<4>

 何がきっかけでそんな話になったのか――トロイ自身、整理がつかない。

 とにかくノンに誘われ顔を出したイオリの病室で、雑談しているうちになぜか冒険者時代の昔話を語らなければならない空気になっていた。


 少女二人にせっつかれて、しぶしぶ話はじめたわけだが、言葉にしていくにつれ舌の回りがよくなっていくのを感じた。

 まだ若かった頃は、どうして年寄りは昔話が好きなのだろうと疑問に思ったものだが、自分が年寄りになると理由がよくわかる。年を取ると最近の出来事は思い出せないのに、昔のことは鮮明に思い出せた。昔話が好きなわけじゃない、語れることが昔話しかないのだ。


 なつかしさとさみしさの混じった奇妙な感覚に浸りながら、トロイは話しつづけた。年頃の少女に語るには少々過激なエピソードもあり、そのたび顔をしかめているのは気づいていたが、かまわず続行した。相手に合わせて話を編集するような器用なまねは、トロイにはできない。


 これでいいのだろうか?――と、自問する気持ちがないと言えばウソになる。先日イオリの治癒力を上げる手段として、イオリを騙す協力をミスミに求めらた。その治療法の効能が信じられず、明確な返事を口にできなかったのだが、ミスミは半ば強制的に協力を押しつけていった。

 偏屈な性格が表立った支援の姿勢を覆っているが、できるだけ力になってやりたいとは思っている。それなのに、やっていることは意味のない昔話なのだ。我ながら不器用だと心底思う。


「ねえ、お爺ちゃん」話が一区切りついたところで、ベッドからイオリが口をはさんできた。


 顔色は少しよくなったような気がする。額の出血斑もうすくなっている。ノンが言うには、体調もほんの少し回復したとのことだ。

 ノンをはじめ、ミスミ達や両親は新しい治療法の成果をしきりに口にしていた。どこまでイオリを騙した効果か不明だが、回復の兆しが見えたのなら、理由はどうだろうとよかった。


「なんだ、小娘」

「冒険者をしてて、怖くなかった? その……死んじゃうんじゃないかって、怖くて泣きたくなるようなときはなかった?」


 トロイは言葉に詰まり、ノドを鳴らして息を飲む。ちらりと横目に見えたノンの顔が、微妙にひきつっている。

 死と隣り合わせの冒険者と、自分を重ねているのだろうか。なんと答えればいいものか、一瞬の間に頭のなかでさまざまな言葉が駆け回ったが、結局形となったのは当時感じた本物の気持ちだ。


「ワシは、自分が死なないと思っていた。ダンジョンで迷って長いこと地上に戻れなかったときも、まるで歯が立たない恐ろしいモンスターと遭遇したときも、自分だけは死ぬことがないと思っていた。最初はな」そう最初は、若さがもたらす万能感が死の恐怖を打ち消していた。「だが、知り合いの冒険者が不幸にも犠牲になると、だんだん恐ろしくなっていった。次は自分の番なんじゃないかと、恐ろしくて逃げ出したくなることもあった」

「ど、どうやって克服したの?」


 トロイは苦笑を浮かべ、軽く肩をすくめる。


「どうもこうも、冒険者はダンジョンにいかないことにはおまんまの食いあげなんでね。ビビりながらダンジョン潜りを繰り返しているうちに、ふと、自分は死なないんじゃないかとまた思うようになっていた。ハッキリとはわからんが、死に慣れていろいろとマヒしちまったのかもな。おかげで、いまも死ぬ気がしない。心臓が止まった後も、不思議と怖くないんだ。小娘も、そろそろ思いはじめているんじゃないか。自分は死にはしないって――」


 よほど思いがけない言葉だったようで、目を丸くしたイオリは曖昧に笑って明言をさけた。

 性格や性別、年齢も環境もまるで違うイオリが、トロイと同じ領域に達するのは難しいだろう。それでも、自分はと少しでも思いこめたなら、彼女を騙す助けになるのではないかと、トロイはぼんやりと思った。


 ――そうして、日々はすぎていく。治療の効果は不明瞭なままであったが、イオリの容態は多少の波はあるものの安定していた。

 良くはならないが、悪くもならない。回復と悪化をわける境界線の上を、ギリギリのところで踏みとどまっていた。


 問題が起きたのは、トロイのほうだ。突然心臓が激しく痛み、頭から血の気が引いて意識を失う。運の悪いことに、それはイオリの目の前で起こってしまった。まぶたの裏に、少女のひきつった顔が焼きついている。

