<5>

 早急な転院を求めるリュシカに応じて、移動準備はすみやかに行われた。翌日の朝には、二台の馬車がミスミ診療所の前に並ぶ。

 魔法学院に転院するイオリだけでなく、息子が暮らす町に引っ越すトロイも、ダンジョン街を離れることになるのだ。


 別れを惜しんで言葉を交わす二人の患者を、ノンはぼんやりと見ていた。ようやく肩の荷が下りるというのに、まるで実感が持てない。急な進展にまだ頭が追いついていないのだろうか。


「どうしたの。行って話しておいでよ」と、ティオが軽く背中を押した。


 よろめくように踏み出した足は、見えない出っ張りにつまずくようにつっかえて止まる。拒絶する気持ちはまったくないというのに、なぜか足が動いてくれないのだ。ノンは困惑して、すがるようにティオを見た。

 疑問符を眉の形であらわしたティオの背後から、ひょっこりミスミが顔を覗かせる。


「ノン、もしかして納得していないのか。スッキリしてないんだろ」

「どういうことですか?」

「俺達が治療して送り出すわけじゃない。どうにもできなくて人任せにするしかなかった。心情的に納得できないのかと思ってさ」

「ああ、そういうことですか……」


 思い当たる節があるのか、ティオはしみじみとつぶやく。


「だったら、なおさら行って折り合いをつけてこい。こういうことは、ままあるぞ。他にすがるしかない状況は、医療現場ではよくあることだ」


 ミスミとティオも、きっと同じような気持ちになったことがあるのだろう。医療従事者は誰もが通る道なのかもしれない。


「わかった」と、口にしたが、本当にわかったのかノンは自分のことであるのに判別できなかった。ただ、足はちゃんと動いてくれた。

 ぎこちなく近づくノンに気づいて、二人は笑顔で迎えてくれる。気難しい顔ばかりしていたトロイまで、今日は穏やかな笑顔を浮かべていた。


 病室の外で顔を合わせていることに、妙な違和感があった。日の光に照らされた二人は、病室よりも鮮明に病の影を濃く感じる。チクンと胸が痛んだ。


「ノンちゃん、これまでありがとう」

「アタシ、別に何も……」


 顔を強張らせたノンを見て、トロイは不思議そうに首をかしげる。


「やけにしおらしいな。いつもの生意気な態度はどうした」

「だって――」


 ノドが塞がれたように、言葉がつづかなかった。ツンと鼻の奥が熱くなり、慌てて奥歯を噛み締める。

 悲しかった。何が悲しいのかもわからないが、とにかく悲しいという感情が胸の奥から溢れ返った。それはイオリにも伝播して、見る間に瞳が潤んでいく。

 イオリはやせ細った腕で、ノンの小さな体を包み込む。背中に回った手が、かすかに震えていた。


「わたしが今日まで生きられたのは、ノンちゃんのおかげだよ。元気になって、ノンちゃんに会いに行くのが、いまの目標。ノンちゃんがいてくれるから、わたしは生きたいと思える。待っててね、ここで」

「うん、待ってる、ここで――」


 そう絞り出すので精一杯だった。ノンとイオリはお互いの肩で涙を拭う。

 悲しかった。何もできなかったことや人に任せるしかないこともそうだが――別れるのが悲しいのだと、このときノンは気づいた。友達と離れるのがさみしい、そんな単純な理由で悲しくて、現実を受け止められないでいたのかもしれない。


