転がり落ちたモノ
<1>
眉間に深いしわを刻んだタツカワ会長は、診察室のイスに座って身動き一つ取らなかった。
まるで世界の終わりに直面したかのような険しい表情で、握り込んだ両手にじっと視線を落としている。
「悪いな、ミスミ先生。こんなときに……」
やっとの思いでくぐもった声を吐き出し、脂汗の浮いた角ばった顔を上げる。インフルエンザ流行のさなかにあってもピンピンしていたタツカワ会長が、すっかり憔悴して弱っていた。
まったく、らしくない姿だ。黒くにごった瞳の奥に、絶望が横たわっている。
「気にしないでください。いつ病気になるかなんて、誰にもわからないですから」
「しかしだな、あいつらがついにダンジョン最下層にたどり着こうってときに、このザマは管理組合会長としてあんまりじゃないか」
「たどり着けるかどうかなんて、まだわからないでしょ。マイトのヤツが勝手に言ってるだけなんだ」
ミスミは苦笑して、のんびりカンナバリが用意してくれたお茶をすすった。
「今度こそダンジョンの底に行く!」と、マイトが宣言したのは二度目だった。前回は意気込みすぎたようで、早々に罠にかかって一日とたたず戻ってきた。今回はいまのところ戻ってくる様子はないが、うまくいくかは神のみぞ知るだ。ミスミはただ待つことしかできない。
タツカワ会長がミスミ診療所に運ばれてきたのは、マイト達がダンジョンに出発した二日後のこと。仕事中に突然激痛に襲われ、動けなくなったらしい。少しでも振動があると痛みが増すということで、慎重かつ遅々とした進みの担架で運ばれてきた。
一旦は痛みが引いて落ち着いたが、再度ぶり返して、こうして苦しんでいるわけだ。
「もうちょっと待ってください。いま、ノンが医術者ギルドにエレノアを呼びに行っている。彼女が来れば、マヒ魔法で痛みをやわらげてくれますよ」
「痛み止めだけか。やっぱり治療は難しいのか?」
「難しいですね。会長自身にがんばってもらうしかない。――水、ちゃんと飲みましたか」
「飲みまくったよ。腹がタポタポだ」
ぽこんと膨れたタツカワ会長の腹を見て、ミスミはこっそりと笑いを噛み殺す。
タツカワ会長には申し訳ないが、このタイミングで発症してくれてよかったと思う。患者がいてくれることで、注意が拡散してくれる。そうでなければ、ティオが心配でやきもきしていたことだろう。これが彼女の最後のダンジョン潜りになるなら、なおさらに。
※※※
ダンジョン地下五十三階――通路を覆うように大量発生した、強酸性のゲル状物質をまとうスライムと遭遇した。
スライムの動きは遅く、さけるのはたやすい。ただ大量にいるうえに少しでもふれればダメージを負う強酸性の体は厄介で、パーティの進行をためらわせる。
「無茶をする必要はない。迂回しよう」
「う、迂回かぁ……」と、珍しくダットンが難色を示した。
安全性を考慮したゴッツは、不服を視線に込める。パーティを組んだ当初はゴッツのにらみに恐れおののいていたダットンだが、さすがにもう慣れたものでまったく気にしていない。
ダットンは手帳に描いた簡単な地図を差し出し、そこにまだ通っていない迂回進路の予想を付け足した。
「この広さの通路だと、う、迂回した先と、まっすぐ通った場合の合流点の間に、何か、空間があるような気が、する」
ダンジョン潜りを繰り返していると、通路の様子から感覚的にフロアの全体像を予想できるようになってくる。もちろん予想が外れることも多々あり、予想的中率は半分ほどといったところか。
ダットンの予想図は、わりあい納得のいくものではあった。マイトとしても同じような感想を抱いている。
「スライムの大群が道を塞いでる状況は、いかにもあやしい感じはするな。確かめてみたい」
「それなら、一旦迂回して予想があっているか確認してからでもいいんじゃない。安全第一だよ」と、ティオは迂回に賛同する。
進路を決める意見は真っ二つに分かれた。どちらを選ぶかは、まだ意見を口にしていないシフルーシュにゆだねられる。
シフルーシュは少し困り顔で、長い耳を揺らす。
「行けるとこまで行って、無理そうなら引き返せばいいでしょ」
導き出したのは無難な折衷案だ。どっちつかずの結論であるが、その分不満は出ない。
