<2>
家主のモアレは、エルザにとってダンジョン街の母と呼べる大恩人だった。
まだ海のものとも山のものともつかない駆け出しの頃に、格安で部屋を提供してくれたばかりではなく、うまくいかないことがあったらやさしく励ましてくれて、落ち込んでいると好物料理を作ってご馳走してくれた。
旦那と死に別れて子もいなかったモアレは、エルザを実の娘のようにかわいがってくれたのだ。くじけそうになったとき、何度彼女に救われたことか。
「エルザなんだろ。こっちに来ておくれ」
杖をついたモアレが、頼りない足取りでゆっくりと近づいてくる。
接触はさけるべきだとわかっていても、体が動こうとしない。ヘタに逃げて年老いたモアレが追いすがろうとしたら、転んでケガをしてしまうかもしれない――そんなことを考えてしまったのだ。
「エルザ、いったい何があったの。ダンジョン管理組合の会長さんが事情があってしばらく戻れないと説明してくれたけど、理由までは教えてくれなかった。ただ、よくことが起きているのは雰囲気でわかった……」
ごまかしの言葉がとっさに出てこず、ノドが引きつる。エルザは焦り、ますます後手に回った。
着実に歩を進めていたモアレが、外套越しの背中にふれる。モアレの手はこんなにも小さかったのかと、妙なわびしさが胸をしめつけた。
「ごめんなさい、いまは何も言えないの」
「そうかい。でも、エルザが無事でよかったよ」
無事と呼べるか微妙なところだが、再会を果たせたのは本当によかったと思う。同時に、自分や仲間の心配ばかりで、モアレの不安に気づけなかったことを恥じる。
彼女のためにも、もっと話していたいが、そういうわけにはいかないと頭の冷静な部分が告げた。エルザは未練を振り払い、できるだけ明るい声で言った。
「そろそろ行かなくちゃ。近いうちに、また来るよ」
手のひらを通して、落胆の気配が伝わってくる。エルザは唇を噛んで、胸の痛みをグッとこらえた。
そのとき、ふいにモアレがよろめく――体重を支えていた杖がすべり、バランスを崩して転びそうになったのだ。
反射的に腕を回して、倒れ込む寸前につかまえた。あまりに突然のことで、つかまえたときの体勢について考えている余裕などなかった。思いがけず二人の顔が近づき、突き合わせる形となっていたのだ。
肌が青黒く変色しているのを、ごまかしようのない間近で目撃された。こうなってはエルザにできることは、せいぜい目をそらすくらいしかない。
しかし、なぜかモアレは肌の色に興味を示すことはなかった。まるで見えていないかのように――
「あー、驚いた。ありがうね、エルザ」
その安堵の声に、一点の疑念も混じっていない。すぐそばでエルザに顔を向けながら、少しの違和感も抱いていないのだ。
「モアレさん、ひょっとして目が……」
「ここのところ、すっかり悪くなってしまってねぇ。夜は特に見えづらくて、不便しているよ」
モアレは以前から視力が低下傾向にあった。当人は老いからくるものだと気にしていなかったが、それはこれほど悪化する前の話だ。この半年の間に症状は深刻になっている。
「ちゃんと診てもらったほうがいい。知り合いの医術者に相談してみるよ」
「悪いねぇ、変なことに気を使わせちゃって」
「そんなこと考えないで。モアレさんには元気でいてほしいんだ。さあ、家に戻って――」
モアレの手を引いて玄関口まで送ったエルザは、「じゃあ行くね。さよなら」と別れの言葉を口にして足早に去っていく。
一秒でも早く、このことをティオに相談したいところだが、あいにく住まいを知らなかった。ダンジョン広場の小屋で待てば、明日には間違いなく会えるわけだが、胸に根づいた焦燥感に駆られて、居ても立ってもいられず唯一すがれそうな場所に向かう。
ダンジョン街の大通りを半ば駆けるような足取りで通り抜け、裏道に入った先にその建物はあった。
すでに夜深い時刻であったにも関わらず、幸いにも灯りがこぼれている。エルザはためらうことなく、扉を開き――ミスミ診療所に飛び込んだ。
「うおっ!」
いきなりの来客に、待合室にいたミスミは驚きの声を上げる。なぜかミスミは上半身裸で、汗だくになってスクワットをしていた。
「な、何をやってるんですか……」
「最近運動不足で太ってきたから、少し運動を――って、エルザじゃないか。どうしてこんなとこにいる!?」
ひとまず互いに事情を説明して、状況を伝える。エルザが小屋を抜け出したことを、ミスミは呆れはしたが怒ることはなかった。
ミスミはいそいそと服を着ると、ボサボサ頭をかきながら診察室に引き入れる。
「とりあえず、まず足の治療をしよう」
「えっ」と、言われて目を向けると、知らぬ間に左足の側面に切り傷ができていた。天窓を通る際に、ひっかけたのだろうか。
傷口からにじむ血を拭い、軟膏をぬって包帯を巻く。治療自体に時間はかからなかったが、ミスミは血を拭ったガーゼの処理に手間取っていた。普段看護師に任せている仕事だからだろうかとも考えたが、処理というよりはガーゼについた血液が気になっているふうだ。
