<2>
ダンジョン潜りの進展は、思うようにはいかなかった。ひとえにエルザの存在が、パーティの歩みを鈍らせている。
時おり意識障害を起こし、停止をよぎなくされる――というのも理由の一つだが、そんなことは些細な問題にすぎない。エルザのダンジョン探索は、予想以上に慎重で、これまで考えもしなかった細密な警戒行動を強要されたのだ。
はやる気持ちを押さえられないマイトが不満をもらしても、理詰めで言い負かして指示を承服させる。行動の一つ一つに納得のいく理由があり、冒険者として未熟な部分を突きつけられているような気分になった。
慣れない手順が多く手間取ることばかりだが、彼女にとって必要な手順であるのだろう。おそらくエルザが組んでいたディケンズのパーティは、半ば自然と警戒を行っていたと思われる。そうでなくては、一歩進むにも時間がかかってしょうがない。
充分な準備を整えてあるので、多少進みが遅くとも活動に支障はなかった。ただ地上で待っているミスミ達は、やきもきしているのではないかとティオは申し訳ない気持ちになる。
結局出発当日のうちに地下三十七階到着を目標としていたのだが、一日かけて十階潜るのが精いっぱいだった。肉体よりも精神的な気疲れでヘロヘロになり、この日は早々に野営して、英気を養うことにする。
翌日になるとエルザの警戒行動にも慣れてきて、多少は進みが早くなった。
さらに階を下りるごとに警戒の効果を実感するようになり、積極的にエルザの意見を聞き入れるようになっていた。
彼女も惜しむことなく、身に着けたノウハウを教えてくれる。ダンジョンでえた知識と経験を、伝授しようと思っていたのかもしれない。
そんなエルザが唐突に足を止めたのは、地下三十五階にたどり着いた直後のことだった。自分自身を抱きしめるように腕を回して、体を小刻みに震わせる。
慌ててティオが覗き込むと、その表情には明確に怯えが浮き立っていた。
「ど、どうしたの、エルザ!?」
「わからない……わからないけど、何かが呼んでいるのを感じる。行きたくはないのに、まるで引っ張られるみたいに体が反応する……」
周囲を注意深く見回したが、これといって見当たるものはない。ティオは唇を結んで、しっかりと彼女の手をつかんだ。どこにも行ってしまわないように。
張り詰めた空気のなか、これまで以上に慎重な足取りでダンジョンを進んでいく。エルザの不安定な精神状態を表すように、石畳を叩く足音の合間に荒い呼吸音が聞こえてきた。
「本当に大丈夫? 少し休む?」
「ううん、このまま行こう。わたしを呼んでいるモノが、ひょっとしたらパーティを襲った犯人かもしれない」
先頭に立つゴッツが、ちらりと振り返った。その顔には緊張がにじんでいる。
「相手がどんなヤツか、些細なことでもいいからわからないかな。ヘタをすると俺達も――」
ゴッツは中途半端なところで言葉を区切る。だが、何を言いたいかは全員が察した。
――手口がわからないまま遭遇してしまうと、エルザ達の二の舞を演じることになるかもしれない。その危険性は、エルザと共にディケンズ捜索に向かうことが決まったときから、ずっとついて回っていた問題だ。
「ごめん、何もおぼえていないんだ……」
エルザのパーティに、いったい何が起きたのか。肝心な部分の記憶がすっぽりと抜け落ちている。半年間待ちつづけたが記憶障害が回復することはなく、無策で挑むほかなかった。
「ロックバース教授の予想があっているなら、必ず今回の事態を引き起こした犯人は存在する。それを何とかして見つけるしかないよ」
「簡単に見つかるならいいんだけどな……」
不安を噛み潰した小さな声を返して、ゴッツは険しい目を正面に向けた。
上級冒険者のディケンズのパーティでさえ出し抜かれた相手だ、簡単ではないと充分わかっている。覚悟していたことだが、やはり怖かった。
「どうして思い出せないんだろう。思い出せたら、きっとヒントになるのに……」
おぼつかない記憶を嘆くエルザが、再び足を止めたのは地下三十六階に下り、しばらくしてからのことだ。
今度は彼女だけではない。全員が一斉に足を止めた。
「な、なんだよ、これ……」
マイトは驚きの声を上げて、目を大きく見開いた。
通路の先に、焦げ茶色の苔が絨毯のように敷かれていたのだ。それは奥に行くほど密度を増していき、壁にまで浸食している様子が見て取れた。
「ガンシンのパーティがアーレスと遭遇したのは、苔むした場所だったはず。確か地下三十七階だと聞いたけど……」
「こ、苔は、し下からきてる?」
シフルーシュの疑問に、ダットンが疑問を返す。もちろん誰も答えられるわけもなく、困惑だけが頭に浮かんだ。
それでも、わかったこともある。
「この先に、わたしを呼んでいるヤツがいる」
声を震わせて、エルザが言った。きっと何かを感じ取ったのだろう。
息が詰まるほどの緊迫感が、パーティを満たしていった。もしもエルザが感じ取れなかったとしても、同じ結論に達したとは思う。苔の奥に何者かがいる、と。
マイトは剣を引き抜き、一歩進み出た。手足の動きがぎこちなく、見ていて危なっかしい。
「行こう、ディケンズが待っている」
あくまでこれは言葉のあやであって、実際にディケンズがいる確証はない。マイトとしても、決意を固める意味合いでしかなかったはずだ。
