<3>

「ミスミ先生……」


 暗がりの奥から声が響いた。誰かが呼びかけている。

 わかっていても、深い眠りに浸った脳が呼びかけを拒絶した。疲労の詰まった重い体を起こすのは億劫だ。


「ミスミ先生、ミスミ先生――」しつこく呼びかけはつづき、ついに直接揺すられる。「三住先生、いい加減起きてください。急患ですよ!」


 その一言に体が反応して、半ば無意識に飛び起きる。くるまっていた毛布が、うす暗い部屋に舞い上がった。

 まだ頭はもやがかかったようにハッキリせず、状況を飲み込めていない。起こしにきた看護師にぼやけた目を向けると、眉間にしわを刻んだ険しい顔でにらまれた。


「ここ……どこ?」

「何を寝ぼけてんの。医局の仮眠室に決まってるじゃないですか」

「ああ、そうだった……あれっ、ここ病院?」

「もう、しっかりしてよ。クソ忙しいのに、冗談に付き合ってるヒマないんですよ」


 ゆるりと部屋を見回し、寝ぐせのついたボサボサ頭をかく。混線していた記憶が、やっとつながりはじめる。

 勤める病院の救命救急センターで当直にあたっていた三住昭雄は、ひっきりなしに訪れる患者の切れ間に、英気を養うべく仮眠を取っていたところだった。連日の激務もあって、記憶が曖昧になるほど深い眠りに落ちていたのだ。


「また急患か。今夜はやけに忙しいな……」


 急性アルコール中毒で搬送された若者を皮切りに、緊急手術が必要な交通事故患者、脳梗塞で倒れた太っちょの中年男性、心肺停止状態で運ばれてきた女性、徘徊中に川に転落して溺れた認知症の老人――と、次から次に患者はやって来た。ようやく一段落ついて仮眠に入った直後に、このありさまだ。

 ちらりと時計を見ると、横になってまだ三十分とたっていない。医者の不養生と言うが、不養生にならざるえない仕事が救命医だとしみじみ思う。


「で、患者の容態は?」

「民家で火災が起きたそうです」


 看護師の富永翔子の声には、わずかに険がこもっていた。彼女も忙しさに、うんざりしているのだろう。


「熱傷か。重症度はどれくらいなんだ」

「それが、負傷者はまだ出てないんですよ。ただ隣接した化成工場に引火して、大変なことになっているという話です。いまのところ有毒ガスが発生するような事態にはいたっていないようですが、この先どうなるか見通しがつかないと消防から連絡がありました。もしもの緊急事態に備えて、現場出動の要請です」


 三住は鼻のつけ根にしわを寄せて、負の感情を凝縮した長いため息を吐き出す。

 眠っているところを叩き起こされたということは、現場出動を押しつけられたわけだ。本日当直についているのは、上司の主任医師と先輩医師、それに医学部を卒業したばかりの研修医ときている。選ぶとしたら三住しかない状況であった。本当についてない。


「急いでください。わたしが車を出します」

「はいはい、わかりましよ。行けばいいんだろ、行けば」


 その投げやりな態度にイラついた富永は、片眉を吊り上げた怒りの形相を浮かべたが、もれ出る寸前に文句は飲み込んで何も言わず先に行ってしまった。

 三住は大きなアクビをしながら、疲労の蓄積した体を引きずり後を追う。

 もろもろの準備を澄ませて裏口に出ると、すでに軽自動車が待機していた。ハンドルを握る富永が、パッシングで合図を送る。


「どうぞ」と、助手席に入るなり眠気覚ましのガムを渡された。


 刺激の強い粒ガムを噛みながら、内装を見回す。新車特有の独特なにおいに満たされた車内は、まだ持ち主の色に染まっていない。後部席にネズミモチーフの黄色い人形が、ポツンと置かれているのみだ。