エルザの手前、大ぴらに興味を示すことはなかったが、医者にしかわからない何かが付着していたのかもしれない。
「それで、いったいどうしたってんだ。わざわざ俺に会うために、小屋を抜け出してきたわけじゃないんだろ」
「アーレスのことが気になって……」
「嬢ちゃんに聞いたのか?」
首を横に振り、否定する。くわしく説明しなかったが、ミスミもくわしく聞き出そうとはしなかった。
「彼がどうなったのか知ってるのか?」
今度は首を縦に振った。無意識にヒザの上でギュッと強く握りしめていた拳が目に入る。
ミスミは鼻のつけ根にしわを寄せた難しい顔で、小さな吐息をもらす。
「そうか、知ってるのか。――アーレスと遭遇した冒険者に聞いたんだが、接触後に何をするまでもなく崩れ落ちたそうだ。肉体が限界にきていたんだろうな」
エルザは息を飲み、仲間の最期にショックを受ける。それは、自分自身にも該当する結末かもしれなかった。
ノドを塞いだ恐怖を吐き出し、唇を震わせて声を絞り出す。
「……先生、わたしもアーレスのようになるの?」
「担当医じゃない俺が適当なことは言えない。それは、嬢ちゃんに聞くんだな。たた、これだけは言える。過酷なダンジョンをさまよっていたアーレスと、地上で保護されていたエルザでは、すごした環境が違う。肉体の損耗度は比較にならないだろう」
ミスミの説明は論理的で納得がいくものだった。ひとまず安堵すると同時に、アーレスを救えなかったことを心の底から悔やむ。
そして、まだダンジョンにいるはずのディケンズ達を思うと胸が苦しくなった。いったい、どのような状態であるのか――行方不明になって半年もの期間がすぎ、エルザも頭の奥では理解しながらも認めてこなかった可能性がよぎっていく。
「まだ、何かあるんじゃないのか」
苦悩に満ちたエルザを見て、ミスミが心持ちやわらかな声で言った。
「まだって、えっ?」
「アーレスのことを知りたいなら、医者に聞くよりもっと適した相手がいるはずだ。ここに来たってことは、他に理由があると思ってな」
その言葉で、ミスミ診療所に訪れた本来の理由を思い出す。
アーレスの死で混乱していたのか、それとも記憶障害が起きていたのか――エルザは原因を知るのが怖くて、深く踏み込むことなく目をそらした。
「実は、診察してほしい人がいるんです。お世話になっている大家さんで、視力が低下していてほとんど見えないみたいなんです」
「眼かぁ……」
「問題があるんですか?」
ミスミは困り顔を浮かべて、ボサボサ頭をかいた。あきらかに動揺している。
「眼病の治療には、専門的な知識と技術が必要なんだ。あいにく俺は眼病の治療経験がない。正直言って、診断もできるかどうか怪しい」
「それじゃあ、治療は無理なんでしょうか?」
「まあ、やるだけはやってみる。医者として見すごすわけにもいかないからな」ミスミはわずかにうつむいて、噛み締めるように言った。「だから、患者としてエルザはしっかり嬢ちゃんに怒られろよ。あいつはお前さんを救おうと必死になっている。知りたいことがあるなら、嬢ちゃんに聞くんだ。遠慮なんて捨てろ。患者から信頼されていないと感じた医者は、ひどく惨めな気持ちになる。嬢ちゃんにそういう思いはさせないでやってくれ」
自分のために誰よりも尽くしてくれているのは、ティオだとわかっている。エルザは不安から愚かな行動に走ってしまったことを反省した。
「はい、怒られます。しっかりと」
その答えに満足したのか、ミスミは表情を崩す。ティオをおもんばかっていることが伝わり、少しうらやましいと思った。
エルザが心を砕く相手は――まだダンジョンの奥にいる。
※※※
翌日、さっそくミスミはモアレを診療所に呼び寄せた。
迎えに行かせたノンに手を引かれて、杖をついた老女が診察室に入ってくる。その足取りは弱々しく危なっかしい。
「お呼びして申し訳ありません。エルザに頼まれて、目の診察をさせてもらいます」
ノンからある程度事情を聞いていたモアレは、すんなりと受け入れて差し出されたイスに座った。
少し緊張の張りついた顔が、診察室を見回したあと、正面のミスミに向けられた。視力が低下したと言っても、完全に見えなくなったわけではないようだ。双眸はしっかりとミスミを認識している。
「まず、お聞きしたいのは、これまで視力低下について診療を受けた経験はあるかということです」
「何年前だったかしら。前に一度、医術者ギルドで診てもらったことがあるわ」
「そのときの診断はどうでしたか?」
「よくわからない――と、そういうことだった。一応活性化魔法というやつをかけてもらったんだけど、これといって効果はなかったわね」
ティオに聞いたところによると、回復魔法でも眼病治療は難しいとのこと。さまざまな治療法が研究されているが、成果は上がっていないらしい。
眼病は即日症状が出ることは少なく、自覚症状があらわれるのは病状が進行してからという場合が大半だった。時間制限のある再生魔法では効果が期待できず、活性化魔法による自然治癒に頼るしかないのだろう。
