第2話

しかしまあ、川に近づくなという言葉は守れない。


雇われ店長として勤めるCD店から自転車で15分。原瀬川沿いに、俺の住んでいるアパートはある。諸々込みで月々3万4千円。1Kユニットバス付きの安普請だけど、もう2年も住んでいるから愛着はある。住宅街の端に位置しているから街灯も少なく、夜には人通りも少ない。治安はさほど悪くないけれど、それはそもそも住む人が少ないからという理由による。それでも今の時期だけは、花見の客でほんの少し賑やかだ。まだ五分咲きといったところだけど、二、三日もすれば満開になるだろう。


俺は一昨日川へと落とされた橋の前で自転車から降りた。橋の向こうは畑で、ぽつんと忘れ去られたようなアパートが建っている。見回してみたけれど、人影も怪しいものも全く見当たらない。あるのは橋と、川と、桜くらいだ。生暖かい風が吹いて、髪が首筋を撫ぜた。橋の低い欄干にかけられた、プラスチックのぼんぼりがゆらゆらと揺れる。花見客のために自治会が設置しているものだ。行儀良く並んだ白とピンクのぼんぼりは、ひとつだけ電気が消えていた。それを確認して、俯いて、川の水面へ視線を落とす。夜闇を反射するそれには、オレンジの灯りと桜の花びらがまばらに散らばるばかりだった。静かな、ありふれた川。短く息を吐く。


おかしなことなんてひとつも起こらないじゃないか。安堵の息をついたことに気づかないふりをして、俺はそのまま歩いて橋を渡る。フレームの歪んだ自転車は、車輪が回転するたびにきいきいと囁くような金切り声をあげていた。きい。目蓋を下ろす。川からなんとか這い上がった後も、こうして自転車を押して走った。うまく回らない車輪に苛立ちながら、できる限り早く早くと走った。あの日の桜はまだ三分咲きほどだった。全身が濡れて、重くて、寒くて、それでも逃げなければならないと分かっていた。あのまま川にいてはいけないと、ただそれだけの意思で足を動かした。


短い橋だ。本来ならばすぐ、渡りきれてしまうのに、なあ。


その夜のことだ。 


俺はシャワーを浴びていた。頭から温水を被ると、癖の強い髪の毛がべたりと首筋に張り付く。放っておいているうちに随分と伸びてしまったな。もう結べるくらいの長さかもしれない。


シャンプーをつけた手で乱暴に髪をかき混ぜれば、毛先がばつばつと千切れたような気配がした。気にせず地肌をかく。最後にブリーチしたのはいつのことだったか。憶えていないなあ。だけど生まれてこのかた髪のケアだのをしたことがないことは知っている。すっかり痛んだ毛先はやけに明るい茶色になっていたはずだ。光を透かせば毛先が輝くようで、枝毛だってちらほら見受けられる。何色でも良いからそろそろ染め直さないと。シャンプーを洗い流す。シャワーヘッドを置いて、髪をかき上げてから目を開ける。


長い、黒髪が、手に残されていた。


左掌から腕の半ばまで届きそうな黒髪だった。癖のない、ほっそりとした髪質。俺の手の上で緩やかなカーブを描く黒い髪。髪。誰の? のものではないありえないありえるはずがない。誰か、きっと誰かの、誰の、あの、少女のものかも、ありえない、だけどこれは俺のもののわけがない、髪は水を帯びてべたりと腕についたまま離れない。喉が引きつる音を、ぜ、立てた。呼吸がうまくできていない音。置きっ放しのシャワーヘッドを掴み取り蛇口を最大まで開く。すぐに温水が吹き出して、たった1本の髪の毛に対しては過剰すぎる勢いの水が溢れた。張り付いていた黒髪はそのまま目にもとまらない速さでどこかへ消える。今度は安堵のため、喉から息が漏れた。意識的にもう一度大きく溜息をついて、流れたままになっていたシャワーを止めた。自分自身すら誤魔化すような薄ら笑いで腕を見ると、まるで一筋の長い黒髪が張り付いたような赤い切り傷ができている。


どうして。


その切り傷は細く肌を裂いている。つ、と血が肘に向かって流れて落ちた。痛みはない。痛くない。むしろ何も感じない感じていないのに血が止まらない。握っていたシャワーヘッドが手から逃げた。どうして。それはわざとらしいほど大きな音を立てて、たてて、たてたはずなのに俺には聞こえない。どうして血が傷がこんなものがどうして俺の腕に、シャワーヘッドを拾おうとして俯いて首筋から鎖骨から胸元にまで髪の毛がべたりと張り付いて、な、んで、これは誰の、誰のかみで、俺、おれのものじゃない、のに、張り付いた髪はその質量を増し首を首を首を圧迫する。の、どが、ひきつる、音がした。ぜ、ぜ、ぜ! 首、くびが締められて、誰に、そんなの決まってる! だから早く髪を手を指をどかさなくちゃ首筋を掻きむしるそうすると重さは少し遠のいてひゅうっと気道が確保され。され、されて、されてされ。


死んであげればよかったのに!


おんなのこえがした。


言葉が聞こえる、死んで、そのたび、死んで、ひとつずつの言葉で、死んで死んで死んで死んでしんでしんでしんでしんで俺の手、がずた、ずたに切り、裂、か、れ、て。


「ああああ!」


浴室から転がり出る。嫌だ違うおれは、肺の中で川水がとぐろを巻いた。あのとき何もかも吐き出したはずた何もかもから逃げてきたはずだ。それを選んだのだから俺、俺は、川から這い上がることを選んで今ここにいて、生きて、なのに赤色が消えない! いくらタオルでTシャツで擦っても拭ってもまだまだまだ血がまとわりついて違うこれは俺の俺から流れた違う、違うんだ俺は、そんなつもりじゃなくておれは。指先に擦り付ける安物のタオルがささくれ立った皮膚を削る。のたうち回ってもどこにも行けない。床が冷たく赤い、赤い赤い赤い! やめてくれゆるしてくれ何もかもゆるすからだから、何かが指先をかすめる、お、おおれは、それを強く、に、にぎり締める。い、いた、いたく、ない。さ、ほど硬くはない暖かで柔らかなそれをおれは、俺は、俺は。ん。


おにいさん。


手の中にあるお守りは、やはりどこか暖かかった。ポケットに入れっぱなしにしたまま、忘れていた。暖かいというより、俺の指が随分と冷たいのか。冷たいよなあ。夜中に、びしょ濡れの素っ裸で、床に直接膝を着いてさ。寒いはずだ。頭を上げて、あたりを見回したけれど、もうどこにも赤色は存在しなかった。


体から力が抜けて、そのまま尻餅をつく。敷いてあったはずのマットはいつの間にか蹴飛ばしていたらしく、素肌のままの尻が床に落ちた。その冷たさが体にのぼってくるように、今の自分がどれだけ無様かがじわじわと理解されていく。俺は笑いそうになって、自分の指先がまだ震えていることに気づいた。無理矢理、持っていたお守りを握り締める。俺はきっともう一度、あの少女に会わなければならない。手がかりは制服だけしかないけれど、それでも。


川になんか、近づかなきゃ良かった。もう、何もかもが遅いのだろうけれど。


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