「これ買ったのか?」

「先週納車したばかりです。汚さないでくださいよ」

「なんだよ、言ってくれりゃあ相談に乗ったのに。知り合いに、いい車屋がいるんだ」


 富永はアクセルの踏み込みに合わせて、軽く肩をすくめた。


「ドクターが買うような車を、看護師の給料で買えるわけないじゃないですか」

「医者が全員金持ちだと思うなよ。俺らみたいな下っ端は、仕事量のわりに案外もらってないんだぞ。毎月ヒイヒイ言ってる」

「じゃあ結婚相手としては失格ですね。別の人を狙うことにします」


 辛辣な言葉に叩きのめされて、三住は倒れ込むように窓に寄りかかった。闇に浮かぶ街の灯りが、尾を引いて流れていく。


 ぼんやりと車窓の景色を眺めていると、ふいにえも言われぬ焦燥感が襲ってきた。疲弊した頭と体は、容赦なくマイナス思考を引き寄せる。

 息が詰まり、胸が苦しくなった。黙っていると、どんどん深みに落ちていく気がして、考えなしに言葉を吐き出す。


「もしも……もしもさ」姿勢よくハンドルを握る富永の横顔をちらりと見て、三住はぼそりと言った。「生まれ変わるとしたら、何になりたい?」

「どうしたんですか、急に」


 怪訝そうな様子が伝わり、少し楽しかった。女の子にちょっかいをかける幼い男の子の気分――とでも言えばいいだろうか。


「俺は生まれ変わったら、医者にだけはなりたくないな。こんなにしんどい仕事、他にはないぞ。やらなきゃいけない勉強は多いし、責任も重い。今度はもっと気楽で、もっとむくわれる仕事がやりたい。寝不足でフラフラになるような仕事は、もう勘弁だ」


「わたしは、生まれ変わっても看護師でいいかな。今度はちゃんとお金持ちの医者と知り合えるかもしれないし。あっ、でも、アイドルになるのもいいかもしれない。それでチヤホヤされて、IT企業の社長とか野球選手つかまえて何不自由なく幸せに暮らす。いいと思いませんか」


 ミスミは思わず吹き出して、口からガムがこぼれそうになった。慌てて手で押さえて、元に戻す。もうガムに味はなかった。


「ふざけた人生観してるな。そんなにうまいこといくかよ」

「突然ワケのわからない“もしもの話”をする三住先生よりは、ふざけてないと思いますよ」

「別にふざけてるつもりはない。なんとなく頭に思い浮かんだことを言っただけだ。もう、いいよ――」


 そのワケのわからない“もしもの話”のおかげで、気持ちは少し楽になっていた。誰かと言葉を交わすことで、ストレスは軽減されるものだ。場合によっては、膨大することもあるが。


 三住は小さく吐息をつき、視線を前に向ける。フロントガラス越しに、夜空を照らす炎の突端が見えた。

 火災現場が近づくにつれ、けたたましい消防車のサイレンが聞こえてくる。騒がしさに目を覚ました住人が、遠目から赤く染まった空を見上げていた。


「うわっ、野次馬がいっぱい……」


 現場につながる道路に、場違いな見物人が集まっていた。クラクションを鳴らしてかき分けるにも限度がある。


「俺は一足先に現場に行ってる。キミはどこかに車を停めてこい」

「どこかって、駐禁切られたらどうするんですか!」

「そのときは金持ちの医者つかまえて払ってもらえ」


 規制線の前で野次馬をけん制している警官に、事情を説明して消防隊と合流する。迎え入れてくれた指揮官の消防士は、厳しい表情で状況を教えてくれた。


 火元の民家は、ほぼ全焼――住民は無事救出されたが、七歳の子供が煙を吸ったことで体調不良に陥り、救急車で搬送されたという。


 民家と隣接した化成工場は、塀で区切られていたうえに工場建物まで距離はあったがが、景観のため周辺に植えられた木に火が燃え移り、それが工場脇にあったゴミ捨て場の可燃物に引火して火が回ったようだ。壁面は真っ黒にすすけて、割れた窓から屋内に火が入り込んでいる。

