<3>
負った傷の治療を終えて、階段を下る。
誰も口を開かなかった。胸の奥に期待と不安がうず巻いて、気休めの軽口さえも発することができない。
パーティの足音だけが、うつろに響く。確実に下っていることを意識して、緊張が高まり息苦しさをおぼえた。
ティオは短く深呼吸を繰り返して、気持ちを解きほぐそうとつとめる。壁に手をつき慎重に足を運びながら、目を閉じて息を吸い――静かに吐く。
まぶたを下ろしていた時間は、十秒にも満たなかったことだろう。だが、開けた視界がとらえたのは、底なしの漆黒であった。唐突に世界が見知らぬモノに変わっている。夢でも見ているのかと、混乱が頭を駆け回った。
漆黒の世界――周囲も仲間も自分自身までも、あらゆるものが黒で塗りつぶされた世界だ。
散り散りになりそうな理性をつなぎとめ、必死に状況を把握しようと思考を働かせる。
疑ったのは、モンスターによる攻撃だ。なんらかの術で暗闇に捕らわれたのかと考えた。
しかし、そうではないことを、ほどなくして思い知らされる。漆黒のなかに、うすぼんやりとした光が浮かび上がったのだ。光は人の形をしていた。冒険者風のいでたちをした女性の姿だった。
光っているというよりは、光って見えると言ったほうが正しいだろうか。闇に立っているというのに、彼女の姿だけはハッキリと認識できる。脳内に直接映し出されたような感覚だ。
「あ、あなたは誰ですか?」
こわごわと声をかける。緊張でひどくかすれた声だった。
彼女は感情のこもらない人形のような顔で、じっとティオを見つめている。生気をまるで感じない――人の姿をしているが、はたして人間であるのか確信が持てなかった。
「私は、ダンジョンを司る管理者だ。本来の私は肉体を持たぬ存在ゆえ、この姿はかつて最下層に挑んだ女性の姿を借りている」
その言葉の意味よりも、超然とした口調に気圧される。まるで心臓を直接つかまれたような気分だ。
人間ともモンスターとも違う、自然の脅威を前にしたときのような畏怖の念を抱く。
「ここが……ダンジョンの最下層なんですか?」
「そうだ。現時点の終点だ」
状況が特異すぎて、感慨がまったくわかない。それよりも、目の前にいる“管理者”と名乗る人物にひきつけられている。
「あ、あなたは神様?」
「いいや、違う。私はあくまで管理者だ。もしキミ達から見て神と呼べる存在がいるとするなら、それは私の主人であろう」
管理者よりも、さらに上位の存在がいるということか――人間の尺度がどこまで適応するかわからないので、この認識の正否もわからない。とにかく人智を超える存在がいることを漠然と思い知る。
ティオは半ば理解を放棄して、ただ現状を受け入れることにした。考えることをやめてしまえば、よけいな混乱も招かず心を落ち着かせられる。
若干気持ちにゆとりができたところで――ハッとして息を飲む。真っ先に問いたださなければならなかった問題を思い出したのだ。ティオは慌てて周囲に目を向けるが、無限に広がる漆黒があるのみ、他には何も見当たらない。
「わたしの仲間はどうなったんですか!?」
「心配することはない。彼らとも管理者として対面している。純然と語らうために、各自個別に接見しているのだ」
「えっ、対面って、いまですか? あなたはわたしの前にいるのに、同時にってことですか?」
思わず疑問を口にしたものの、管理者の超然とした様子から、それが可能な存在なのだとすんなり受け入れることができた。とにかく仲間が危害をくわえられているようなことはなさそうだ。
ティオはホッと胸を撫でおろし、安堵の息をつく。同時に、次の疑問が頭の片隅にわいてきていた。
「語らうと言ってましたが、何を語らうんですか?」
「端的に言えば、礼だ。キミ達はダンジョンの進化に多大な貢献をしてくれた」
「し、進化?」ダンジョンと進化が結びつかず、ティオは戸惑う。「あの、根本的なことなんですが、ダンジョンは何を目的とした場所なんですか?」
これまで考えたこともなかったが、管理者がいる以上ダンジョンはなんらかの目的を持った施設ということになる。最下層を目標とする冒険者は、知らぬ間に歯車として組み込まれていだのだろうか。
管理者は質問内容を予見していたかのように、淡々とよどむことなく告げる。
「ダンジョンは、いわば根だ。大地に根を張り、莫大なエネルギーを生み出すための装置なのだ。独自進化を遂げる一種の動力回路で、特定の形状を作ることで機能を発揮する。キミ達のそばにある身近なものでたとえるなら、魔法陣が近いだろう。原理は魔法とは大きく異なるシステムであるから、似て非なるものといったところだが」
「魔法陣……ですか」
呪文ではなく、紋様の形状で魔法を発現させる術式だ。ティオが知るところでは、
いくつもの階層によって連なったダンジョンの複雑な通路が、紋様と似たような機能をはたしているということだろうか。ダンジョンの広さを身をもって体験しているティオは、あまりに壮大すぎてピンとこなかった。
「ダンジョンの機能を発動させるためには、理想の形状にたどり着かなければならない。そのために最適化を繰り返しているが、独自進化だけでは補えない部分があった。方向性を持ったランダム要素だ。人間の意志の力がシステムを一層活性化させるようになっている。そこで私は、ダンジョンに人間が好む財宝や試練となるモンスターを設置して、意志の力が流れ込む要素を付け足した。キミ達のように冒険者と呼ばれる人間が、進化の手助けをしてくれるようにね」
説明は難解になっていき、ティオの頭では追いつかなくなってきた。とりあえずダンジョンの進化に、冒険者の手助けが必要だということだけおぼえておく。
問題となるのは、その結果だろう。
「その機能が発動したら、どうなるのでしょうか?」
「ダンジョンが生み出しだ莫大なエネルギーが、次元を越える
「えっ、次元?
