<2>

「白血病?」


 トロイがオウム返しで病名を口にすると、ミスミは気まずそうに目を伏せた。

 思わず口をすべらせたようだが、病状を赤の他人にもらすことは、医療関係者として認められないことなのだろう。病名を聞いたところで、トロイにはまったく理解できなかったわけだが。


 ただ難しい病気であることは、その態度から察せる。おそらくは生死にかかわる重い病だ。

 トロイはふと、病に倒れたかつての仲間を思い出す。彼もいまわの際、少女と似た雰囲気をまとっていた。年を取ると、味わいたくもない経験を嫌でも積んでいくものだとしみじみ感じる。


「治せるのか?」

「治します」


 言いきりはしたが、確証があるわけではないのだろう。声の響きから感じ取れる。

 トロイは開きかけた口を、思い直して閉じた。よく知りもしない外野が、グダグダと口をはさむのは野暮の極みだ。

 しかし、このときもう少しくわしく聞いておくべきだったと、後日後悔することになる。


「あー、薬まだ飲んでない。ちゃんと飲まないと治んないよ!」


 あくる日、病室にやってきたノンは、サイドテーブルに手つかずで残っている薬を見て、眉を吊り上げ怒った。体は小さいが、感情の起伏が激しく身振りにあらわれる分見た目以上に大きく感じるときがある。

 トロイは笑いをかみ殺し、斜にかまえてフンと鼻を鳴らす。


「そんなまずいもん飲んでられるか。よけい体に悪い」

「そういうことは、飲んだ人が言うもんなの。太っちょが用意してくれたんだから、飲んであげなよ」


 調合した煎じ薬を突きつけられて、トロイは首の筋が痛むほど顔を反らした。看護師というのは、よけいなお節介をすることが仕事なのだろうか。

 ノンは不満を煮詰めたような表情をじっと向けていたが、根負けしたのか、「ハア」とこれみよがしなため息をついて、薬をサイドテーブルの元の位置に戻した。


「アタシ、ちょっと席を外すけど、逃げ出しちゃダメだからね。薬も絶対飲んでよ。爺ちゃんが飲まないと、アタシがセンセェに怒られる」


 いぶかしむ視線を何度も送り、こってりとした疑念を残してノンは部屋を出ていった。

 そのまま隣の病室に向かうものと思っていたが、足音は逆方向に遠ざかっていく。何か別件の用事があるようだ。


 トロイは監視の目が失せたことで、張っていた気をゆるめる。ノンが心配したとおり、こんな場所からはすぐに逃げ出したいところだが、体が言うことを聞いてくれそうにない。

 寝姿勢が悪かったのか、背中が突っ張り軽い痛みが常駐していた。それだけならまだしも、左の肩甲骨の下が異様にかゆい。痛みよりも、むしろかゆみのほうが勝っているくらいだ。


 どうやっても手の届かない位置だったので、ベッドにこすりつけてかゆみをごまかした。体を芋虫のようにモゾモゾと動かす――人には見せられない情けない姿だ。

 それを覗き見しようと思っていたわけではないだろうが、ふいにカチャリと音を立て部屋の扉がわずかに開いた。ほんの少し開いた隙間から、つぶらな瞳が見え隠れしている。老人の弱った視力ではハッキリと確認できなかったが、ひそんだ人の気配は感じ取れた。