「無理だと思ったら、即引き返すからな」
そう念押しして、ゴッツはゆっくりと足を踏み出した。慎重に慎重を重ねた、注意深い歩みだ。
ドラゴン相手にヘマをして以降、ゴッツは万全であることを何よりも重視するようになっていた。二度と同じあやまちを犯さないという気持ちのあらわれなのだろうが、少々やりすぎに思える面もあってマイトは辟易している。
行く手を邪魔するスライムを、短槍でずらして道を作り、少しずつ奥に踏み込んでいく。スライムの数は増える一方で、壁や天井にまでブヨブヨした体を張りつけていた。
やがて、足の踏み場もないほどスライムが密集する地点にきた。追い散らすスペースもなく、これ以上は進めそうにない。
だが、その事実よりも注意を引きつけられたのは、少し先の光景だ。「なんだ、あれ……」と、思わずマイトの口から声がこぼれる。
スライムが阻む通路の先に、ぽっかりと穴が開いていたのだ。そこが終点となっており、壁によって通路は閉ざされている。ダットンの予想通り謎の空間はあったわけだが、迂回しても合流できる通路はなかったので、半分正解といったところか。
「ずいぶん深そうだが、どうなってるんだ?」
巨漢のゴッツは背伸びして覗き込もうとしても、底の様子は確認できなかった。スライムが邪魔して近づけそうにないので、どのような目的の穴なのか推察も難しい。
こんなにも堂々と穴が開いていたら、落とし穴としては意味をなさない。初級冒険者だって引っかかりはしないだろう。
マイトはポケットをまさぐり銀貨を一枚取り出して、惜しみながら穴に放り投げてみた。
わずかに間を置いて、チャリンと小さな音が聞こえた。底はある――それも、そう遠くない場所で鳴った。感覚としては地下一階分の深さといったところか。つまり穴の奥は地下五十四階につながっている。
だからといって、底の様子を確認できないことには、いくらマイトであっても無謀に飛び込もうとは思わなかった。飛び込まざるえない状況に追い込まれないかぎりは。
「キャッ!」と、ティオが小さな悲鳴を上げる。スライムがブーツにふれてしまったらしい。左足のかかとから、臭気をはらんだうすい煙が立ち昇っていた。
「ちょっと、これってやばくない!?」
ティオを支えながら、シフルーシュが鋭く尖った目を背後に向ける。
いつの間にか無数のスライムが、じわりじわりと迫ってきていたのだ。意識していたつもりだが、穴に気を取られて注意を怠っていたのかもしれない。すでに通り道は塞がれ、戻るには相応の覚悟が必要な状況となっていた。
反射的に前方の穴に目をやる。まだ前面に鎮座したスライムに動きはないが、連動して動き出せば、それこそ取り返しのつかないことになるだろう。
「穴に飛び込もう!!」
「ど、ど、どどどこにつながってる、かも――」
ダットンが言い終えるよりも早く、マイトは跳躍していた。説得しているヒマはない、先に実践して行かざるえない空気としたほうが手っ取り早いという判断だ。
「考えるな。行くぞ、ダットン!」と、背後でゴッツの怒鳴り声がする。
穴に飛び込むと階の境目の層に入り一瞬真っ暗となるが、すぐに視界は開けた。重力につかまれる感覚を味わいながら、迫る床石を凝視――着地と同時に前方に身を投げだし、ぐるりと回転して衝撃を分散した。
つづいて、ドスンドスンと仲間が落ちてくる。タイミングが悪かったのか、うまく着地できず積み重なっている。
「みんな、大丈夫?」
不自然に左肩を下げたティオが、心配そうにたずねた。見たところ、ティオが一番被害が大きいように思う。
「それより、ここは……」
険しい顔でゴッツが周囲を見回す。ごくりとツバを飲む音がしっかりと聞こえた。
ダンジョン地下五十四階――このフロアは、何もないガランとした部屋であった。本当に何もない。壁も柱も見当たらず、延々と空間だけが広がっている。部屋という表現がはたして正しいのか、それさえも不明瞭だ。
ちらりと頭上を見ると、ぽっかりと穴の開いた天井がある。一点の穴以外は、天井にもこれといった特色は見られなかった。どうやってフロアを支えているのだろうと疑問がよぎる。
