<6>

 ひさしぶりに愛用の白いワンピースに袖を通し、カンナバリはダンジョンに潜った。

 なつかしさよりも、まずダンジョンを取り巻く状況に意識を奪われる。さながら野戦病棟のような環境は、カンナバリが知るダンジョンとは大違いだ。


「なんか、すげぇな……」


 なりゆきでついてきたバールナットが、周囲を見回して困惑気味に言った。

 観光旅行でダンジョン街に訪れたのだが、とてもじゃないが遊んでいられる状態ではない。この際、ボランティアとして仕事を手伝ってもらおうとカンナバリは考えていた。


 現在ダンジョンでは地下二階部分まで、患者が詰め込まれているという。この先の状況次第では、地下三階まで病室代わりの範囲を広げなくてはならないかもしれない。


 復帰した医術者や住民の有志の協力をえて、ある程度は治療環境も好転したようだが、悪化の危険性は変わらずはらんでいる。いま持ちこたえられるかが、今後の分水嶺と言えるだろう。


「ほら、行くよ」


 バールナットの腕を引いて、カンナバリはダンジョンを進む。部屋ごとに区分けされた患者の様子を横目に見ながら、目的の場所へ急いだ。

 ほどなくして重症化手前の比較的症状の重い患者が集められた区画に入る。寝かされた患者の顔を一人一人確認していくと――


「あっ!」と、バールナットが声を上げる。「ミスミ先生だ」


 いびきをかいて熟睡中のミスミを発見した。いまにも揺り起こしそうなバールナットを引き離して、カンナバリはホッと胸を撫でおろす。

 倒れたと聞いて心配していたが、見たところ命に別状はなさそうだった。やつれてはいるが、肌の色つやは戻ってきている。充分な睡眠を取ることで、たまった疲れが癒えていっているのだろう。


「よかった。平気そうだ」


 何はさておき、ミスミの容態を知っておきたかった。ミスミが重篤な状態となっていたら、さすがにカンナバリもティオも気が気でなくて集中できない。

 ミスミの無事を確認したことで、当面の心配はなくなった。これで存分に働ける。


「いいのか、挨拶しなくて」

「そんなもの後でもできる。いまは患者さんを助けることを優先しなきゃ。もちろんバールも協力してくれるんでしょ」

「こんな状況だし、それは別にかまわないが――」


 周りに迷惑がかからないように、顔を寄せてこそこそと話し込む二人。その気遣いをムダにする、無神経な大きな声が飛び込んできた。


「あー、カンナさんだ! バールまでいる、なんでなんで?!」


 寝ている患者を飛び越えて、騒々しく駆けてきたのはマイトだ。当初からいろいろと手伝っているらしいが、衰えた様子はない。普段と変わりなく、元気いっぱいだ。

 マイトはに二人の顔を交互に見て、困惑の混じった曖昧な笑顔を浮かべる。


「ただいま、マイトくん。今日帰ってきたの」

「カンナに便乗して、約束通りダンジョン街に遊びにきたんだが……タイミングは最悪みたいだな」


 バールナットは長いヒゲに指を絡ませながら、運のなさを自嘲する。


「ということは、ドワーフ病はなんとかなったんだ」

「ええ、アルムくんががんばってくれたおかげで、ヒ素毒を中和する新しい術式が完成したわ。まだ、もう少し改良が必要みたいだけど、ひとまず一段落ついたってことでダンジョン街に戻ってきたの」