「ねぇ、そろそろ行こうよ」


 せっかちなリュシカにうながされて、惜しみながら体を離す。

 イオリは深く頭を下げると、母に手を引かれて魔法学院所有の馬車に乗り込む。その様子を見届けてから、トロイもタツカワ会長が用意した馬車に向かう。

 トロイは先に乗り込んでいた孫の手を借りて、踏み台に足をかけたとき――ふいに振り返り、ノンを見た。


「おい、ノン」トロイがはじめて名前を呼んでくれた。「いい女になれよ」

「えっ?」

「男ってのは、いい女に看病されるのが一番うれしんだ。いい女に看病されるのが、病気の一番の薬になる」


 トロイなりの別れの言葉なのだろう。思わずノンは吹き出し、いつもの調子で返事をする。


「じゃあ、わたしに看病されてうれしかったでしょ。いい女の看病だもん」

「ふざけんなよ。色気の欠片もないチビガキが、十年早い」

「うっさい、クソジジイ。その口の悪さ治さないと、孫に嫌われるよ」


 こんなふうに言い合うこともなくなると思うと、やっぱりさみしかった。ノンは必死で涙を押しとどめ、笑顔を作る。

 トロイは馬車に乗り込むと、窓から顔を覗かせて言った。


「ありがとよ、看護師さん。世話になった」


 二台の馬車がゆっくりと発進し、それぞれの目的地に向けて分かれていく。

 ノンは見えなくなるまで手を降りつづけ、溢れ出した感情を言葉にする。


「アタシ、看護師になって本当によかった!」


※※※


「やっと一息つけるな」


 患者二人を見送り、ミスミがぼそりと言った。肩の力が抜けて、疲労がたまった背中が心持ち丸まっている。


「そうですねぇ。ひさしぶりにゆっくり眠れそうです」

「こんなときにかぎって、急患がきたりしてな」

「ミスミ先生、怖いこと言わないでくださいよ!」


 軽口を叩きながら、ミスミを先頭に診療所へ入る。ゆるみきった顔のティオの後を、赤く目を腫らしたノンがつづく。そして、もう一人――


「えっ?」


 診療所に会したのは四人だった。ミスミ診療所の面々は、ギョッとして異分子に目を向ける。

 なぜ自分に注目が集まったのか理解できないようで、彼はぎこちなく笑う。ティオと同年代の青年であるが、笑うと苦労じわがくっきりと浮かび上がり、老熟した印象が浮き上がった。


 魔法学院のヨーゼス・ラスタだ。てっきりリュシカと帰っていったものと思っていたが、どういうわけかダンジョン街に残っている。


「ど、どうしたんですか、ヨーゼスさん」

「どうしたと言われても……まだ私の用件は済んでいない」

「イオリの病気とは別件なのか?」と、首をかしげたミスミの姿を見て、ヨーゼスはようやく状況を飲み込めたようだ。


 照れくさそうに鼻の頭をかいて、事情を説明する。


「元々ダンジョン街に用事があって、リュシカ先生の馬車に便乗させてもらったんだ。なりゆきで診察を手伝いはしたが、私の目的は別にある」


 ヨーゼスの視線が一点に向けられる。つられてミスミ達も顔向き同調させた。


「えっ、わたしですか?」

「そう、ティオくん、キミに用事がある」


 いきなりの名指しに仰天したティオは、あわあわと口を震わせてうろたえた。それなりにキャリアを積み、診察でもダンジョンでも取り乱すことなく行動できるようになっていたが、いまだに日常の突発的な出来事には脆かった。

 そろそろ落ち着いた大人の女になりたいと思っていても、持って生まれた小心な性格ばかりはなかなか矯正できない。


「ティオ姉ちゃんになんの用事?」


 言葉が出ないティオに代わり、いぶかしげにノンが質問した。その声色には懐疑がたっぷりと含まれている。

 ヨーゼスは空咳を打ち、微妙に強張りを残した真面目な表情を作った。


「実は、ロックバース教授が倒れられた」

「ロックバース先生が?!」


「安心してくれ。ただの過労で、すでに回復している。もう心配するようなことはないのだが……医術者でありながら自分の体調を見誤ったことがショックだったらしく、少しナーバスになっておられるんだ。もし不慮の事態が起きたとき、教授の志を継ぐ者があらわれるのか懸念されている」


 ティオは息を飲み、わずかに視線をそらす。

 熱っぽい声で、ヨーゼスはこれまで見て見ぬふりをしてきた問題を突きつけた。


「おこがましいとは思うが、ロックバース教授に代わって私が説得にきた。ティオくん、そろそろ覚悟を決めてくれないか」

 

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