夢の道しるべ

<1>

 かすかに湿り気を帯びた石畳に足を踏み出した瞬間、エルザは全身を支配していた緊張がスルリと抜け落ちていくのを感じた。

 転移装置ポータルを利用して訪れたダンジョン地下二十一階――ここに戻ってきたのだと、妙な感慨が心に広がっていく。


 思い返せば苦しいことばかりで、うれしかったことなんて数えるほどしかない。現在進行形で、エルザを苦しめている場所である。それなのに、ダンジョンに抱かれていると気持ちが不思議と落ち着いた。骨の髄まで冒険者なのだと、改めて実感する。


「やっぱり上と違ってダンジョンは暖かいな」


 羽織っていた防寒着を脱ぎながら、マイトが上ずった声で言った。ダンジョンがつねに一定の温度で保たれているのは、初級冒険者でも知っているダンジョン潜りの常識だ。それをわざわざ口にしたのは、気負いをまぎらすための行為なのかもしれない。


 仲間達が誰一人として反応しないのは、彼らも重圧と不安を抱えているからだろうか。横目で様子を観察していると、髪が引っかかって貫頭衣ポンチョ型の防寒着を脱ぐのに手こずっているティオと目が合った。

 彼女はシフルーシュの手を借りて防寒着を脱ぐと、短く息をついた後、神妙な顔つきで言った。


「本当に、わたし達でよかったの?」


 地上でも何度も繰り返された質問だ。エルザは苦笑して、軽く首をすぼめた。


「あなた達がいい、あなた達でないとダメな気がする。同じこと言わせないでよ」


 ダンジョンに戻ることを決意したエルザであったが、すんなりと話がまとまったわけではなかった。

 まずタツカワ会長が難色を示した。まだ真相が解明されていない状況で、エルザをダンジョンに送るのは危険と判断したのだ。


 ミスミも賛同しなかった。医学的見地から理詰めで承諾できないわけを延々と説明していた。難しくてエルザには理解できなかったが、ティオが要約したところ、単純にエルザの身を案じてくれているのだという。

 体に流れる魔力が尽きて朽ち果てるのを寿命だというのなら、そのときが少しでも長らえるようにするのが医者の仕事と語っていた。


 その気持ちはうれしいし、素直にありがたいと思う。でも、もう決めたのだ。残りわずかな寿を、ダンジョンで使い切ると。

 渋る二人を押し切ったのは、エルザの熱意だ。


「ダンジョンには、まだディケンズがいます。仲間のわたしが、見つけてあげないといけない」

「エルザ、言いにくいことだが、ディケンズは諦めろ。行方不明となって半年……生存しているとは思えない」


 タツカワ会長は沈痛な面持ちで、はじめてディケンズ死亡を認定する発言をした。

 現実的にうたがいようがなくとも、できることなら認めたくなかったに違いない。エルザを制止するために、自身の気持ちを押し殺して明言してくれたのだろう。

 その心遣いには、頭が下がる思いだ。タツカワ会長には感謝しかない。


「ありがとうございます、わたしのために……、だけど、ディケンズは生きています。そう感じる。わたしにはわかるんです」

「本気で言っているのか?」


「もちろん本気です」ただの勘といえば、そのとおりだ。だが、不思議と確信があった。「もしディケンズが操られているとしたら、ダンジョンで誰かを傷つけるかもしれない。それを止められるのは、わたしだけです!」


 感情だけの非論理的な説得であったが、最終的に二人は折れてくれた。納得したわけではなく、エルザの希望を優先してくれたのだと思う。

 こうしてエルザのダンジョン潜りは許可されたが、問題点は他にもあった。協力してくれる冒険者の選定だ。


 エルザは共に行動するのはティオ達を望んでいたが、タツカワ会長は不適当と判断する。場合によっては上級層まで足を運ばなければならい事態だけに、相応に優秀なメンバーを揃えなくてはいけないという考えからだ。