 目が覚めると、また見知らぬ部屋に寝かされていた。ただし今度は、すぐそばに見知った顔がある。


「あっ、トロイさん、意識が戻ったんですね」

「……ヤブ医者か。ここはどこだ?」

「うちの診療所の手術室です。トロイさんは心臓発作を起こして倒れたんですよ。おぼえていますか」


 記憶はハッキリとしているが、面倒なので口を開かなかった。質問に答えることよりも、声を発することが億劫おっくうだった。

 ミスミは気にした様子もなく、細長い吸い口のついた陶器の容器を近づける。吸い口を口内に差し込み、容器をかたむけると液体が流れ込んできた。

 毎日嫌々味わっている煎じ薬を溶いた水だ。独特な苦みが舌先を通り、ノドの奥を湿らせた。


「水分補給が足りなかったみたいですね。俺のミスです、すみません」


 ミスミの言うとおり、水分が体に沁み渡ると、わずかだが活力が戻ってくる。ピリピリとした痛みは心臓に残っていたが、だいぶ落ち着いてきた。


「小娘はどうしてる?」

「かなり動揺していたようですが、大丈夫。ノンがそばについてます」

「そうか。なら、いい」


 この発言を聞いて、ミスミは「フフ」と小さな笑い声をもらす。

 トロイは苛立ち、顔中のしわを凝縮するように眉をひそめてにらみつけた。心臓がチクンと痛む。


「怒らないでくださいよ。ストレスは心臓によくない」

「何がおかしいってんだ」

「いや、ずいぶんとノンを買ってくれているのだと思うと……その、ちょっと面白くて」


 言われてはじめて自分の発言の意味に気づく。普段はまったく意識しないが、知らないうちに小さな看護師を信頼していたということだろうか。

 いまいち納得できず渋面を作ったトロイは、ごまかすように大きな舌打ちを鳴らした。


「まだまだ足りないところも多いですが、ノンもいっぱしの看護師になってきました」

「どこがいっぱしだ。そうなってほしいなら、小生意気な態度を改めるように――」


 興奮しすぎたのか息継ぎの瞬間、また心臓が痛くなった。話を途中で打ち切り、トロイは顔を歪めて苦悶する。

 吹き出したねっとりとした脂汗を、ミスミは真新しい布地で拭った。声をかけることもなく、静かに痛みがおさまるのを待っている。


 ミスミの顔つきを見ると、心配する様子はない。それほど気にかけるような状態ではないのか――もしくは、イオリと同様に、トロイを騙そうとしているのかもしれない。

 しばらくすると痛みが引き、荒れた呼吸が落ち着いてくる。トロイは肺腑に残ったよどんだ息を吐き出し、かすれた声でたずねた。


「ワシの心臓はどれくらいもつんだ?」

「年齢的に考えて、これ以上良くなることはないです。ただ、薬餌療法をつづけて生活改善をすれば、まだまだ働いてくれますよ。心配することはない」

「気遣いは無用だ。ハッキリ言ってくれ」


 ミスミは苦笑して、ボサボサ頭をかいた。その顔に、少し呆れが混じっている。


「トロイさんは認識違いをしているんじゃないですか。リウマチは一朝一夕で改善するものではない。長い時間をかけて体質改善にはげみ、うまく付き合っていくしかないんですよ。そのうえで心臓がもたなかったときは、それはもう、あなたの寿命です。でも、ここでは死なせませんよ」

「傲慢な言い草だな」

「そりゃあそうですよ。トロイさんに生きていてもらわないと、イオリの治療に影響する。あの子のためにも、絶対に死なないでください」


 あんまりな言い分に、思わず笑ってしまう。声を出して笑うと心臓に響くので、トロイは顔だけをゆるめて笑った。


「医者の言うことじゃないな。ワシは小娘の薬として生かされてるわけか」

「両方にとって、薬だと思ってます。同時期に入院して少なからずかかわってきた二人の患者の、精神的なつながりは大きい。トロイさんの命とイオリの命は、希望として互いを支え合っている」


