでしょうね。おとすまで、お兄さんの髪は赤いまだら模様よ」


痛んで明るい茶髪だったはずの俺の髪に、乾いた血のような赤色がべたりとまとわりついていた。脳を圧迫していた声は耳鳴りのように、一塊の笑い声となって鼓膜を、脳を揺さぶる。おんなの声。ああ、あの声はなんと言っていたか。あの、おんなの幽霊は。何を未練に、俺へ憑いたのだろう。浄土。城が落ちて、川へ身を投げ自殺したおんなは、浄土、を目指さんとしていた。実際は、幽霊としてこの世にあるのに。ああ。俺は、おれはそれが、それがひどく哀れで。


「お兄さん? 気分が悪いの? ねえ。ごめんなさい、脅かしすぎました。ちゃんと、私がみんな祓うから、ねえ」


ぼうとしていたようだ。ぼうと、とり憑かれているんだった。少女は焦ったように、俺の肩をつかんで揺らす。必死の形相で、大丈夫、大丈夫と繰り返しながら。わたしがみんな、はらうから。俺は笑ってしまった。なんだか本当に、妹を見ているような気分になってくる。2年前に家を出てから、あまり顔を合わせていないけれど。ああ、今晩電話でもしてみようか。俺が急に笑い出したからか、少女はぽかんとこちらを見上げた。


「いいえ、大丈夫。少し疲れたんでしょうね。ご心配をかけてしまってすみません」


「ううん。私が悪いんです。ごめんなさい」


「いや、ああ、そうだ。ほかに、何か俺ができることはありますか?」


何か、と聞いて少女は小さく声を漏らした。それはあまりにも無防備な声だったから、きっと自分でも忘れていたのだろう。同時にぴょんと飛びずさって、焦ったように頭を下げる。すみません。いいえ、大丈夫です。短く会話を交わして、少女の唇が今度こそきりりと結ばれる。


「川に落ちたときの話を詳しく聞かせてください」


俺はレジの中から椅子を運び出し、少女に勧めた。ちょこんと腰を下ろしたのを確認してから、自分の椅子に座る。そうして口を動かさないまま溜息をついた。何から、どう話したものか。目蓋をおろせばあのときのことは確かに押し寄せてくるけれど、それはやっぱりどうにも言葉にはしがたいことだった。濁流を、感情が起こすそれの中で、俺は語るべきことをとらえ直そうとする。


「川に落ちたのは、3日前の夜のことでした」


少女はいつの間にかその手に小さな手帳を持っていた。掌のうちに収まるようなそれとペンをかまえており、どうにも真面目くさったような目をしている。唇だって真一文字に引き結ばれて、俺を通して別のものを見ようとしているようだ。そのひたむきな視線から逃れるように、俺は視線を落とす。


「ここから家に帰る途中の、橋を渡っている最中でした。混乱していてよく、憶えていないんですが、後ろから急に突き飛ばされたんです。気づいたときにはもう落ちていて、川の中。真っ暗で、冷たくて、自分が押して歩いていた自転車が倒れる音が嘘のように聞こえました。口を開けたら泥水が流れ込んできて、それからはもう無我夢中でなんとか岸辺を目指しました。本当に必死で、よく憶えていないんです。だから、こんなことしかお話できなくて」


「怪我とか、していませんか。それから何かおかしいと、そう思ったことはありますか」


「背中を打ったくらいですよ。ええと、おかしなこと、ですか。そうですね、川が深かったことでしょうか。ほらあの川って、増水したとしても腰くらいの深さにしかならないじゃないですか。でもあの晩は、川底に足がつかなかったんです。ありえないとしても、確かに」


そう。まるで水に手を引かれているような心地だった。少女がすうと眉間にしわを寄せた。何かを口にしかけて、黙る。それを数回繰り返して息をついた。俺がこちらを見ているのに気づき、またにこりと整備された笑みを浮かべる。それでもまだ、眉間にはしわが寄せられたままだった。少女はメモ帳を一瞥して、分かりやすく思案しているような表情を浮かべてみせる。


「ありがとうございます。犯人は、目撃していないのね」


「犯人?」


少女の怯えを含んで呆気にとられた顔で、俺は自分が必要以上に強い声を出していたと気づかされる。しまった、詰問するつもりではなかったのに。俺は内心では慌てながら、けれどそれを表には出さないようにしながら、なんとか柔らかで不自然にはならない言葉を探す。


