<3>
おそるおそる足を踏み出すと、もっちりとした苔の感触がブーツ越しに伝わってきた。足を突っぱねるような弾力があり、体重をかけるとゆっくり沈んでいく。
潰れた苔がクチャリと音を立て、わずかに靴底が滑るのを感じた。ダンジョンの通路としては、あまりいい環境とは言えない。
「足場が悪い。気をつけろよ」
先頭を任されたゴッツは、エルザの指南にしたがった警戒を怠らない慎重な歩みで進んでいた。
仲間への注意喚起もかかさない――が、必ずしも伝わるとはかぎらなかった。
「うわっ!」と、言ったそばからダットンが足を取られて転びそうになり、寸でのところで壁に手をつき、「うわぁ!」と、また奇声を上げる。
「ちょっと、何やってんの」
呆れ気味のシフルーシュが、腕をつかんで支えてやる。
ダットンはぎこちなく笑いながら、壁にふれた手を見た。手のひらにはべっとりと、黒い染みが張りついている。
「い、いや、ぬ濡れてたから驚いて……」
「それくらいで騒ぐなよ、まったく――」
マイトはちらりと目をやり、ランプ灯りの照り返しでうっすらと光沢を帯びた壁に指先を当てた。ぬるりとした不快な感触に、思わずマイトも「うわっ!」と声をもらす。
粘り気のある液体が壁に付着した汚れと混じり、糸を引くほど粘着質な泥土となっている。
「なんじゃこりゃ」
マイトは自分の服にこすりつけて汚れを拭った。
その様子をじっと見ていたシフルーシュは、露骨に顔をしかめる。
「ばっちいなぁ。何やってんの、もう」
「別にいいだろ。ネチャネチャして気持ち悪かったんだ。――それにしても、こいつは何なんだ?」
「苔の水分が染み出してるみたい。体に害があるようなものじゃないとは思う」
森の中で自然と共生するエルフは、動植物に対して確かな観察眼を持っていた。シフルーシュが言うのなら、害がないことは信じられる。
だが、そんなエルフの目をもってしても、苔が大量繁殖した理由はわからないようだ。
「どうして、こんなに苔が生えてるんだろう。ちょろっと生えているのは見たことあるけど、ここまで苔むしているのは見たことない」
「ダンジョンは何が起きるかわからねぇからな」
「そうは言っても必ず原因があるはずよ。少なくとも苔が生育するのに必要な条件が、揃っているということになる。これまでのダンジョンの環境と、何かしら変化してるんじゃないかな」
マイトは考えもしなかったが、言われてみると確かに何かが違う気がした。言葉ではうまく説明できないが、肌にふれる空気にかすかな違和感をおぼえる。
そこに、「ねえ、シフル」と背後から声が割り込んできた。身を乗り出して会話に入ってきたのはティオだ。
「苔が生えてくる条件って何があるの?」
「うーん、くわしいことはわからないけど、やっぱり湿度が関係していると思う。ジメジメしているところに苔は生えるから」
「そう言われると、さっきまでより湿っぽい気はするね」
本当にできるかはさておき、ティオは手をひらひらと泳がせて空気中の湿度を測ろうとしていた。その隣で、深刻な表情のエルザが顔を伏せている姿が目に入った。
何やら物思いにふけているようで、足下に落ちた視線が揺れている。呼吸のたびに開閉する唇が、小さく震えているのマイトは見逃さなかった。
「エルザ、何か感じるのか?」
「えっ――ううん、そうじゃない。むしろ、引っ張られるような感覚は遠ざかっているような気がする」
エルザの返事に、先頭のゴッツが即座に反応する。
「どうする。一度引き返そうか?」
「いや、このまま進みましょう。この階の全容確認を優先したほうがいいと思う」
ゴッツは深くうなずくと、改めて足を踏み出した。通路に沿ってパーティは、着実に前進していく。
ほどなくして苔むした通路を抜けると、少し開けた場所に行き当たった。六人が車座で座れる程度のスペースはあったが、やはりここも苔むしており、腰を下ろすのには抵抗がある。