 間違いではないと思うものの、気恥ずかしくて同意する気にはなれなかった。

 その代わりに、別の言葉を口にする。互いが支え合っているというのなら、聞かないわけにはいかない問題だ。


「いまのままで、小娘は治るのか?」

「いろいろ手を尽くしましたが、俺ができることは現状維持がやっとです。彼女を治せるとしたら――」


 そのとき、手術室の扉が勢いよく開かれた。慌て顔のティオが転がり込んでくる。

 ティオは急ブレーキでたたらを踏むが、間に合わずミスミの胸に激突した。二人はもつれあって倒れ、ドスンと大きな音を響かせる。


「ミスミ先生、これ、これ!」


 のしかかる形となったティオは、謝罪よりも先に手紙をミスミに押しつけた。


「これって、あれか?!」

「はい、魔法学院から返事がきました!」


 ミスミは真顔となって、ティオを乗っけたまま手紙に目を通す。手紙を持つ手が、かすかに震えている。


「おい、何がどうなってるんだ?」


 手術台の上から呼びかけると、驚くほど弾んだ声が返ってきた。


「トロイさん、朗報です。これでイオリを治せるかもしれない!」


※※※


 その女は小さかった。とうの昔に成長期を終えた大人であったが、ノンよりも少し大きい程度の小柄な女性だ。華奢なうえに猫背であることを加味すると、見た目の印象はノンよりもさらに小さい。

 彼女は目が悪いらしく分厚いレンズのメガネをかけており、じっとりとにらみつけるように人の顔を見るクセがあった。まるで因縁をつけているような険しい目つきが、遠慮の欠片もなくイオリに向けられていた。


 この風変わりな女の名は、リュシカ・モズロフ。魔法学院医術科の准教授である。


「まあ、大体のことはわかった」


 イオリの診察を終えたリュシカは、イスの背もたれに寄りかかって頭を反らし、背後に立つミスミを逆さまに見上げた。口元は笑っているが、レンズ越しの目は冷然としている。

 ミスミは曖昧に笑って、探るような視線を受け止めた。


「あんた、たいしたもんだね。あのロックバース教授が一目置くだけはある」

「いやぁ、俺の力ではイオリを治療することはできなかった。どうしようもないヤブ医者だよ」

「謙遜することないって。今日まで容態を安定させていただけでも、充分によくやってる。どんな優秀な医術者も、それぞれ領分ってもんがあって、越えられない限度がある。そっから先は、専門家の領分だ」


 リュシカは膨らみを感じさせない細い胸を張って、誇らしげに言ってみせる。魔法学院医術科で研究をつづける彼女の専門分野は、癌の治療だ。


「わざわざ出向いていただいて、本当にありがとうございます」と、ティオが改めて深々と頭を下げた。

 ティオが魔法透析の検証依頼をしたためてロックバースに送った手紙には、もう一つ要望が加えられていた。それが、癌の専門家であるリュシカ准教授による治療支援だ。


 行き詰っていた白血病治療の最後の希望がリュシカだった。ティオいわく、現代最高の癌の専門医だという。

 彼女の訪問によって治療の期待が高まり、ミスミ診療所の面々のみならず、イオリの両親、見学を希望した医術者ギルドの若手医術者、それにトロイまでも様子を見にきていた。おかげで病室は人でごった返している。


「たしかティオだっけ、あんたが礼を言うことじゃないよ。瀕死のロックバース教授に頼まれたら断れんでしょ」

「教授は生きてますから」と、付き添いの若い研究員が冷たく指摘する。


「ヨーゼスくん、冗談だよ。それくらいわかるでしょ」リュシカは口元だけに笑みを浮かべた。「まあ、教授に頼まれたこともあるけど、ちょうどベッドが一つ空いたのが大きいかな――と、言っておくけど死んでないから。ちゃんと治療して、退院してったからね」


 理由はともあれ、専門医が治療に応じてくれたことはありがたい。ようやく見えた光明だ、ノンは期待に胸を膨らませる。


「それで、イオリはどうなんだ。あなたなら治療できるだろうか」

「うーん、絶対とは言いきれないが、可能性はないわけじゃないかな。白血病は難しい病気だけど、医術は日進月歩で進化している。あんたが粘ってくれたおかげで、この子にあった効果的な術式を組めば、充分治癒できると思う。とにかく、ここじゃあダメだ。医術科の研究病棟まできてもらおうか――」