 幸いなことに残っていた従業員は、すでに退避済み。消防士が外部から、火を消し止めようと放水していた。


「工場にある化学薬品のリストはありますか? 有毒ガスが発生したときのために、前もって知っておきたい」」

「わかった。工場長に聞いてみよう」


 指揮隊長は即座に本部に連絡を入れて、低音の渋い声で工場長に聞いてくるように指示を送った。


「あの、火事はどうなりますかね」


 自分で聞いておいてなんだが、曖昧なひどい質問だと思った。火災現場に圧倒されて、うまく言葉にできない。

 しかし、指揮隊長は嫌な顔一つせず、真面目に答えてくれた。


「現在の状況では、まだなんとも言えないな。ただ法令で危険物を扱う建物には、強固な防災設備の設置が義務づけられている。キミが考えているような最悪の事態には、いたらない可能性が高いだろう。もちろん緊急時を想定して、準備は万全にしておくが」

「それはよかった。有毒ガスの処置は、しがない救命医には荷が重すぎる。正直困ってたんですよ」

「問題はガスよりも爆発だな。気密性の高い室内に火が入り込むと、時おり厄介な爆発事故が起きる」


 ガスも爆発もどちらもさけたいところだが、消防士に任せるしかない現場では三住にできることは何もない。せめて消火作業の邪魔にならないように、消防士の動きに合わせてこまめに立ち位置を変えた。


 そうして消防士を見守っていると、「三住先生!」富永がやって来た。

「コインパーキングに停めてきたんですけど、これ領収書落ちますよね」


 目の前の火災と比べて、なんと小さな悩みだろうか。三住は嘆息して、しなだれた頭をかく。

 舞い落ちる火の粉に顔をしかめて、三住を盾にするように背後に回った富永が、声をひそめてたずねる。


「どんな感じですか。あんまりケガ人が多いと、うちの救命だけじゃあさばききれませんよ」

「安心しろ、逃げ遅れた人はいないそうだ。消防士に負傷者が出ると厄介だが、まあ、そこは火消しのプロだし大丈夫だろう。何事もなく帰れる――そんな予感がする」


 富永は鼻で笑い、うさんくさそうに三住を見た。


「先生の予感って当たるんですか?」

「……そうだなぁ。今夜は急患が少ない予感がしてた」

「うわぁ、全然あてにならない」


 急患の予感は大ハズレであったが、こちらの予感は当たりそうだった。消防士の懸命な消火活動によって、工場に燃え移った火は徐々に弱まっていく。ケガ人もなく、順調そのものだ。

 外から見た印象では、おおかたの炎は消えたように思う。残すは内部でくすぶる火種の処理といったところか。


 工場越しに見えた空の果てが、うっすらと白じみはじめていた。夜明けは近い。鎮火が先か、夜明けが先か、競争になるだろう。

 指揮隊長の表情も若干ゆるまり、三住も富永も緊張が解けていた。注意力が散漫になって、完全に気が抜けていた。


 ドン!――と、いきなり激しい爆発音が鳴ったのは、そんなときだ。身をすくめた三住の視界に、工場の奥から真っ黒な煙が立ち上る様子が映し出される。

 つづけざまに、もう一発。ドン!――と、衝撃が響く。今度は窓際に面した部屋で爆発が起きた。


 砕けたガラス片が飛び散り、炎に照らされたオレンジの光を乱反射させる。同時に、爆発で吹き飛ばされたが、クルクルと回転しながら迫ってきていた。

 三住は反射的に、富永を突き飛ばす。


 体が弾かれて地面に伏した。右胸と腹から、尖った金属が突き出ているのが見える。おそらくひしゃげた窓枠だと思う。

 富永の悲鳴を聞きながら、不思議と冷静に状況を解析していた。体を貫かれて尋常じゃない出血をしているというのに、なぜか痛みを感じない。危機的状況に鎮痛作用のあるエンドルフィンが大量に分泌された結果だろうか。


 我がことなのに、治療が大変だな――と、妙な考えにふける。複数の臓器が致命的な損傷を受けていた。これは負傷箇所を再生させる、魔法のような特別な技術がなければ治療しようがない。


「三住先生、しっかりして。こんなとこで死んじゃダメ。三住先生!」


 看護師にあるまじき取り乱しようで、富永は半狂乱になっている。

 こんなことになるなら、医者になんてなるんじゃなかった。やっぱり、生まれ変わったら医者にはなりたくない――と、強く思う。


「ミスミ先生!!」


 目はかすみ、耳は遠くなる。あらゆる感覚が急速にしぼんでいき、三住の意識は闇の底に引きずり込まれた。

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