「そりゃあ、よかった。きっとヤブ先生も喜ぶ――とは思うけど、まだ起きそうにないな」


 眠りこけるミスミを見下ろし、マイトは笑う。何度も見舞いに来ているそうだが、起きる気配はまったくないらしい。

 充分に休んでもらうためにも起こすつもりはないカンナバリは、騒がしいマイトを連れて少し距離を取る。


「ねえ、ノンちゃんがどこにいるかわかる?」

「さあ、どこだろうな。あいつ、そこらじゅうをウロチョロしてるから、どこにいるんだか」

「そっか、じゃあ探してくるよ」カンナバリはちらりと連れに目をやった。「マイトくん、バールのこと、お願いできるかな。好きに使ってくれていいから」


 バールナットは一瞬不服そうに顔をしかめるが、文句を言える状況ではないと思い出したようで、口はつぐんだままだった。


「よし、それなら荷物運びを手伝ってもらおうかな。得意だろ、そういうの。ついでにダンジョンの案内もできると思うしさ」


 二人と別れて、カンナバリはノンを探しに向かう。

 途中看護を必要とする患者を見かけるたびに手を貸していたので、予想以上に時間がかかった。結局ノンを探し当てたのは、半日近くたってからだ。地下一階から地下二階と見て回り、どこにも見当たらず戻ってきたところで、忙しそうに走るノンの後ろ姿が目に入る。どこかで行き違いになっていたようだ。

 ノンの顔には疲労がにじんでいたが、その動きはキビキビしている。患者への対応も、しっかりとしていた。


「ノンちゃん、ちょっと手を貸してくんないかい」

「ちょっと待って婆ちゃん。こっち終わったらすぐ行くよ」

「ノン、さっき頼んだことなんだが……」

「ちゃんと言っておいたから心配ないよ。大丈夫、もう少ししたら医術者の姉ちゃんが来てくれる」

「おい、チビスケ、薬が足らねえぞ。早く持ってこい」

「うっさいなぁ。置き場所知ってんだから、自分で取りに行け」


 表面的な看護だけではない、きちんと患者と信頼関係がきずかれている。相手によっては辛らつな態度を取っていたが、それも信頼の一つの形だろう。

 カンナバリは言葉にできない感動をおぼえた。出会った当時の姿が脳裏をかすめ、少女の成長に打ち震える。


「ノンちゃん――」

「はい?」と、呼びかけに振り返った彼女の顔が、驚きで強張った。

「立派な看護師になったね。ちょっと泣きそうになったよ」


 カンナバリを見つめる目に、さまざまな感情が揺らぐ。よろこび、戸惑い、安堵、焦燥、緊張――複雑に混じり合って、一つにまとめることができない。

 顔を伏せて、よたよたとしたおぼつかない足取りで近づいてきたノンは、そのまま伏せた頭をカンナバリの胸に押しつけた。


「ただいま、ノンちゃん」

「おかえりなさい、カンナ姐さん」


 清潔を保つために何度も洗濯を繰り返した看護師の白いワンピースは、こびりついた汗と埃で少し黒ずんでいた。それだけで、どれほど苦労してきたか手に取るようにわかる。

 背中に腕を回し、敬意を表して抱きしめた。思わず力が入りすぎたようで、ノンの細い体は反り返り、「ぐえっ!」と小さな悲鳴が上がる。

 カンナバリは苦笑して、かすかに震える体を離した。


「遅くなって、ごめんね。もう大丈夫だから、ゆっくり休んで」

「ううん、まだ平気」


 ノンは髪が乱れるほどに首を振り、顔を上げてカンナバリを見た。そこにあったのは笑顔だ。

 疲れは間違いなく蓄積している。熱も感じられた。だが、心の芯はくじけていない。いまも力強く立っている。


「アタシのこと、頼りにしてくれている患者さんがいるんだ。もうちょっとがんばりたい」

「そっか。それなら……いっしょにがんばろっか」


 ノンは本当に強くなった。本物の看護師になったのだ。

 もはや、かわいい後輩とは言えない。カンナバリと肩を並べて働く、信頼できる同僚だ。


※※※


 診察待ちの列に割り込む不届きな輩に、シフルーシュは厳しい声を飛ばす。

 一瞬険悪な雰囲気となるが、叱責したのがシフルーシュだと気づくと、ガラの悪い男は言い返せずに引き下がった。上級冒険者の肩書きは、ゴロツキほど効き目がある。この手合いは勝てない相手に噛みつくことがない分、まだ扱いやすかった。


「慣れてるな、シフル」


 半ば呆れた様子で、ミラーリングが言った。ティオの指示で手伝いにきたはいいが、元々シフルーシュ一人で充分にこなせていた役割だけに、やることがなくて手持ち無沙汰にしている。