 そう言うと、リュシカはぐいっとイオリに顔を近づけた。もう少しでメガネのレンズがふれそうなほど間近で目を合わせている。

 いろんな事情を飛び越え、とんとん拍子に話が進みすぎてイオリは戸惑っていた。ある程度事前に話を聞いていたノンでさえ戸惑っている。


「い、いまからですか?」

「当然。早ければ早いほどいい。こっちはそのつもりで馬車の準備もしている」


 動揺したイオリは、助けを求めるようにノンを見て、次に困惑顔のトロイに目を向けた。

 それが最善の方法だというのなら、断る理由はどこにもないはずだった。戸惑ってはいても、ノンだってわかる。


「ああ、そうか。治療費のことなら気にしなくていいよ」リュシカはイオリの逡巡を金銭問題ととらえたようだ。すぐにこの考えにいたったということは、以前にも似たような状況があったのだろう。「一応名目上は治療法の研究ってことになってるから、うちで預かる患者の治療費は魔法学院の研究費でまかなう決まりになってんだ。心配することはない」


 裕福とはいえないイオリの家庭にとって、好都合な条件だ。

 ただし、まったく問題がないわけではなかった。


「治療費に関しては責任を持つけど、入院中の患者の世話まで手が回らないこともある。だから、ご両親のどちらかは魔法学院まで付き添ってもらって、娘さんの面倒を見てほしいんだ。寝泊まりする場所はこっちで用意するから、そこのところ任せられる?」

「わたしが行きます」と、イオリの母がすかさず申し出た。


 リュシカは笑顔でうなずく。これで問題はなくなった――そう言いたげな顔である。

 しかし、イオリの口からこぼれたのは、予想外の言葉だった。「い、いけません……」

「ハア、なんで?!」


 リュシカの驚きは、その場にいる全員の代弁であった。

 ノンは飛びつくようにイオリに迫り、その細い肩を激しく揺する。慌ててティオが止めなければ、イオリはイスからずり落ちていたかもしれない。


「ちょっと、どうしたの。せっかく病気を治せるチャンスなのに、それを棒に振るなんてバカだよ!!」

「だ、だって……」


 声を震わせたイオリは、ためらいがちにトロイを見た。

 なぜ自分が見られているのかわからないトロイは、しわだらけの顔に疑念を浮かべる。


「ずっといっしょにがんばってきたのに、お爺ちゃんを残していけない……」

「何を言ってるんだ。ワシのことなんて気にするな、自分のことだけを考えろ」


 当惑したトロイは、対処に困って動転している。入院時期が重なって交流はしていても、いっしょにがんばってきたという自覚はないのだろう。二人の病状の重さを考えると、トロイの認識は理解できる。

 だが、イオリにとっては同じ時間をすごしただけでも、病気と戦う戦友のような感覚があったのだと思う。その考えも、一番近くで見ていたノンには理解できた。


 そんな思いがけない展開に呆れながら、リュシカは「よっこいしょ」という声と共に立ち上がった。「行くよ、ヨーゼスくん」

「えっ、ですが、リュシカ先生……」

「説得は担当医の仕事。うちらが出る幕じゃない」


 リュシカの意見はもっともだが、ただ単に厄介事を押しつけたようにも見える。

 ちらりとミスミに目線を送って、魔法学院の小さな医術者は診察室を出ていった。その行為にならい、医術者ギルドの若手医術者達も後を追う。


 診察室からごっそりと人が離れ、見慣れた状態が戻ってきた。ミスミは笑い混じりのため息をついて、緊張を溶きほぐすようにボサボサ頭をかいた。


「キミがトロイさんを心配する気持ちはわかるが、治療のためには離れなくてはいけない――というか、魔法学院行きを拒否したところで、どちらにしても離れることは決定している」

「ど、どういうことですか?」

「トロイさんの退院が決まったんだ」


 目を見張ったイオリが、真相を確かめるようとノンを見た。まだ退院を知らされていなかったトロイも、同じようにノンを注視している様子が伝わった。

 医者のミスミよりも、看護師のノンを信頼してくれているような気がして、ちょっぴりうれしかった。ノンは微笑んで、深くうなずく――同時に、診察室の扉が音を立てて開いた。