まだ体力的に余裕はあったが、一旦小休止をはさむことにした。休めるときに休んでおくのは、エルザが真っ先に伝えた冒険者の鉄則だった。
「ねえ、大丈夫? 顔色悪いよ」
冴えない表情のエルザを気にしていたティオが、すかさず声をかける。
その言葉を聞いた瞬間、エルザはプッと吹き出し破顔した。ようやく表情にやまらかいものが混じる。
「最初から顔色は最悪だよ」と、冗談めかして返す。
「あっ、ごめん、言い方を間違えた。何かふさぎ込んでいるように見えたから心配になって……」
「ありがと、でも、心配しないで。そういうわけじゃないんだ。ハッキリとは言えないけど、この階の空気感をどこかで感じたことがあるような気がして、ずっと引っかかってたの」
「それって、記憶が戻ってきたってこと?」
エルザは苦笑して、小さく首を振る。うっすらと白くにごった双眸が、左右に揺れながら上方に向かっていた。
思わず視線の後を追っていくと、まだ苔の浸食が届いていない石造りの天井が目に入る。かすかに湿っており、ところどころに水滴が張りついていた。
「記憶は、まだ戻っていない。だけど、胸の奥がザワザワしてる。この先に欠けた記憶とつながる何かがあるのかもしれない」
休憩を終えて、ダンジョン探索を再開する。再び苔むした通路を通って、慎重に奥へと進んでいく。
状況が一変したのは――やはりエルザの異変が発端だった。突然体を震わせ、ヒザをついて座り込んでしまったのだ。
心配して駆け寄ると、彼女はブルブルと震える体を無理やり動かし、苦労して前方を指差した。
「くる」
短く吐き出した言葉の意味を、理解するのに時間はかからなかった。
耳を澄ますと、かすかに苔をこするような音が聞こえる。何かが通路の奥から近づいてきていた。かなりのスピードであることは、伝わる音のテンポで推察できる。
パーティに緊張が走り、同時におのおの武器を手に取った。マイトは剣を引き抜くと、ゴッツと並んで迎撃態勢を整える。
だが、その剣は最初の一手をためらった。激しい動揺によって、反応が遅れたのだ。
「ディケンズ!」
姿をあらわしたのは、間違いなくディケンズであった。肌の色はエルザと同じく青黒く変色していたが、それ以外は最後に見た彼の姿とほとんど変わりない。
ディケンズはまったくムダのない滑らかな動作で剣を抜くと、その勢いを殺すことなく振り切った。
迷いのない閃光のような一撃が、マイトの首を狙っていた。
※※※
ディケンズ捜索の出発前日――マイトはコンディションを整えようと、日が沈んだのを確認して、すぐ床についた。だが、なかなか寝つけず、迷った末にミスミ診療所へ足を運ぶ。
時刻は夜半近くであったにもかかわらず、白衣姿でミスミは出迎えてくれる。
どうやら急患があったようで、診療所の床に赤い血の染みが点々と垂れており、それを疲れ切った表情で拭き取っていた。ダンジョン出発を明日に控えたティオはもちろん、看護師のカンナバリとノンの姿も見当たらない。おそらく一人で処置したのだろう。
「大変そうだね、手伝おうか?」
「お前、何やってんだ。明日早いんだろ。こんなとこにいないで、帰って寝ろ」
「寝つけないから来たんだ。ちょっとだけいさせてくれよ」
マイトは雑巾を手にし、腰を屈めて床を拭く。まだ乾ききっていない血の滴は、雑巾が吸いきれなかった分押し広げられて、薄い染みとなり床にこびりついた。結果として、力を込めてゴシゴシと何度も何度も拭わなければならなくなる。
黙々と床を拭うマイトの様子を、不審そうに見ていたミスミだが、もう帰宅を迫るようなことは言わなかった。ボサボサ頭を乱暴にかき、不服を飲み込んでため息をつく。
しばらく二人並んで床を拭う。雑巾がけの音だけが、深夜の静寂に包まれた診療所に響く。
ようやくミスミが声を発したのは、あらかた清掃が終わった頃だ。長時間屈んでいたせいか、腰を叩きながらぶっきらぼうに言った。
「今日はもう泊まっていけ。戻って寝るより、ここで寝ていったほうが休めるだろう」
