花が散る散る春の夜

絢木硝

第1話

「朝若祐太郎さん。あなた、川へ落ちたでしょう」


そう言って、少女は笑った。


川。へ。落ちた。心臓が喉の奥で締め付けられる。だってそれはあまりにこの場に、いつも通りに閑古鳥の鳴くこの店には、どうしたってそぐわない言葉だ。その意味が脳まで染みていくのと同時に、固着した視界の中であのときの記憶が再生され始める。衝撃と、失敗した呼吸で暗く沸き立つ濁流。確かに俺は、数日前にこの街を流れる小さな川に落ちた。だけど誰にもその話をした覚えはない。だから当事者以外は、何も知らないはずだ。努めてゆっくりと瞬きをした。そうして情景を洗い流す。


「何の話です?」


俺はこの場に相応しい営業スマイルを顔に浮かべた。笑顔は良い。自然に目を細めて、見るものを絞ることができるから。少女は変わらず、色の淡い唇でにこにこと微笑んでいた。大人びた口調のわりに、その笑顔はどこか幼いものだった。身にまとっているのは、この商店街の近所にある高校のセーラー服。ほとんど黒に近い濃紺のスカーフが、小さく傾げた首に合わせて揺れる。


俺がそれ以上何も言わないことを確認して、少女は小さく息をつく。その目に一瞬だけ、どこか諦めた影が過ぎったように見えた。そうして、何も言わずにCDを差し出す。俺は反射的にそれを受け取った。そこそこ人気な男性アイドルの新譜。少女を見やってもそこにはもう不穏の影はなく、空気のような笑顔しか浮かんでいない。


「何って、ただのお客さんですよ。これくださいな」


こんなに怪しいお客様がいてたまるか。そう思いながらも、俺はただ1180円ですと呟いた。少女は手に持っていた革の鞄を覗き込み、その中から茶封筒を取り出した。そのまま封を切ってひっくり返す。はらりと千円札が、ことんと500円玉が、それぞれカウンターに落ちる。俺はそれをなるべく当たり前のような、日常的な素振りでレジに放り込んだ。この少女が何であれ、下手なことは言うべきじゃない。俺が、川に落ちたことを知っている理由を下手に問いただすべきではない。藪を突かなければ蛇は出ないのだ。ぎしがりと硬貨を飲み込む古い機械を眺めながらそう決める。だから殊更へらへらと、軽薄そうに笑ってみせた。


「ありがとうございます。はい、お釣りです」


少女は黙って、そのくせ楽しそうに演じてみせる微笑みを唇に刻む。瞳は下品にならない程度に俺や、店内を眺め回していた。それが不気味で、俺は俯いたまま小銭を数える。100円玉が3枚、10円玉が2枚。一刻でも早く出て行ってくれと念じながらお釣りを渡し、CDを入れたビニル袋を捧げ持って。


手が取られた。


「川に近づいちゃだめよ、お兄さん」


瞳は、赤色。


手を取られたのはほんの一瞬で、気づいたときには肩ほどの長さの黒髪が目の前で翻った。ビニル袋は連れ去られ、そのまましゃんと伸びた背筋が自動ドアを超えていく。少女は振り向きもせず、藍色の街へと遠ざかっていった。ドアが閉まり、残されたのは俺と冷めた春風だけ。


俺は何も言えずに少女を見送って、見送って、背後の壁にもたれかかった。背中にじとりと冷や汗をかいている。いつの間に? 気づかなかった。気づいてしまいたくなかった。冷たい汗が体温を奪って、そうしてあのすがりつくような水の冷たさが、肺を満たしていた泥臭さが想起された。喉を胃酸が駆け上がってくる。鼓動と、肺から水中へ逃げていく酸素。川に落ちた。足を取られるのではなく、手を引かれるような、あの夜の川。俺はあの夜のことを、確かに誰にも話していない。話せるものか。だから誰かに知られることなんか、ましてやただの少女なんかが知っているわけない、はずなんだ。 


目蓋を下ろす。それなのに網膜で少女がお兄さん、わ、川へ、ら、落ちたでしょ、う。何もかも見通すような赤い光が瞳孔を縁取っていた。少女の意図が分からない。分からないものは、怖い。俺は意識的に深く、長く息をついた。息を吐くということは、俺が今水中ではなく地上にいるということの何よりの証明だった。暗く冷たく肺を満たす真綿のようなそれから、せっかく逃げてきたというのに。何もかも、悪い夢であったら良かったのに。ああでも、あの掌は暖かかった。今でもまだ暖かくて。


「え」


あたたかい?


恐る恐る、少女に取られた方の手を見る。そこはいつの間にか固く握られていた。何かを、掌の中にあるものを、決して離さないようにと言わんばかりに。いつの間に? おそらくは、少女が俺の手を取ったときに握り込ませたのだろう。一体何を、どうして。問いかける相手を見失ったまま、俺は手を開いた。


そこにあったのは、小さなお守り袋だった。示し合わせたように赤色をしたちりめんに、金糸で「守」の文字が縫いとめられている。固く口の縛られた巾着で、中身が何なのかは分からない。けれど綿ではありえないような、しっかりとした重みがある。え。悪寒がぶり返してきたんだけど。体から力が抜けて、俺の背中はまた壁とぶつかる。いっそこのまま投げ捨ててしまおうか。いやそれも呪われそうだな。そもそもあの少女はどうしてこんなものを、どうして、どうして。あの浮世離れした子に会ってから疑問ばかりが増えていく。


結局俺は、そのお守りをズボンのポケットへとしまったのだ。そうして店のシャッターを締めるために立ち上がる。だってどうしようもなく不気味でも、その暖かさは不快じゃなかったから。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る