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 ダンジョン地下三十七階に踏み入ると、奇妙な弾力を足裏に感じた。階段の最下段から通路にかけて、びっしりと焦げ茶色の苔が生えていたのだ。

 どのような理由からか湿度が高く、天井に張りついた水滴が、時おりこぼれ落ちてくる。


 これまにないダンジョンの特異な形態に、冒険者ガンシンは静かに息を飲む。肺腑に届いた空気に、青臭さが混じっていることにも驚いた。


「これ、どうなってるんだ……」


 仲間の医術者セントが、思わず疑問を口にする。


「ダンジョンは地下に行くほど奇怪な状況が多くなるという。これも、その一つだろうな。――まあ、驚くのは無理もない。俺だってこんなのは見たことがない。前に来たときは、苔なんてなかったはずなんだが」


 半年近く前、エルザの捜索隊に任命されたガンシンは、もう一階下の地下三十八階まで到達している。そのときは、いまのように苔むしておらず、通常と変わらない石の通路であった。


 この半年の間に、いったい何があったというのか――いや、実際にはもっと短い期間で変遷しているものと思われる。地下三十七階にたどり着いた冒険者は他にもいるはずなので、今日まで異常報告がなされていないということは、ガンシン達が初遭遇なのだろうと予想できた。


「今日はここで打ち切って、地上に戻るとするか」


 異様な光景に尻込みして、弱腰になったわけではない。そもそも現在の状況ができすぎなのだ。

 実力者を集めて結成された捜索隊と違い、冒険者としての資質も能力も不揃いなパーティで地下三十八階まで来れたのは運がよかった以外の理由はなかった。これまでの最高到達地点は地下三十四階――本日地下三十五階にたどり着いて以降は、恐ろしいモンスターにも困難な罠にも遭うことなく、思いがけずすんなりと地下三十七階まで一気に通り抜けて来れた。だが、この先も幸運頼りで進めるほどダンジョンは甘くない。


「それがいいかもしれませんね。無理は禁物です」

「余裕のあるうちに引き返す。ダンジョンの鉄則だ」


 安堵の表情を浮かべたセントは、ホッと胸を撫でおろしている。不相応な躍進だと、仲間も感じ取っていたのだろう。


「そうと決まれば、さっさと撤退しよう――」


 ガンシンがそう告げたときだった。ふいに通路の奥から奇妙な音が届く。

 ズルッと、何か引きずるような擦過音だ。苔むした通路を、それはゆっくりとだが近づいてくる。


 すかさず愛用の鎚矛メイスを手にして、ガンシンは身構えた。前方に細心の注意を払いながら、背にした仲間と共にジリジリと慎重に後退していく。

 やがて擦過音を引き連れた謎の存在が、目視できる距離に入ってきた。ちょうど三十六階につづく階段の端に、たどり着くのとほぼ同時であった。


 これで、いつでも逃げ出せる状況となったわけだ。無理に関わる必要はない。異変を感じたならば、すぐにでも階段を駆け上がり退避する――それが、ダンジョンの鉄則だと思っている。

 だが、視界に入った存在に気を取られ、本来行うべき行動に移れなかった。ガンシンは目を見張り、震える唇で声をもらす。少々見当違いにも思える、仲間への問いかけだ。


「な、なあ、セント。確か魔法学院の偉いさんが来てたんだよな。そいつは、まだダンジョン街にいるのか?」

「いいえ、一昨日帰られました。連れてきた患者さんの治療が無事成功したのを見届けて、大急ぎで戻っていきました。お忙しい方ですから……」

「そりゃあ残念だったな」ガンシンはひきつった笑みを浮かべる。「そいつはエルザの診察に来たんだろ。診察の役に立ちそうな資料があらわれたってのに、すれ違いとはタイミングが悪い」


 通路の奥からやって来たのは、エルザの仲間であったアーレスだ。正確には、かつてアーレスだったモノ――そう断言できるだけの変貌した姿であった。

 黒く変色した肌に生気のない顔つき、失った片方の腕の切断面にはウジ虫がわいている。足がうまく動作しないのか、ズルズルと引きずっていた。これが擦過音の正体のようだ。

 あきらかに生者とは言えない。だが、動いている。


 白く濁った眼球はもはや視覚機能を有していないのか、時おりよろめいて肩を壁にぶつけていた。このことから、視覚が必要な状態だとわかる。

 つまりアーレスは生きてはいないが、肉体は生きている状態に維持されていたということだ。限界は近く、いつ尽きても不思議ではない状態であるが。


「ど、どうするガンシンさん」


 セントの問いに、咄嗟に答えられなかった。

 そんなことは決まり切っている。相手にする必要はない。動きは遅い、逃げることはたやすいはずだ――そう思っているのに、言葉にならない。


 ガンシンはディケンズのパーティと親しかったわけではない。雲の上の存在で、マイトのように無邪気に憧れることもなかった。接点と呼べるものは、同じ冒険者というだけだ。

 それなのに、言葉に詰まる。関りはなくとも心の奥底では、広義の意味でダンジョンを糧とする仲間だと思っていたのかもしれない。


 ガンシンが逡巡している間にも、アーレスは迫っていた。

 迷いを振りきり覚悟を決めたときには――もう目の前にまで到達していた。

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