「どうだ、いいタイミングだろ」


 突如あらわれたタツカワ会長は、なぜか自慢げに言った。扉の向こう側で、こっそりと様子をうかがっていたのかもしれない。

 悠々と診察室に踏み入ったタツカワ会長は、見慣れぬ二人を連れていた。一人は強張った顔の中年男性、もう一人はまだ幼い男の子だ。親子らしくどこか重なり合う顔立ちをしており、しっかりと手をつないでいる。


「何しにきたんだ、お前」

「つれないこと言わないでくださいよ、トロイ先輩。せっかく苦労して捜してきたっていうのに」


 トロイは険しく細めた目を、タツカワ会長から親子に移す。どこか居心地が悪そうにうつむいていた中年男性が、意を決して顔を上げた。思い詰めた心情をあらわすように、眉間にくっきりとした一本しわが刻まれている。


「あっ」と、声を揃えてつぶやき、ノンとイオリは顔を見合わせた。

 小さな違和感に気づいたのは、もう一人――トロイに困惑が広がり、瞳孔が激しく揺れる。


「お、お前、ひょっとして……」

「ひさしぶりだな、オヤジ」


 絞り出すように口にした中年男性の言葉に、おおかたのことを察していながらトロイは顔を歪めた。

 二人の顔立ちは、あまり似ていない。でも、感情をこらえる表情に通じるものがあった。そばでトロイを見てきたノンとイオリは、そのことを誰よりも感じ取れる。


「おい、タツカワ、どういうことだ!」

「俺が捜してほしいと頼んだんですよ」ミスミが何食わぬ顔で告げた。「トロイさんの治療には、長い時間がかかる。年齢的に、そばで支える人が必要だ」

「勝手なことをするんじゃねえよ!」

「勝手だったかもしれないが、息子さんは呼びかけに応じてくれた。それが、どういうことかわかりますよね」


 トロイは声を詰まらせ、改めて息子に目を向ける。いつも高圧的な老人の目に、怯えの色がわずかに混じっていた。


「な、なんでだ。ワシを恨んじゃいないのか?」

「恨んでるさ。いまだって怒っている。でも、オヤジを許してやれっていうのが、オフクロの遺言なんだ。オフクロの最後の頼みは聞き届けてやりたい」

「あいつ、死んだのか……」

 息子は悲哀に満ちた表情で、力なく首を垂れた。「もう十年以上前のことだ」声がかすかに震えている。


 妻の死を知り、トロイは静かにまぶたを落とす。胸の奥に沈殿した後悔は、もう永遠に解消されることはないのだ。自責を凝縮したような重い吐息が、ひび割れた唇からもれた。


「正直まだ納得できてないところもあるけど、オヤジがかまわないならいっしょに暮していいと思ってる。オフクロのこともあるし、息子がオヤジと会ってみたいと言ってたからな――」


 トロイの息子の息子――つまり孫だ。確かな血のつながりを感じさせる顔立ちをしていた。不思議なものでトロイと息子は似ていないのに、息子と似ている孫は、どことなくトロイと似かよっていた。

 父の足にまとわりついて隠れていた孫が、恥ずかしそうに顔を覗かせる。


「お爺ちゃん?」


 一瞬のことだが、偏屈な老人はこれまで見せたことのない甘い表情を浮かべた。ハッとして厳しい顔に戻ったが、口元にまだゆるみが残っていた。


「どうです、トロイさん、息子さんの好意に甘えてもいいんじゃないですかね。そうすれば、イオリも安心して旅立てるだろ」


 イオリは真剣な表情で何度もうなずく。家族の支えに助けられてきた少女にとって、これほど頼りになる介助者はいない。


「……どこまで卑怯なんだ、ヤブ医者め」

「医者はときには患者を騙すもんだと教えてくれたのは、トロイさんじゃないですか。卑怯は誉め言葉ですかね」


 顔をしかめたトロイに、身を乗り出してノンは声をかける。最後の一押しになればいいと思って。


「爺ちゃん、年を取ってもえられるもの、ちゃんとあったね!」


 トロイはこれみよがしな大きなため息をついた後、こらえきれないといった様子で苦笑をもらした。


「まったく、厄介な医者に厄介な看護師だ。最後までイラつかせてくれる」

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