「やった、ラッキー!」
「何がラッキーだ、バカ」呆れ返った様子で、ミスミは苦笑した。もう笑うしかないといった感じで。「俺のベッドを貸してやるから、早く寝て体を休めろ」
「そこまではいいよ。さすがに悪い」
押しかけておいて、ベッドまでゆずってもらうのは申し訳ない――普段ならば遠慮はしないのだが、なぜか今日だけはマイトに謙虚な気持ちが芽生える。不安定な精神状態が、いつもと違った感情の揺らぎを引き起こしたのかもしれない。
――そう、マイトは不安定だった。
ディケンズ捜索が決定してから、胸の奥で不安と期待と高揚と恐怖が混じり合い、自分でも読み解けないほどしっちゃかめっちゃかになっている。診療所に訪れたのは、無意識に助けを求めていたからだろうか。
「いいから俺のベッドを使え。お前らにはティオを守ってもらわなければならない。睡眠不足でまともに動けないとなったら、話にならんだろ」
「……わかった。じゃあ、使わせてもらう」
ミスミの私室は診療所の二階だった。診察室を経由した先に階段があるので、必然的に診察室を通らなければならない。マイトはためらいがちに扉を開ける。
一歩踏み出し、その次がつづかなかった。中途半端に診察室に入った状態で、おそるおそるミスミに声をかける。
「なあ、ヤブ先生」
「なんだ?」
「俺、どうしたらいいんだろう……」
ミスミはわずかに目を細めて、小さくノドを鳴らした。音のわりに、ノド仏の動きがやけに大きい。
「ディケンズのことか?」
首の骨が突如消失してしまったように、ストンと頭を落としてうなずく。
「そうだ」と、言葉にすることはできなかった。まだディケンズの末路について、認められない部分があるのだと思う。
「それは、マイトが考えることだ。俺がとやかく言うことじゃない。ただな、医者の俺にはもはやできることはないが、冒険者のお前にはできることがあるんじゃないか」
その声は、とてもやさしかった。いたわってくれているのを、ひしひしと感じる。
「俺にできること?」
「自分で言ってたじゃないか。マイトは、ディケンズを――」
その言葉は、ガツンと胸に響いた。葛藤でがんじがらめになっていた不安定な心を解き放ってくれる。
「そうだった。俺は、ディケンズを――」
※※※
マイトを襲った斬撃は、首にふれる寸前――阻止される。
割って入ったエルザが、自らの腕で防いでくれたのだ。金属製の籠手で防備していたおかげで、かろうじて刃は届かなかった。
それを、まるで予想していたように、ディケンズは立てつづけに蹴りを放つ。
体勢が崩れてさけようのなかったエルザは、まとも腹部を蹴りつけられて、なすすべもなく吹き飛んだ。壁面に衝突し、はがれた苔をまき散らしながら床に倒れ込む。
「エルザ!!」
ティオが悲痛な声を上げながら、駆け寄る姿が目に入った。
一瞬意識がそれたのを逃さず、ディケンズが再度襲いかかってくる。ゴッツの盾が防いでくれなければ、頭と体が切り離されていたところだ。
「しっかりしろ、マイト! 気をゆるめると死ぬよ!」
シフルーシュの切羽詰まった叱咤が飛ぶ。
「わ、わかってる」
大きく踏み込み、剣を振り抜いた。迷いがないと言えばウソになるが、その一撃にためらいが混じることはなかった。
しかし、ディケンズは軽くバックステップすることで悠々とさける。剣の間合いを完全にとらえられていた。
驚きを押さえ込んでマイトは身構えた。もうグダグダと考えるのはやめた――いや、考えながら戦えるような余裕はない。いま目の前にいる敵は、あのディケンズなのだから。
短く息を吸い込み、長く吐き出す。ほんの少し動揺がおさまったところで、マイトは宣言する。それは自分自身に言い聞かせる覚悟でもあった。
「ディケンズ、前に言ったよな――いつか、あんたを越えてみせるって。俺は今日ここで、ディケンズを越える!!」
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