ふいに、コツコツコツと奇妙な音が連続して鳴った。意識するまでもなく、再度コツコツコツとリズミカルな音がする。
音の方向に顔を向けると、うすぼんやりとした灰色の塊が浮かび上がる。
コツコツコツ、コツコツコツ――と、規則正しい連鎖する音を連れて、それはゆっくりと近付いてきた。その正体を見極めると同時に、音の正体も判明する。
ヒヅメの音だ。突如あらわれたのは、長いたてがみから尻尾の先まで灰色に染まった馬であった。比較対象がないので大きさを実感しにくいが、かなりの巨躯であると一歩ごとに思い知る。
「ウ、ウマ? なんでダンジョンにウマがいるんだ?」
動揺したマイトは、存在理由に疑問をもってしまった。ここがダンジョンであることを考えれば、おのずと答えはわかるというのに。
おもむろに馬は体を沈めて、低い体勢から跳ね上がるようにして速度を上げる。
加速したことを認識した次の瞬間には、もう目の前に迫っていた。巨躯をうねらせて突進した馬は、集まっていたパーティの合間を縫ってダットンを吹き飛ばした。
「おい、気を抜くな。こいつはモンスターだ!」
短槍を振って威嚇しながら、ゴッツは倒れたダットンに駆け寄る。
「だ、だいひょうぶ、まだ生ひてる……」
命に別状はなさそうだが、馬の突進をまともにくらい、アゴが微妙に歪んでいた。うまく発音できなくなっている。
マイトは遅ればせながら剣を引き抜き、切っ先を向けた。気を抜いている場合ではなかった、ここはダンジョン――モンスターが巣食う危険地帯だ。
興奮状態で鼻息の荒い馬と、正面から向き合う。何もない空っぽのフロアに逃げ場所はない、戦い勝つしか生き残る道はなさそうだ。
「かかってこい、ウマ野郎。叩き切って焼いて食ってやる!」
マイトは咆哮をあげて、勢いよく飛びかかった。
※※※
「ハア、やっと痛みが引いてきた」
マヒ魔法の効果があらわれ、タツカワ会長にようやく安堵が浮かぶ。気の抜けた呆けた顔は、いつもの姿からはほど遠い。
功労者であるエレノアは、顔を真っ赤にしてふてくされていた。
「なんで、わたしがこんなことしなきゃいけないんですか……」
「何を言ってるんだ。これも立派な医療行為だぞ」
「そう思ってるなら、そのにやけ顔やめてください!」
言われて頬を撫でてみる。心なしか、いつもよりだらしなく垂れ下がってる気がした。
ノンのひどく冷たい視線が突き刺さり、ミスミは鼻のつけ根にしわを寄せようとした――が、うまくいかなかった。
「にやけてたか、俺?」
「うん、すっごいニヤニヤしてる」
現在進行形でにやけているらしい。もう取り繕うのはやめて、ミスミはにやけたままでいることにした。
「タツカワ会長が苦しんでる姿を見ると、なんか、笑えてくるんだ」
医者にあるまじき発言だが、ノンはこれといって咎めることはなかった。ちらりとカンナバリの世話を受けるタツカワ会長を見て、小さく鼻を鳴らす。少しは気持ちをわかってくれたのだろうか。
それはそれとして、エレノアには心底同情しているようで、マヒ魔法をかけるために患部に当てた手に手術用の消毒液をまぶしている。大げさすぎるだろとは、男のミスミからは言えない。
「じゃあ、帰ります」
エレノアは曇った顔のまま席を立ち、早々に帰ろうとしていた、マヒ魔法による治療時間も合わせて、まだ診療所に来て三十分もたっていない。
「もう帰るのか。茶でも飲んでゆっくりしてけよ」
「結構です」
短く吐き捨てるようにつぶやき、エレノアは診療所を後にした。相当怒っていることは、遠ざかる後ろ姿からでもわかる。
ノンは呆れ混じりのため息をついて、軽く肩をすくめた。
「そんなに大変なの、アレって」
「大変だぞ。最強レベルで痛い。痛みの王様って言われているくらいだ」
「そこまで痛いんだ……」
タツカワ会長でさえ、のたうち回るほどの痛みだ。たぶん、ミスミでは耐えられない。
最下層を目指してマイト達はダンジョンで奮闘している――時を同じくして、タツカワ会長も戦っているわけだ。尿路結石という最強の敵からは、逃げ出すこともできない。
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