だが、その言葉は事実となる。ついにエルザが焦がれたディケンズと遭遇する――たとえ望まぬ形であったとしても。
※※※
「結局のところ、どうしてエルザは記憶を失ったんだろう」
診察室をグルグルと回っていたミスミが、鼻のつけ根にしわを寄せた険しい顔をタツカワ会長に向けた。日をまたいで丸一日たとうというのに、まだ不安に踊らされて落ち着かないようだ。
すっかり見慣れてしまった光景に、ノンはため息をついて苦笑をこぼした。
「ハッキリしたことは、何も言えませんよ。エルザの症状さえも、よくわかっていないんだし」
「医者としての見解を聞かせてほしい」
ようやく足を止めたミスミは、事務机に寄りかかってわずかに首をかしげる。困っているというよりは、迷っているように見えた。
「あくまで推測にすぎませんが――」そう前置きしてから、ミスミはつづける。「エルザの頭部に外傷は見当たりませんでした。エルザの症状がウォルトさんの言っていたとおり禁呪によるものだとするなら、操るのに利用する脳を傷つけるようなマネはさけることでしょう。そうなると、頭部に衝撃を受けて、記憶障害引き起こしたとは考えにくい」
今度はタツカワ会長が首をかしげる番だった。
「他に記憶が抜けるような原因があったってことか?」
「たぶん、そうでしょうね。状況がわからないので確証はないですけど、たとえばショッキングな出来事を目撃して記憶が飛ぶことがあります。彼女の心が、精神負荷に耐えられなかった。聞いたことないですか、
ミスミの説明によると、記憶障害は大別して二種類あるとのことだ。一つは記憶中枢を備えた脳が損傷を受けて引き起こる脳機能障害、もう一つは過度のストレスが脳機能を阻害して起こる心的要因による健忘症。エルザは後者ではないかという。
いまいちピンとこなかったが、問題となるのは原因よりも治療法だろう。ノンは思わず口をはさむ。
「センセェ、治すことはできなかったの?」
「できない……というより、情けない話だが治療法がわからなかった。心療内科の領分は専門外だ。心の問題は知識もないのにヘタに手を出すと、よけいこじれる可能性もあるから難しい。時間が解決してくれることを期待したんだが、それもかなわなかった」
難解な言葉が混じり、ノンには理解できない部分もあったが、とにかく治せないということだけはわかった。
ミスミが治療できないのなら、もう回復の見込みはない――そう解釈したノンだったが、どうやらそういうわけではないらしい。
「ダンジョンでなら、記憶は戻るかもしれないな。それがいいことかはわからないが……」
「えっ、どういうこと?」
「簡単な話だ。襲った相手と遭遇すれば、欠けている記憶は戻る可能性がある。当時と似た状況になるわけだからな」
ミスミの説明に、タツカワ会長が神妙な面持ちで最悪の想定ををつけ足した。
「ディケンズのパーティを壊滅させた恐ろしい相手だ。場合によっては、同じあやまちを繰り返すことになるかもしれんぞ」
ギョッとして、ノンは顔を引きつらせる。危険だとはわかっていたつもりだが、いつものダンジョン潜りの延長程度の認識であったのだ。
「それを、わかっていて送り出したの?!」
隠しきれない腹立ちが、怒気を含んだ甲高い声に変換される。
タツカワ会長は苦笑して、わざとらしい動作で肩をすくめてみせた。
「俺は止めた。これは彼らが望んだことだ。――普段はそう見えなくとも、冒険者というのは、危険を承知で踏み出す頭のネジが外れた連中だと忘れてもらっては困る。最悪の事態も覚悟のうえで、行くと決めたはずだ」
「ティオは冒険者じゃないけどな」
ボソリと、ミスミがつぶやく。その声にはかすかな恨みがこもっていた。ディケンズ捜索の容認に、内心納得していないのだろう。
「いいや、お嬢ちゃんも冒険者だ。組合に冒険者登録をしているからな」
どこまで本気かわからない言い分に、ノンもミスミも顔をしかめる。
黙って話を聞いていた元冒険者のカンナバリだけが、なぜか理解を示すように微笑を浮かべていた。
「冒険者なんてものは、署名した紙切れ一枚でしか実証できないチンケな存在だ。言ってみれば、登録がすべてと言える。どんな理由だろうと一度書いたからには、登録を取り消すまでは冒険者でありつづけるんだ。ただし、本物とモドキに分かれるがな」
何が言いたいのか、よくわからなかった。それはミスミも同じようで、怪訝そうにタツカワ会長を見ている。
「ティオは、本物の冒険者だと言いたいですか?」
「そうだ。冒険者は誰だってなれるし、そのカテゴリーに意味なんてない。自分の意思でダンジョンに行くと決めることが重要なんだ。お嬢ちゃんは自分で行くと決めた。本物の冒険者になったのさ」
「やっぱり、よくわからないな」
ノンの気持ちを代弁するように、ミスミがぶっきらぼうにこぼす。
「自発的にダンジョンを目指した者にしか、わからない感覚かもしれませんね」
どこか楽しそうに、カンナバリが言った。
それは、ダンジョンに潜る気など毛頭ないノンやミスミには、一生わからない感覚かもしれない。
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