 マイトのパーティの最高到達地点は地下三十二階と、とてもじゃないが実力的に見合わない。


「パーティにもっとも必要なものは、信頼関係です。これまで医術者として懸命に尽くしてくれたティオを、わたしは誰よりも信頼しています。彼女のパーティが一番適している」


 切望するエルザに呼応するように、ティオも熱く訴えてくれた。


「エルザの担当医は、わたしです。最後まで付き添わせてください!」


 困り果てたタツカワ会長は、しかたなく絶対にムチャはしないと約束させることで手を打ってくれた。ミスミは最後まで不服そうだったが、もはや止めることはできないと感じたのか、異存を飲み込んでくれたようだ。

 エルザとしても、自分のような犠牲者を増やしたいわけじゃない。ティオ達に危険が及ぶようなら、撤退もやむなしと思っている。彼らの命を守ることは、ディケンズを探し出すよりも重要項目だった。


「あのときは、勢いで付き添うと言っちゃったけど、冷静になるとタツカワ会長の判断のほうが正しいように思えてくる……」


 不安げに目を揺らして、ティオがぽつりと言った。

 エルザは苦笑して、青黒く変色した手でその頬にふれる。体温の低下した手は冷たいらしく、ティオはビクンと肩を吊り上げていた。


「しっかりしてよ、担当医。最後まで付き合ってちょうだい……」


 一瞬にして瞳の奥に動揺の波が湧き立つが、ティオはダンジョンに反響するほど大きな音で鼻をすすり、涙と共に胸に溜まった感情を飲み下した。すべてを押さえ込めたわけでないことは、悲哀の欠片が残る顔立ちを見ればわかる。それでも、担当する医術者として――大切な友人としても、改めて決意を固めたようだ。


「うん、絶対に最後までいっしょにいる」

「ただし、ムチャはしないこと。ティオに何かあったら、ミスミ先生に恨まれる」

「わかってるよ。エルザもムチャはしないでね」


 それは約束できないと、頭のなかでつぶやく。ディケンズやティオの危機に直面すれば、身を投げうってでも救うつもりだ。

 ティオの願いは濁して、エルザは一歩踏み出した。コツンとブーツが奏でる耳馴染みの音に、思わず頬がゆるむ。


「さあ、行こう!」


 エルザはティオ達を引き連れて、最後の冒険に出発する。


※※※


 グルグルと部屋を落ち着きなく歩き回るミスミを、苦々しい表情でタツカワ会長が見ていた。

 はからずもミスミ診療所の診察室は、秘密裏にディケンズ捜索に出発した一行の待合所となっている。そのため診療所は、本日休診だ。『都合により、しばらく休みます。』と、診療所の入口扉に張り紙もしておいた。


「おい、いい加減ウロチョロするのはやめろ。うっとうしい」

「心配じゃないんですか、会長は」

「いまから気をもんでどうする。アーレスが見つかった地下三十七階まで、最短でも半日はかかる。そこからディケンズの捜索に取りかかるとなれば、どれだけ急いだとしても遭遇の機会は明日以降になるだろう」


 説明を受けて一応は納得したミスミであったが、それでも不安を拭えないのか、腰を下ろそうとはしなかった。

 しかたなくカンナバリが、肩をつかんで力任せにイスに押さえつけた。ドスンと尻を打ちつけたミスミは、その痛みと衝撃で涙目になっている。


「お茶にしましょうか」


 恨めしそうに見上げるミスミに笑顔を返して、カンナバリは手早くお茶の用意をはじめる。前もって準備しておいた湯で茶葉を蒸らし、琥珀色に染まったところでカップに注いでいく。