「誰だ?」と、かゆみを我慢して、毅然たる態度で言った。

 間を置いて、おずおずと扉を開き、少女が顔を出す。やせ細った体に、生気のうすい青白い肌――隣の病室のイオリだ。


「こ、こんにちは」

「チビガキなら、こっちにいないぞ。どこかに行っちまった」

「……お爺ちゃんと、ちょっと話してみたくて」


 話し相手がいなくて、さみしいということだろうか。トロイは内心迷惑に思いながらも、かろうじて存在した良識が拒絶を押しとどめる。


「お前、起き上がって大丈夫なのか?」

「今日は調子がいいんです。ぜんぜん平気です」


 声色は調子がいいとは思えない弱々しいものであったが、部屋に踏み入った足取りは存外しっかりとしていた。

 遠慮がちにベッド脇まできたイオリは、サイドテーブルに置かれた薬の包みを目にして。「あっ」と小さな声を上げる。


「お薬……ですよね」


 病気が違うので当然薬の内容物は別物だろうが、彼女にも調合薬が処方されているらしい。


「苦くても、ちゃんと飲めよ。治るもんも治んねえぞ」


 自分のことは棚上げして、大人の振る舞いを演じる。イオリは少しバツが悪そうに、苦笑を浮かべた。

 ここで、一旦会話が途切れる。元々内向的な性質なようで、少女は次の話題をとっさに繰り出すことができなかったのだ。その間隙を狙ったように、唐突にかゆみがぶり返し、トロイは反射的に背中をベッドにこすりつけた。

 何事が起きたのかと目を丸くしたイオリであったが、同じ病人という立場が状況を気づかせたようだ。


「ひょっとして、背中がかゆいの? かきましょうか?」

「……そうか、悪いな」


 トロイは素直に体を横にして、背中を向ける。同じ病人という立場であるからか、意固地にならずに気兼ねなく頼めた。

 イオリは笑顔を浮かべて、そっと背中に指を当てる。


「もう少し左だ――あ、その少し右。そう、そこだ。その骨のでっぱりの下をかいてくれ」

「はい」と、イオリは二本の指を上下に細かく揺すってこする。

「もっと強くしていいぞ」


 遠慮がちな手つきで、とてもかゆみをかき消せそうにない弱い摩擦だった。強くと注文しても、肌が受ける触感はトロイの想定にはほど遠い。

 ためらっているというよりは、力加減をわかっていないといった様子だ。慣れの問題だろうか。これまで他人の背中をかいた経験がないのだと思う。


「もっともっと強くしていいぞ」

「あ、はい……」


 ようやく満足のいく強さとなった。かゆみがうすれて、心地いい余韻が背中に残る。

 しばらくトロイは、イオリの指に身をゆだねた。言葉を交わすわけでもなく、双方無言でささやかな擦過音に耳をかたむける。


 不思議と悪い気はしなかった。年を取って他者と一線を引く傾向の強かったトロイは、会ったばかりの少女に背中をかいてもらい穏やかな気持ちとなっている自分自身に少し戸惑いもしている。

 医者に病気の事実を突きつけられて、知らず知らずのうちに動揺が積もっていたのかもしれない。そうでなければ、現在の気持ちに理由がつけられない。


 ――そこに、しっとりとした空気をぶち壊す声が飛び込んできた。


「あー、ちょっと何やってんのさ!」


 戻ってきたノンが、この奇妙な状態に困惑して声を上げたのだ。

 まずイオリを見て、次にトロイに視線を移す。心なしかトロイに向けた目に、険がこもっているように感じた。


「背中がかゆいなら、アタシに言ってくれればいいのに。わざわざイオリに、こんなことさせないでよ」


 そう言って、ノンは一切ためらうことなく背中に指を押し当てた。


「痛ッ――こら、チビガキ。ツメを立てんじゃねえよ!」

「違うのノンちゃん。わたしが勝手にやったことで、お爺ちゃんは悪くない」


 どうにも納得できない表情を崩さなかったノンであるが、ひとまずイオリの言葉を信じたようだ。短く息をつくと、肩をすくめてクイッとアゴを振った。


「イオリ、とにかく病室に戻りなよ。お父さんとお母さんが来てる。センセェとの話が終わったら、すぐに顔を出すってさ」

「あ、うん、わかった」イオリはうれしそうにうなずき、トロイに笑顔で小さく手を振った。「お爺ちゃん、またね」


 部屋を去る少女を見送った直後、廊下を通る足音が聞こえた。隣の病室から親子の会話が聞こえてくる。

 ノンはベッドの端に腰を下ろして、ゆるりと壁に目を向けた。まるで壁越しに、親子の姿を透かして見ているかのようだ。


「イオリの家族って、すごく仲がいいんだ。でも、治療費でお金がかかるから、お父さんもお母さんも働きづめでなかなか見舞いにこれない」

「なんだ、あのヤブ医者ボッてんのか」

「変なこと言わないで、そんなことない。ほとんど医術者ギルドの医術者を要請する費用で飛んでる。うちはタダ働きみたいなもんだよ。――その分、爺ちゃんには多めの請求がいくと思うから覚悟しといて」