 プライドの高いミラーリングに、こんな仕事を頼むのははばかられて、シフルーシュのほうも持てあましているというのが現状だ。


「ダンジョン街の生活も長いから、嫌でも慣れるよ」

「人間の相手は大変だろうが、エルフの矜持を忘れてはならんぞ。我々は誇り高き森の守護者なのだからな」


 つねにエルフとしての威信を持ちつづけるミラーリングが眩しかった。気高く孤高の精神は、シフルーシュの憧れである。

 ダンジョン街にすっかり染まり、エルフらしさを喪失しつつあるとシフルーシュは反省した。エルフの矜持をしっかり持たねばと、自分自身に言い聞かせる。


 ――そんな心の声をかき消すように、「あれぇ」と、すっとんきょうな声が響く。

 毛髪がさみしくなった頭に手ぬぐいを巻く中年男性が、列からはみだしてこちらに近づいてきた。ダンジョン街であってもエルフは珍しいらしく、不必要に興味を持たれることはよくあるが、今回は少し勝手が違うようだ。


「おいおい、ミラーじゃないか。なつかしいな、この野郎」


 男は遠慮の素振りもなく、いきなりミラーリングの腕をつかんだ。端正な顔に怒りがよぎる。

 そのぶしつけな態度に目を吊り上げたミラーリングであったが、ふと男の顔をまじまじと見て、驚きで眉を弾ませた。


「お前、ひょっとしてチャドか?」視線が上にずれていく。「ずいぶんと……変わったな」

「何年ぶりだと思ってんだ。エルフと違って、人間様は年を食うもんなんだよ。しわも増えるし毛も抜ける」

「それにしたって抜けすぎだろ。一瞬わからなかったぞ」


 中年男性と親しげに言葉を交わすミラーリングの姿に、驚愕してシフルーシュは言葉が出なかった。

 それは、想像もできなかった光景だ。自分のことを棚上げして――人間とエルフが仲良く語らう場面が信じられず、夢でも見ている気分となった。


「ダンジョン街に来てるなら、店に顔を出せ……って、いまはいろいろと難しいか」

「えらいことになってるみたいだな」

「まあ、そのうちなんとかなるだろう。元に戻ったら、必ず店に顔を出せよな。イットのヤツも会いたがってたぞ。あいつ、酔うとまだミラーに金返してもらってないってグチグチ言ってんだぜ」

「バカ言うなよ。あれはちゃんと返した! あいつ、勝手なこと言いやがって――」


 ここでシフルーシュの視線に気づき、ハッとしてミラーリングは我に返る。気まずそうに顔をしかめて、小さく鼻を鳴らす。

 ダンジョン街の旧友と別れてから、ミラーリングはぼそりと言った。


「私もダンジョン街の生活が長かったからな……」


 この町でミラーリングも暮らしていたのだ。友人知人がいても、不思議ではない。

 そんな当たり前のことに、シフルーシュは考えが及ばなかった。エルフの里の彼の姿しか知らなかったからだろうか。


 ほんの少し、ほっこりとした気持ちが胸の奥に芽生える。つねに完璧に見えた憧れの存在も、同じように笑い悩み、苦労やよろこびを噛みしめて冒険者をつづけていたとわかってうれしかった。


 エルフの矜持は大切だ。でも、大切なモノはそれだけではない。もっと違う景色が見たくて、故郷を離れた初心を思い出す。

 多少は落ち着いてきたのか、それとも気まずさをごまかすためか――ミラーリングは抑えた声で、静かに告げる。


「たまには里に帰ってこい。女王様が心配してらっしゃる」

「ミラー兄様、もう少しだけ待って」

「どういうことだ?」


 シフルーシュは笑顔を浮かべて、高らかに宣言した。


「わたし決めたんだ。ダンジョンを攻略してから、胸を張って女王様に会いに行くって」


※※※


 日を追うごとに、犯した罪の重さを実感していく。

 大元の責任はヤスダにはない。それでも異世界にインフルエンザを持ち込んだ自責の念で、胸が痛くなった。


 せめてもの罪滅ぼしに治療の手伝いを申し入れても、医療知識が乏しいうえに元いた世界との勝手の違いが大きすぎて、何をやってもうまくいかない。看病もろくにできず、やれることといえばせいぜい荷物運びくらいのものだ。それさえも運動不足がたたり、足手まとい気味であった。