 普段ならば焦れることないミスミだが、今回だけはじっくりと手間をかける待ち時間に苛立っていた。


「はい、どうぞ」


 カップを受け取ったミスミは、鼻のつけ根にしわを寄せた険しい表情で一口すすった。立ち昇る湯気を浴びて、額に汗粒が浮かんでいる。


「カンナさんは心配じゃないの」

「もちろん心配してますよ。でも、それ以上に信用もしています。エルザがいっしょですから、いつもよりちょっと安心しているところもありますし」

「エルザがいっしょだと、どうして安心なんだ?」


 カンナバリは微笑し、元冒険者としての見解を告げる。


「ティオ先生達は過去に例を見ないほど急速にダンジョンを潜っていく優秀な冒険者ですが――」

「ちょっと待った。あいつらって、そんなにすごい冒険者なのか?」


 いきなりミスミが話の腰を折った。普段の様子を知っている分、彼らの優秀さに実感がわかないのだろう。

 肩をすくめたタツカワ会長が、しかたなくといったふうに口をはさむ。


「おそらくダンジョンに挑戦した数多くの冒険者のなかで、最速のスピードで階をまたいでいる。あのディケンズ達でさえ、中級に上がるのに二年近くかかった。俺達の時代は級でダンジョンを分けちゃいなかったが、あいつらと同等の階にいくまで五年はかかったかぞ」

「会長が現役だった頃はダンジョン潜りのノウハウがない時代ですから、比べることはできませんよ」


「まあ、そうだとしてもだ。あいつらが優秀なのは間違いない。ガンシンのパーティも早いことは早いが、あそこは中級冒険者のガンシンというリーダーがいるから早く潜れた。ほぼ新人のパーティメンバーで、ここまで躍進した冒険者を俺は知らない」


 よほど意外だったのか、ミスミは呆けた顔でぽかんと口を開けている。


「たぶんティオ先生のおかげですね」

「嬢ちゃんの? ろくに戦えないんだし、役立たないだろ」


「戦えないのは、それほど重要なことじゃないですよ。他のメンバーが、その分フォローすればいいだけですし。医術者のティオ先生がパーティにいることで、ケガの治療をその場で行えるのが大きい。それに、医術者として引き際を見極める目が確かなのは有利な点となります。若い冒険者が陥りがちな失態に、無理をして被害が大きくなるというものがあります。負傷が尾が引くと、次にダンジョンに潜るまでの期間が空いてしまう。そうなると、ダンジョン潜りの勘は鈍り、また無理をしてしまう――この悪循環にはまってしまうと、なかなか抜け出せない」


 ティオがいることで、パーティは無理なく継続的にダンジョンに挑戦できるようになる。この継続的な挑戦こそが、結果としてダンジョンを攻略する秘訣だった。

 一人一人はまだ発展途上であっても、誰よりも早く中級に到達できたのは、そういうわけだ。


「人は見かけによらない――というより、そんなすごいヤツらだと、まったく気づかなかったな」

「そんなもんだ。普通に生きていく分には、ダンジョン潜りの実力なんて必要ないからな。地上に上がってしまえば、どんな冒険者もただの人と変わりない」


 ダンジョン管理組合の会長が言うと、ひどく自虐的に聞こえる。

 カンナバリは笑いをかみ殺して、横道にそれた話が落ち着いたことを確認してから、改めて先ほどのつづきを口にした。


「優秀な冒険者である分、弱点もあります」

「へえ、それは?」

「経験です。普通は試行錯誤を繰り返して、ダンジョンの傾向を学習していくものなんです。その経験が圧倒的に不足している」

「なるほどな。医者も失敗をして、足りないものを学んでいく」

「でも、今回はエルザがいっしょなので、上級冒険者の経験が足りない分をおぎなってくれる。これほど心強いことはありません」


 少しは納得できたのか、ミスミの顔に安堵が混じる。鼻のつけ根に刻まれた太いしわが、わずかにゆるんで細い線となっていった。


 エルザの経験は、大きな力となってくれるのは間違いない――そう信じている。信じているが、信じきるための根拠はなかった。元冒険者のカンナバリにとっても、ティオ達が踏み込もうとしている場所は未知の領域なのだ。カンナバリの知るダンジョンは、すでに通りすぎている。


 ミスミをムダに心配させるだけだと思い、このことは伏せておく。もはや止めるすべはない。冒険の幕は切って落とされていた。

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