 ノンなりの冗談に、トロイは思わず口元をゆるめる。


「いいぞ、取れるもんなら取ってみろ。無いところからは、どうやっても取れやしねえぞ」

「大丈夫、いざとなったらタツカワ会長に請求するから」どこまで本気かわからない口調だった。「ところで爺ちゃんが倒れたこと、家族は知ってるの?」


 トロイはフンと鼻を鳴らし、微妙に視線をズラす。


「カミさんはガキを連れて出ていったよ。もうずいぶんと昔のことだ。いまはどこで何をやっているか、生きているのかさえも知らねえよ」


 冒険者としてヤクザな生活を送っていたトロイに愛想を尽かして、生まれたばかりの息子を連れて妻は出ていった。当然のことだと、年を取った現在は理解できるが、まだ若かった当時は逆恨みして周りに当たり散らしたこともあった。

 最低の男だと、自分自身で思う。後悔の念は月日と共に凝り固まり、もはや性根の一部と化している。


「そっか、爺ちゃんひとりぼっちなんだ……」


 ノンの同情がこもった発言で、ハッと我に返った。

 告げなくてもいい個人的な問題を、不覚にも口にしてしまった。きまりが悪くて、はぐらかそうと――またよけいなことを言ってしまう。


「どうだっていいことだ。どうせ年を取れば、いろんなものを失っていく。年を取って、えられるものなんて何もない。最後はひとりぼっちになって死んでいくだけだ」

「そうかなぁ、そんなふうには思えないけど」

「ガキのお前にわかるわけねえだろ」


 年を重ねるということは、たくさんのモノがもがれていくことを意味する。家族を失い、友人を失い、健康を失い、そして、命を失う。それが人間であり、生命というものだ。

 どんな名医であっても、この真理だけは捻じ曲げることはできやしない。老いを克服することは、きっと神様が禁じている。


※※※


 入院患者がいたとしても、診療所の通常業務を怠るわけにはいかない。

 その日、毎月決まりの往診にでかけたミスミの付き添いでノンは街中にいた。ここのところ病室と診療所というせまい範囲だけで活動していたこともあって、多少は気分転換になったが、やはり頭の片隅ではイオリの存在がつねに引っかかっていた。

 気もそぞろなまま往診を終え、急いで帰路につく。その道中、往来にできた人だかりに遭遇した。


「何があったんだろう?」と、興味を示したミスミが、人だかりに吸い寄せられていく。

 しかたなくノンも後につづくと、群衆の中心で注目を集める奇抜な衣装の男を目撃する。どうやら大道芸人のようだ。


 男の前には桶が置かれており、その中身は黒く染色した水が張ってある。見物人の視線を浴びて、男は得意げにピンと立てた指を水に浸した。

 何事かと見ていると、しばらくして黒く染まった水がじわりと透明に変わっていった。指がふれた箇所から、外側に向かって徐々に変化していく。


「おお!」と、驚きのさざめきが見物人に広がっていった。

 ノンもミスミも、同様に驚く。

「人間ってのは単純だね、こんなものに驚くなんて」


 呆れ返った聞き馴染みのある声が、すぐ近くで発せられた。慌てて振り向くと、いつからいたのかエルフのシフルーシュが二人の背後に立っていた。

 シフルーシュはつまらなそうな顔で、すっかり透明になった桶の水を見ている。


「どういう仕組みかわかるの?」

「いつも見てるだろ。あれは活性化魔法だ」

「活性化魔法? えっ、あれが?」

「生命の精霊魔法と似た波動を感じる。ティオが使ってる活性化魔法と同じものでしょうね。おおかた汚れた水の浄化作用がある物質を指にぬって、それを活性化させたってところかな」