「いや、幽霊が犯人じゃあなかったのかと思って。幽霊、あの、幽霊って存在が俺はまだ理解できていなくて」


「ああ、そうね。もちろん呪いによって具体化された感情そのもの、例えば幽霊が犯人の場合もあります。でもそれは可能性が低いので、幽霊に憑かれて操られてしまったかもしれない誰か、が暫定的に犯人と目される人物です。……。実はまだよく分かっていないことだらけなの。数日前からお兄さんくらいの年頃の男の人が、原瀬川に突き落とされる事件が相次いで起こっているんですよ。幸い、皆さん怪我もなく無事ですけど。でも……。そうだ、幽霊がとり憑けるのは、その対象にひどく恨まれている人。それから、その恨み辛みからなる未練を理解し受け入れられる人。今回の犯人は、人として存在しているなら、おそらく後者でしょう」


少女は幽霊について左右の指を立てながら長々と説明を続けてくれたようだけれど、生憎俺にはほとんど聞こえていなかった。幽霊。呪い。俺の知っているそうした言葉と少女の言うそれらの間には齟齬があるらしい、ということだけおぼろげに理解した。けれど、今はそんなことどうでも良かった。だって誰かが、俺を、川へ突き落とした、と言う。そうして、その事故はもう何件も起こっている。川が、あの川へ落ちた人が複数人いる。誰かが、それを目論んでいるから。それを、起こしているのは。


「呪いなどとは関係ない、ただの人間の愉快犯かもしれないとも考えられていましたが、そしたらお兄さんの存在がいささか不自然になる。だってお兄さん、昨日の晩や、あるいはもっと昔にでも、川に落とされたりなんかしていませんものね?」


「あ、はい。落ちたりなんかしていません」


「……それじゃあやっぱり、意図して呪いを成そうとしている、ううん、突き落とし通り魔? の犯行というのが妥当ね。そうするとお兄さんに憑いた幽霊がよく分からないのだけど、どうしてか強く呪われてしまったのかしら」


ほとんど反射的に返事をすると、考え事に夢中になっていた頭が現実に引き戻された。少女は小首を傾げていたけれど、すぐにまた俺を見る。持っていた手帳をぱらりぱらりと確認しながら、そうだ、と呟いた。肩ほどの黒髪が頭の動きに合わせて緩やかに揺れる。


「お兄さん、幽霊の姿は見ていませんよね。髪の毛以外に」


「ああ、うん。黒髪だけ、ですね。あとは声を聞いたような気はしますが、ああでも、見えなくても手のようなものに首を絞められる感覚はあります」


「髪と、手だけの幽霊ね。ありがとうございます。実は今回の件では犯人を目撃した人もいるんです。とり憑かれた人間は幽霊に合わせて見せる姿を変えるから、あまりあてにはならないけれど」


「その」


俺は意識してゆっくりと口を開いた。視線も少女の群青のスカーフあたりに固定して、変に動かさないことを心掛ける。口の端が小さくうごめく。遠いように思えていた鼓動がやけに耳の奥で響いていた。鼓膜の奥には濁流がまだこびりついている。そうして頭や耳を、俺を、現実から隔離しているのだ。けれどそんなことは一切表情に出さないように、俺は作り慣れた笑顔を顔面に形成する。


「その犯人って、どういう人だったんですか」


少女は短く逡巡して、小さく微笑む。本当にあてにはならないのですけれど、もし見かけていたら教えてくださいな。そう前置きをして、鞄を手に取って立ち上がった。膝よりほんの少し上にあるスカートが空気を受けてふわりと揺らめく。


「ある人曰く、それはうつくしい、女神様だったそうです」


俺のその表情をどう解釈したのか、少女はまた誤魔化すように微笑んだ。ありえないでしょう、とでも問いかけるような笑みだった。呪いは信じられても神様は信じられないのだろうか。それがなんともおかしくて、俺は苦笑しながら頷いてみせる。


「なるほど。それはそれは」


「ううん、私だってまるっきり信じてはいませんのに。まあ、また明日来るまでにはある程度犯人候補は絞れているはずです。それでは、失礼します」


そう言って律儀に頭を下げれば、肩に触れそうな黒髪が一拍遅れて追従した。少女はスカートを翻し、夕闇すら遠ざかる街へと出ていく。その濃紺の裾がドアの向こうへ消えるのを見届けて、俺はひとり溜息をついた。随分と、長い一日だった気がする。ああ、まだ終わっていないんだった。帰りは少し遠回りして、人の通りが多い方の橋を通って帰ろう。


閉店間際の店内にはもう誰もいない。違う。目には見えずとも、俺に憑いているという幽霊がいるのだろう。髪と首に執着する、はるか昔に死んだおんな。首筋に指先を当てた。そのまま、頸動脈に沿って切り込むように指を下ろしていく。暖かい。あの川とは正反対だ。柔らかい。あの川にそっくりだ。死んだ人間は柔らかい。死んで、川に落ちた人間は、きっとゆっくりとろけていくのだろうから。


「女神ね。あながち、的外れじゃない。なあ、そうだろう?」


おんなの幽霊は同意してくれなかった。首でも絞めてくれれば伝わってきたのに。


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