 ヤスダは沈んだ気持ちを立てなおせぬまま、ひたすら労働にはげむしかなかった。腕が抜けそうになりながら、黙々と重い荷物を資材置き場に運ぶ。


「あっ、ヤスダさん――」


 資材置き場に若い責任者の姿はなく、フレア嬢が一人きりで物資のチェックを行っていた。ヤスダと同じ境遇とはいえ、現在は貴族の娘という立場についており、誰も労働を求めていないのだが、率先してよく働いている。

 彼女はこった肩を叩きながら、ちらりと周囲に目を配った。見たところ周りに誰の姿もない。


「エアロくん、いまちょっと席を外してるんだ」

「そうですか」と、へりくだった言葉遣いが自然と口からこぼれた。その正体をわかっていても、長年の習慣によって身分の高い相手への対応となる。「荷物はここでいいのですか?」

「そうだね。そこらへんにわかるように置いとけば、いいと思う。エアロくん優秀だから、大体のことは察してくれるよ」


 中身が何かわからない以上乱暴に扱うことはできず、慎重に腰を屈めて荷物を置く。どういうわけかスッと近づいてくるフレア嬢の気配を感じた。

 何事かと緊張の面持ちで振り返ると、満面の笑みが待っていた。いい予感はしない。


「ヤスダさん、ちょっといいかな」


 腕を引かれて、積み上げられた荷物の影に移動する。人目のつかない場所に連れ込まれたことに、ドキドキしなかったと言えばウソになるが、割合としては胸騒ぎのほうが大きい。

 フレア嬢の美しい顔立ちに宿った笑顔が、かつて苦労させられた上司の笑顔と重なった。


「これからのことなんだけど、ちゃんと考えてる?」

「これから……ですか?」

「インフルエンザはいつか終息する。ダンジョンから解放されたあとの生活はどうするつもりなの」


 思わぬ質問に、言葉が詰まった。まだ何も考えていないということもあるが、それ以上にフレア嬢の意図が読めず困惑が広がる。

 ヤスダはわずかに視線をそらし、半歩分後ずさった。


「行く当てがないなら、うちに来ない。うちっていうのはシフォール家――この世界だと、結構力のある名家なんだよ」

「ど、どうして俺を気にかけてくれるのですか?」


「うーん、同郷のよしみってのもあるけど、ぶっちゃけちゃうと自分のためかな。ワケあって、お父様にいいところを見せなきゃいけなかったんだけど、このインフル騒動でちょっと難しくなったんだよね。そこで、代わりと言っちゃあアレだけど、ヤスダさんを連れ帰ろうと思った。悪いようにはしないから、いっしょに来てくれないかな」


 まさか取って食おうというわけではないだろうが、いきなり言われても困ってしまう。ヤスダはまだ、この世界のことをまるでわかっていない。判断のしようがなかった。


「俺が何かの役に立つと?」

「もちろん」フレア嬢は得意げに大きくうなずいてみせる。「経産省の役人だったヤスダさんの知識は、すごい価値があると思ってる。この世界はまだまだ経済の土台が不安定で、もろい部分があるんだ。そういうところをヤスダさんが補ってくれるなら、お父様は絶対に評価してくれる。ダンジョン街の利権なんて、ヤスダさんの知識と比べたら微々たるものだよ」


 高く買ってくれていることはわかったが、一つ不明瞭な点がある。現在の状況だ。どうして、こんなふうにこっそりと勧誘されているのか、理由がわからない。

 フレア嬢が周囲に注意を払っていることには気づいていた。誰かに知られてはならないということなのだろうか?――と、そこまで考えがいたったとき、ピンとひらめくものがあった。


 ヤスダの価値をわかる人間がいるとするなら、それは同類に違いない。このダンジョン街にいる同類と言えば、タツカワとミスミだ――彼らに気づかれて、競合するような事態はさけたいということか。