 ぼんやりとだがわかったような気はしたが、それがどこまで正しいかはわからない。とにかく活性化魔法であることは、シフルーシュが言うのだから間違いないだろう。

 どちらにしても、大道芸として成立しているなら、それでいいのでないかとノンは思った。それ以上の感想はない。だが、ミスミは少し違ったようだ。大道芸を予想外の形に発展させていた。


「これを使えば……できるかもしれない」


 ポツリとつぶやき、ボサボサ頭を乱暴にかく。どういうわけか目を血走らせて、歪んだ笑みを浮かべていた。

 ノンとシフルーシュはギョッとして、思わず顔を見合わせる。


「おい、戻るぞ。イオリを助けることができるかもしれない!」


 言うが早いかミスミは人だかりをかき分けて、転がるように駆け出していた。呆気に取られて出遅れたノンは、ワケがわからぬまま追いかける。

 休むことなく診療所まで走り抜き、治療準備を行っていたティオをつかまえたミスミは、先ほど見たばかりの大道芸のあらましをまくし立てた。


「ああ、それはきっと活性化魔法の基礎練習の一つでしょうね。わたしも学生時代にやったことがあります」

「それを、イオリに使えないかな。つまり血に応用できないか?」


 思いがけない問いかけに、ティオは理解が追いつかないようで困惑を浮かべていた。医術者のティオでさえ理解できないのだから、ノンには意味不明としか言えない。


「血液に使用するということですか?」

「そうだ。通常の肉体越しよりも、取り出した血液そのものに直接魔法をかけることができたなら、より効率的に血液の異常を正常値に戻せるんじゃないかと考えた。効能はことなるが、いわば血液透析――いや、魔法透析といったところか」

「ちょっと待ってください。一度取り出した血液を、また彼女の体内に戻すということですか? そんなことして人間の体は大丈夫なんですか?」


 ミスミは苛立たしげにボサボサ頭をかく。伝わらないもどかしさで、怒ったような顔となっていた。


「もちろん取り扱いには充分注意しなくてはいけないが、理論上問題はない。白血病は血液の癌だ。造血細胞が癌化し、血液中の赤血球や白血球、血小板といった血液細胞のバランスが崩れて白血病細胞が混じるようになる。もし血液を浄化して白血病細胞を減らすことができたなら、回復の目途が立つ。少なくとも治療の時間が稼げるはずだ」


 言っていることはほとんどわからなかったが、ミスミが提案した治療法を実践すれば助かる見込みがあるというのはノンにもなんとなくわかった。ティオの話では、少数ではあるが回復魔法で白血病を克服した例はあるという。ミスミの治療法の効果がうすかったとしても、最低限時間を稼ぐことができれば、その分治癒する確率も高くなるのだ。


 手の施しようがなかった状態に、ようやく一条の光が差した。ノンは喜色を浮かべるが、なぜかティオの表情はすぐれない。


「話はわかりました。確かにミスミ先生がおっしゃる方法なら、助けることができるかもしれない。でも、その治療法を試験もなく執り行うのは反対です。安全性の確認できない治療を、患者さんに使用することはできません」


 声こそ小さかったが、強い意思のこもった言葉だった。ティオの珍しい反発に、ミスミは面食らっている。


「安全性って、そんなこと言ってる場合かよ……」

「信頼できる治療法であるのなら、わたしも納得したかもしれません。だけど、何が起きるかわからない治療は承服できない。もし命にかかわるようなことがあったら、どうするんですか」

「じゃあ、どうしろって言うんだ!」


 ミスミの怒鳴り声に一瞬顔を強張らせたティオであったが、ひるむことなく目を合わせた。

 ノンはオロオロと見ていることしかできない。


「ダンジョン街では、新しい治療法の安全性を確認する人材も設備も足りません。魔法学院のロックバース先生に頼みましょう。すぐに手紙を書きます。あそこには専門の先生もいますし――」


 よほどせっついた内容だったようで、手紙を送った三日後に返事が届く。

 これでようやく治療の目途が立つとノンは喜んだが――返事に目を通したミスミの表情が冴えることはなかった。

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