第3話
「お兄さん、川へ行ったでしょう」
「あなたのことを探していました」
互いに顔を見合わせた瞬間に言葉が衝突して、絡まって、地に落ちる。だから俺達は、有線のかかる店内でしばし見つめ合うことしかできなかった。相変わらず他の客はいない。先に我に返ったのは俺の方だった。手に持っていたはたきをそのへんの棚の上に放り、入り口に立つ少女の方へと駆け寄る。少女は昨日と同じ制服姿で、近づいてくる俺に少しだけ訝しむような顔をした。すぐに非の打ちどころもない顔で微笑んだけれど。
「話を、したいと思っていました。話を聞いてほしくて、俺は、俺はきっとおかしなことを言うかと思います。もし聞くに耐えなかったら遠慮なく店から出て行ってください。だけど、だけど俺は」
案外簡単に再会できたことに、思っていたより驚いていたのだろう。いざ少女を目の前にすると、話そうとしていたことがうまく言葉にならなかった。長いおんなの黒髪が、血塗れの手が、でも、あの温もりが、俺は、俺は何を見ていたのだろう。口を開こうとすればするほど、昨日の夜が遠ざかっていく。ありえないことだって、思い知らされるようだ。自然俯きかけると、少女が不相応なほど鷹揚に頷いた。その瞳は何故か楽しげにきらめいている。輪郭のはっきりとした黒の目。そこに赤色は微塵も浮かんでない。優雅に腕を組む。
「きっとおかしいのはあなたではなく、あなたに起こったこと。私はそう考えています。それで?」
「それで、俺は」
俺に起こったこと。語って聞かせてしまえば、あのふたつの夜が喉元に帰ってくる気がした。けれど少女は美しく、俺を見据えて勝気に笑っている。暖かな微笑みと呼ぶにはいささか輝きが過ぎる代物だった。それでも、だからこそ俺は、一番に言うべきことを思い出した。す、と背筋を伸ばし、そのまま頭を下げる。
「俺は、あなたにお礼を言いたかったんです。あなたのくれたお守り、のおかげで本当に助かりました。ありがとうございました」
「……あは」
頭を下げると、やけに子供っぽい笑い声が聞こえたような気がした。その声が今までの少女にそぐわないように思えて、そっと頭をあげる。するとぱっと口元に手を当て、仕切り直すように咳払いをした。慌てて焦っていないように見せかける仕草は、少しだけ4歳年下の妹に似ていた。だから、この少女が紛れもなくティーンエイジャーであることを思い出す。勝ち気で、不思議な、女子高生。この子は何者なんだろう。昨日の疑問が呼び覚まされた。そんな俺を気にもかけずに、少女は口を手で隠したままこてんと首を傾ける。見せつけられた首筋は、生木を裂いたように白かった。
「ふふ、律儀な人ですね。てっきり助けてくれって、泣きつかれるんだと思ってた」
「助ける? 俺を、君が?」
わざとらしいほど女性らしく、少女は再度ふふっと笑い声を上げた。幼いのか、とぼけているのか、俺には見当もつかない。それに、本当はどうでも良かった。今最も気にしなければならないのは、少女から発された、俺を助ける、という言葉だ。何から。どうして。俺は何も話していないのに。君は。疑問は既に飽和している。かつ、と少女は両足の踵を揃えた。茶色のローファーが暖色の照明を照り返して輝く。女の子にしては過剰なほど誇り高く、少女は自身の胸に右手を添える。
「ええ。不肖わたくし、折井 羽束(オルイ ハツカ)が、お兄さんを助けてさしあげましょう。あの、はらせの川の呪いから」
「のろい」
思わず復唱して、開けたままの口から笑い声まで漏れる。咄嗟に少女のことを思って口をつぐんだけれど。でも、呪いだなんて言われるとは全く考えもしなかったんだ。だって、呪いって、さあ。ありえないだろ。ありえない、ことばかりのくせに、俺はまだ川に落ちるよりも前まで信じていた現実にすがりついている。手放したくないから。かえってこられなくなりそうだから。少女は胸元から喉、そうして口元まで指を滑らせる。その人差し指の爪先が、きらり。強い光を受けたようにきらめいた。まるで、そこに火でも灯っているように。指が、赤い唇をなぞる。
「ええ。そんな非科学的なもの存在しない、なんて言わせませんよ。だってお兄さんはもう見ているはずでしょう? ありえないことを、見たくもないものを、奇妙奇天烈で掛け値無しの怪異現象を、あなたは既に認知している」
どろん、なんて少女はうそぶいて、両の掌をだらりと下げてみせた。その様子からは、どうやっても昨日ほどの怪しさは感じられなかった。可愛らしくはあるけれど、頼り甲斐からは少し遠い。あくまでありふれた、どこか不可思議で、なのに俺を助けると言う、おんなのこ。少女がくるりと踵を返せば、膝の上あたりでスカートが踊った。楽しげに、けれどどこか吐き捨てるように、唇は曖昧な弧を描いている。知っていますか、お兄さん。
「この街は呪われています」
首だけ振り向いた少女が、嘲るように目を細めた。
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