治療に自信のなかったミスミは、回復魔法に一縷の望みをかけていたわけだが、それも難しそうだ。
内心の不安を押し隠し、ちらりと隣の部屋――手術室に目をやる。
今朝方、出勤してきたティオは、小屋を抜け出して診療所にいたエルザを見つけて、こっぴどく叱りつけた。その後、小屋を抜け出した理由を聞き、モアレを心配するエルザを見かねて今回だけは特別に診察の付き添いを許可した。
ただし、人目にふれるわけにはいかないので、隠れてこっそりと覗き見でガマンするという条件をつけたのだ。
そういうわけで、現在エルザとティオは手術室で聞き耳を立てている。視力に問題のあるモアレを呼び寄せるのは道義的に抵抗はあったが、エルザを日中に引き連れていくことも難しく、他に選択肢はなかった。
「それでは、どのような症状か教えてもらえますか」
モアレは少し首をかしげて考えをまとめてから、ゆっくりと説明していく。
「何と言うか、周り――視界の外側が塞がっているような感覚があるわね。あまり意識してこなかったのでハッキリとしたことは言えないけど、若い頃と比べるとずいぶん視野が狭くなったような気がする。それに、焦点が合わせずらくて、物がにじんで見えるわ。夜になると特に顕著で、暗い場所だと輪郭をぼんやりと判断するので精一杯」
「なるほど、視野狭窄に視覚異常、夜盲の症状が出ているわけか。ちょっと見せてもらいますね――」
カンナバリに用意してもらったランプを手にして、モアレの目に近づける。瞳孔の反応は正常で、確認できる違和感はなかった。
眼病の有名どころは白内障、緑内障、加齢黄斑変性、それに網膜剥離といったところか。ミスミはかすかに残る眼病症状の記憶を掘り起こしながら、一つ一つ当てはめていく。
その結果、ある病名にたどり着いた。だが、これも正否を断言できるわけではない。
「緑内障かもしれないな」
失明の危険性もある眼病だ。もしミスミの診断が間違いでなければ、治療は絶望的と言わざるをえない。
緑内障は視神経が死滅する病気で、根本治療が困難ゆえに、進行を遅らせる対処療法が中心だった。回復魔法が通じず、眼科医でもないミスミには手の施しようがない。気休めさえも言えない状況だ。
ミスミはもう一度、ちらりと手術室に目をやった。
「……やっぱり、治る見込みはないのかい」
雰囲気から察したのか、モアレがぽつりと言った。
反論しようと口を開くが、言葉は出てこない。ミスミは鼻のつけ根にしわを寄せて、返答代わりに目を伏せた。
「ああ、気にしないでおくれ。こういう運命だったんだと、受け入れる準備はできていたわ」
「すみません……」
「謝ることなんて一つもないよ。どうしようもないことは、世の中にたくさんある。これも、そうなんだろう」
どうしようもないことを、捻じ曲げるのが医者の仕事だ。ミスミは無力感にさいなまれて、力なく肩を落とす。
予想していたこと、眼病治療は困難だとミスミ自身が言ってきた――が、わかっていたとしても、やはり現実を突きつけられると辛い。
「診察も終わったようだし、帰らせてもらおうかねぇ」モアレは杖を頼りに、苦労して立ち上がる。「エルザが戻ってくるかもしれない。家で待っててあげないとね」
足を引きずったぎこちない歩みで、モアレは帰ろうとしていた。すぐさまノンが付き添い、歩行の補助をする。
その様子を見て、ミスミは何気なくたずねる。
「足もよくないようですが、ケガでもなさったのですか?」
「さてねぇ。これといったおぼえはないけど、年寄りだから体にガタがきてるんだろうね」
モアレは老人と言って差し支えない年齢だ。別段気にとめることなく、飲み込める言い分だった。
だが、なぜか引っかかるものを感じる。
「足の調子が悪くなったのは、いつ頃からでしょう」
「さあ、どうだったか。目が悪くなった頃と同時期だと思うけど、正確なことはわからない」
「他に何か体で困っていることはありませんか。どんなささいなことでも構わないので、教えてください」
「急にそんなこと言われてもねぇ。うーん、時々頭痛があるくらいしか、いまは思いつかないよ」
突然はじまった質問攻めに、モアレは面食らいながらも丁寧に答えてくれた。
ミスミは頭の中で、これまで見逃していた別角度からの診断を行う。
「すみません、帰るのは待ってください。もう少し聞きたいことがあります」
困惑をにじませたモアレであったが、意外なほど素直にしたがってくれた。エルザ経由の診察依頼であることが、彼女を従順にしているのかもしれない。
「何かわかったのかい?」
「わかったというか、思い出したというか。先入観にとらわれて目のことばかり気にしてましたが、少し切り口を変えて検査してみようと思います。視覚障害を引き起こすのは、何も眼病だけとはかぎらない」
含みのある言い回しでミスミは告げる。それは、手術室に向けた言葉でもあった。
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