「わたしのとこに来るのが、ヤスダさんのためでもあるよ」


 意味深な言葉と共に、フレア嬢はうすく笑う。ゾクリと背筋に冷たいものが走った。

 一回り以上年下の少女に気圧されて、無意識にノドが鳴る。


「ヤスダさんに責任はなくても、この町にインフルエンザを持ち込んだのはヤスさんなのは間違いない。たくさんの感染者が出て、犠牲者も多い。そのことが知れ渡ったら、説明したところで恨まれ報復される恐れがある。ダンジョン街に居つづけるのは危険だと思うよ。よそに出ていくなら、事情に明るい人間のそばが一番いいんじゃないかな」


 それは、ある種の脅しであり救いだった。

 この話を秘密裏に行わなければならなかったのは、タツカワとミスミだけではなくダンジョン街の住民にも聞かれてはならなかったからだ。

 自身の置かれた立場を思い知らされ、ヤスダは追い詰められていた。選択肢がどんどん絞られていく。


「インフルエンザが去ってからも、ダンジョン街は苦労が多いでだろうね。人的被害もそうだけど、社会生活がストップしているわけだから経済的にも当然苦しくなる。いろんなところにひずみができて、しばらくは混乱がつづくと思う」フレア嬢は一呼吸置いて、声のトーンを落とした。「ヤスダさんが少しでも罪の意識を感じて償いたい気持ちがあるなら、わたしといっしょに来てほしい。亡くなった人を戻すことはできないけど、経済面で支えることはできる。エドワルド・シフォール・リマ・セントローブ――わたしのお父様なら、できるよ」


 決定的な殺し文句だった。こちらの心理を理解して話を組み立てているのなら、末恐ろしい少女だ。

 ヤスダはがっくりと肩を落とし、深く頭を下げた。


「お世話になります」

「うん、ありがとう、ヤスダさん」


 おそるおそる頭を上げて、ちらりとフレア嬢を見る。

 そこには、無邪気な笑顔を浮かべる彼女の姿があった。無垢な子供のようなあどけなさを宿しているのに――底知れぬを威圧感を秘めた笑顔だった。


※※※


 ティオは暗闇のなかで目を覚ました。

 いつの間に眠ってしまったのか記憶にない。ここがどこかもわからない。昼か夜かも――いや、これはハッキリしている。暗闇にいるということは、夜なのは間違いなかった。そう思い込んで体を起こそうとしたが、全身が脱力して指先一つ動かせない。


 無理に動かそうとすると、背筋に鈍い痛みが走った。筋肉が引きつるような痛みだ。背中がつったときと感覚は近い。

 歯を食いしばる動作さえかなわず、しばらく身動きできないまま耐えつづけた。汗がじんわりと吹き出し、こもった熱を吐息で排出する。


 ふと額に冷たい感触があった。誰かが額の汗を拭ってくれている。

 その人物が知りたくて、まぶたをこじ開けた。このとき、ようやく目を閉じていたことに気づく。思考がとろけて、そんなこともわかっていなかったのだ。


「あ……」と、声になりきれなかった音が吐息となってこぼれた。

 汗を拭ってくれていたのは、ぼんやり顔のミスミだった。目が合うと、かすかに頬をゆるめる。


「よお、お目覚めか」


 返事をしたくても、ノドが枯れて声を出せない。鼻息ばかりがもれて、恥ずかしかった。

 ミスミは気にした様子もなく、テキパキと診察をはじめる。熱を測り、首筋に指を這わせて、口の中を覗き込む。一通り診察を終えると、吸い飲みで経口補水液を流し込んでくれた。

 水分が染み渡り、若干体が楽になった。気持ちも落ち着いてくる。


「おぼえてるか、お前倒れたんだぞ。意識を失って、丸一日眠ったままだった。相当無理をしていたんだな」


 まるでおぼえていない。前後の記憶がキレイさっぱり抜け落ちていた。

 自覚がないので、実感もなかった。それよりも――「ミスミ先生、ヒゲが……」


 どうして、こんなことを言ってしまったのか自分でもわからない。もっと気にしなければならないことがたくさんあるはずなのに、目についたものを、そのままするりと口にしていた。たぶん、頭がまだうまく働いていないのだろう。