いよいよワケがわからなくなって、ティオは困惑で顔をひきつらせる。
「言ってしまえば、異世界につながる扉だ。異世界の存在との交流が、文明を飛躍させることをキミ達も知っているだろう」
ティオの脳裏に、一人の男性が思い浮かぶ。
痛むほどに心臓が脈打ち、息苦しさをおぼえて酸欠に近い症状を引き起こす。考えないようにしてきた事象を、思いがけない形で突きつけられた。
「ミスミ先生」と、無意識に口からこぼれた。ハッキリと明言されたことはないし、真相を聞いてみようと思ったこともないが、現在の医療水準を超越した知見はまるで別世界の存在だと思っていた。それが異世界だと言うのなら――世界に新風を巻き起こすことをティオは確かに知っている。
「まだ異世界の扉は開いていないんですよね。それなら、どうして異世界の存在が、すでにわたし達の世界に訪れているのですか?」
「転がり落ちた者か。彼らの処遇は私の管轄ではない。私がダンジョンの管理者であるように、よその世界から転がり落ちた者を集める管理者がいるのだ。部外者が正確なことは言えないが、目的が同じなのは間違いない。私達の主人の願いは、文明の発展――転がり落ちた者も文明の発展に寄与するために招かれたのだろう」
文明の発展という目的に、どのような意味があるのかわからないが、ミスミが発展の助力として呼ばれたことは納得できるところだ。
ミスミが医療にもたらした功績は大きい。現状では表立って評価されていないが、ティオが学んだ技術と知識は後世の医術界に必要なものだ。それはミスミの存在証明とも言える――偉大な業績を必ずや伝えなくてはならない。
「あっ、そうだ……」
そこで、はたと気づく。自分のやるべきことを。
そして、もう一つ、気づいたことがある。ティオはおずおずと顔を上げて、変わらない無表情の管理者を見た。
「あの、もしかして、異世界の扉が開いたら転がり落ちた者と呼ばれる人達は元の世界に戻れるんでしょうか?」
「理論上は可能だ」
キリキリと胸が苦しくなる。ティオは知らず知らずのうちに、ミスミとの別離を早めてしまったのだろうか。
複雑な心境に陥り、唇を噛みしめて感情を押し殺す。それは、ミスミにとっては喜ばしいことに違いない。元の世界に戻れる状況を拒む理由はないはずだ。
「ただ即時に機能を発動できるレベルにはいたっていない。私の計算では、また七百年ほどかかるだろう」
「な、ななひゃくねん……」
そのけた外れの年月に、ティオは拍子抜けする。医術がどれだけ発展しても、とてもじゃないが生きてはいられない。
どれだけ深くダンジョンが形成されれば完成となるのか、まったく想像ができなかった。
「よかった」と、思わず安堵の声がもれた。そんな自分自身に少し嫌悪感を抱く。
ティオはどっちつかずの気持ちからは目を背け、ひとまず現実を見ることにした――結局、矮小な人間如きでは、大きな力を動かすことはできないのだ。多くの人間が時代を積み重ねて、ようやく小さな一歩を踏み出せる。
管理者が求める文明の発展が、どのような結果をもたらすのか見届けることはできない。ティオにできるのは、目の前にある個人的な問題を一つずつ片づけることだけだ。
「いろいろ教えてくれて、ありがとうございます」
「礼をすると言っただろ。キミ達の知りたいことを伝えるのが、私にできる最大限の返礼だ。感謝する必要はない」
管理者は相変わらず無表情のままだった。ただ、まとった雰囲気がほんの少しやわらかくなったように思ったのはティオの気のせいだろうか。
そのとき、ふと思い出す。タツカワ会長のパーティに、最下層直前で力尽きた女性冒険者がいたことを。
「あなたは、ひょっとして――」
「そろそろ時間だ、しまいとしよう。キミ達の尽力に敬意を表する」
「あっ、待ってください!」
必死に呼び止めるが、聞き入れてもらえなかった。フッと光が消えて、姿が見えなくなる。
慌てて暗闇を見回していると、肩がぶつかり体がよろめく。かろうじて持ちこたえ、動揺の宿った視線を向けた。
「ティオ姉ちゃん?!」
「マイトくん……」
マイトだけではない。パーティ全員が揃っている。
仲間の姿を認識すると同時に、周囲の景色に色がつく。そこは、階段以外にめぼしいものは何もない小部屋だった。漆黒はどこにも見当たらない。
「あれっ、あいつは――」
ぼそりとつぶやき、マイトは怪訝そうに太眉を寄せた。彼も管理者と会っていたのだろう。
全員が同じ疑問を抱いていたが、それを誰一人として口にする者はいなかった。うまく状況を飲み込めなかったのだと思う。
しばらくして、唐突にマイトが胸元をまさぐり出した。取り出したのは二枚の冒険者タグ――自分のモノと、ディケンズの名が刻まれた冒険者タグだ。
マイトは軽く微笑んで、ディケンズの冒険者タグを指でなぞった。
「これで、ディケンズを越えたって言えるかな。ちゃんと認めてくれよるよな……」
風船の空気が抜けていくように張り詰めていたものがしぼみ、感慨と脱力がもれてくる。達成感に覆いかぶさる疲労感のなかで、言葉ではあらせられない感情に飲み込まれた。
ダンジョン攻略をしみじみと噛みしめたマイトは、顔を上げて明るい声で告げる。
「戻ろうか」
反対する者はいない。口数少なく事務的に来た道を逆行して、
眩しい陽の光を浴びながらティオ達が目にしたのは――馬だった。
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