 ミスミは苦笑して、アゴをなでる。ジョリジョリとヒゲがこすれる音が聞こえた。


「ああ、ダンジョンに来てから剃る余裕なかったからな。伸び放題だ」


 もはや無精ひげとは呼べないレベルで、ヒゲが口元を覆っている。

 少しおかしくて、小さく笑う。そして、また意識を失った。


 次に目が覚めたときは、だいぶ体を動かせるようになっていた。節々が痛み疲労感はあるが、まぶたを開け忘れるようなことはない。

 先ほどは気づかなかったが、ダンジョン内の療養場に他の患者と並んで寝かされていたことを知る。かたわらには、まだミスミがついてくれていた。うとうとして船をこいでいたが、ティオが目覚めるとすぐに顔を上げる。


 即座に察知できた理由は、手にあった。ミスミはティオの手を握って、その感覚で反応を読み取ったのだ。気づいていないフリをして、ティオは手を握ったままでいる。


「……わたし、どれくらい眠っていたんですか?」

「さあ、三時間くらいかな」あくびを噛み殺し、ミスミは呆けた声で告げる。「疲れてるんだから、まだ眠っててもいいんだぞ」

「でも、わたしの仕事は――うわっ!」


 いきなり濡れた布巾で顔を拭われる。汗よりも、言葉を拭うための処置だろう。


「もう、いいんだ。カンナさんが帰ってきて、ウォルトさんやセント達医術者もがんばってくれている。俺達の役目は充分はたしたよ。後は任せよう」


 ティオは短く息をついて、わずかに上げた頭を床に戻す。ガチガチに張り詰めていた気持ちが急激にゆるみ、このまま溶けてしまいそうなほど力が抜けていく。

 呆然として思考がハッキリしない。やり切ったというのに、なぜか達成感はわかなかった。


「ん!」と、ミスミがわざとらしい咳払いをする、

 鼻のつけ根にしわを寄せた顔に、ぼんやりと目を向けた。


「お前さぁ、何か言うことがあるんじゃないか」

「え?」

「せっかく剃ったっていうのに、張り合いがないな」


 言われて、ミスミの顔からヒゲが消えていることに気づく。眠っている間に剃ったのだろうか。

 ヒゲのないミスミは、普段よりも少し若く見えた。つるりとしたアゴのラインが新鮮で、胸がドキドキする。


「すごく似合ってますよ。いつも剃ってればいいのに」

「こっちにはシェーバーもT字もないからなぁ」よくわからないことを言って、ミスミはボサボサ頭をかく。「ナイフでヒゲを剃るの苦手なんだ」


 その発言に、思わず笑ってしまう。痰がノドに絡まり苦しかったが、しばらく笑いつづけた。

 ミスミは心配と不可解を混ぜ合わせた顔で、ティオを覗き見る。


「人の体は平気で切るのに、自分に使うのは苦手なんですね」

「そ、それとこれとは別だろ。かわいくないこと言うな」


 またも口封じに布巾で顔を拭われる。今度は目元を重点的に拭われた。目やにがついていたのかもしれない。


「あのミスミ先生は、体のほう大丈夫なんですか?」

「まだ頭が重いかな。熱も少しある」


 思いのほか素直に容態を告げてくれたのは、もう役目は終わったと気が抜けている証拠だろう。ミスミがここまで楽観的になっているということが、何よりも安心の材料となった。

 長かったインフルエンザとの戦いに、ようやく終わりが見えてきた。ティオは胸に詰まった不安の種を、ゆっくりと吐息として放出した。


「ミスミ先生も休んでください。わたしはもう大丈夫です」

「そう言われてもなぁ、正直寝てるだけはヒマすぎる。いまの俺が担当しているのはティオだけなんだ、面倒見させてくれよ」


 ミスミが三度布巾を手にした。濡れた布巾を、額にあてがってくれる。

 冷たくて心地いい――気がゆるみ、また眠気が差してきた。


「何かしてほしいことあるか?」

「……それじゃあ、このままでいてください」


 ティオは指に力を込めて、つないだを手を軽く握った。


「わかった、このままでいる」


 担当医はやさしく笑いかけながら、手を握り返してくれた。温かな手の感触がくれる幸福感に満たされながら、再びティオは眠りに落ちた。

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