<3>
翌朝にも、枝についた果実は届けられていた。今回も数は四つ、二本の枝が置かれていた。
旅商人はちゅうちょなくかぶりつき、数度咀嚼した後――顔をしかめる。
「こいつはハズレだ。ちょいと渋い」
「残さず食えよ。貴重な食糧だ」
「ガキじゃないんだ、それくらいわかってる」と、旅商人はふてくされ気味に言った。渋味のある果物にも、文句一つ言わない男の子のほうが、よほど大人だ。
これだけでは満足とは言い難い量だったが、後々のことを考えて山菜餅の残りは保持しておくことにした。やはり旅商人から不満はもれたが、問答無用で封殺する。
ミスミは頃合いを見計らい、今後の方針について切り出した。
「これからのことなんだが、みんなと相談したい」
「雨はどうなんだ?」
「だいぶ弱くなってきた。空模様も悪くない、時期にやむと思う」
先ほど確認したところ、雨粒は目を凝らさなければ気づかぬほど細くなり、かすかな雨音だけを地面に吸い込ませていた。見上げた空には青さが戻り、薄い雲だけが置き忘れられたようにポツンと取り残されている。
冬の冷たい風に流されて、名残りの雲もほどなく消えていくことだろう。山の天気は変わりやすいと身をもって経験したばかりだが――しばらくは晴天がつづくと、極力信じたい。
「それなら考えるまでもないだろ。いつまでも、こんなところにいられるか。さっさと出発して山を抜けよう」
「山を抜けるにしても、道がわからない。あんたはわかるか?」
旅商人は声を詰まらせて、力なく目を伏せる。山中を迷うことなく進める方向感覚を、訓練もせず発揮できるとは思えなかった。
「あの、一度山道に戻るのはダメかな」と、母親が口にする。
「俺もそれは考えたが、難しいと思う。崖に沿って歩いていけば、どこかで上の山道に出られるかもしれないが、また地崩れが起きる可能性を考えると、崖際を行くのは危険だ。それに、一番心配なのは俺達の体力だな。負傷した体で麓まではたして歩いていけるかどうか……」
若い母親は顔を曇らせて、おずおずと不安をもらす。
「わたしは……歩いて山を下りれる自信がない」
肋骨を痛めた母親に、山下りはつらいことだろう。足を負傷した旅商人は、彼女以上に無理がある。
山を抜けるのは、状況的に厳しかった。自力で突破するには問題が多すぎる。
「だったら、どうすりゃいいんだよ。このまま、ここで死ねってのか?」
「短絡的になるな。俺が提案したいのは、ここで待つだ。救助隊が来るまで、生き延びることを考えよう」
旅商人は難しい顔で、疑念の目を向けてくる。
「救助隊が来るという保証はあるのかよ?」
「その点に関しては、わりと自信がある。知り合いにこの手の救助に慣れた人がいるんだ」
普段はいい加減なところも見受けられるが、緊急事態のタツカワ会長は頼りになる。ミスミの危機を必ず察知してくれると、そこだけは信頼していた。問題があるとすれば、時間と場所だ。
「ヤブ医者の言うとおり救助が来るとして、それまで本当に待っていられるのか? 食料も少ないうえ、どんどん寒くなっていくぞ」
「ああ、わかってる。すぐに見つけてくれるように、目印をつけておこうと思ってるんだ」
「目印?」
ミスミはちらりと洞穴の外に目をやった。そこからは確認することはできないが、視線を送った先には馬車がある。
「荷台に積んでいた木炭を使って、煙を立てようと思っている。濡れた炭に火をくべれば、大量の煙が吹き出すのは証明済みだろ。それを狼煙にすれば、こっちの居場所をわかってもらえるはずだ。それと――」
ミスミはまたも洞穴の外に目をやった。真似るように男の子も、外に顔を向ける。
今度視線を送ったのは、姿を見せない何者かを捜してだ。
「ここで生きていくのに必要な知恵を持っている、協力者を見つけ出そうと思う。彼の協力をえられたら、生存率はグンと上がるはずだ」
「協力者だと? 誰だよ、それ」
「せっせと果物を届けてくれる誰かさんだ。自然にここまで運ばれているとは、思っていなかったろ」
旅商人は手のなかに残った果実のヘタに、ゆるりと視線を落とした。意識しなかったわけではないだろうが、これまで子細を知ろうとする者はいなかった。事情を気にとめる、精神的なゆとりがなかったからだろう。
おそらくは洞穴に先住していた人影――考えられるのは、炭焼きの村の老婆が言っていた“鬼”だ。その言葉から連想する気質のイメージとはかけ離れているが、他に思い浮かぶ存在がいない。
「どういうつもりで果物を届けているのかわからないが、少なくとも敵意はないと思う。うまく味方に引き込めたなら、当分は食料の心配をしなくてもよくなるぞ」
不確かな要素ばかりで、つねに不安は胸の奥に渦巻いていたが、先の見えない現状において賭けてみる価値はあると思った。
旅商人も母親も不安げであったが、表立って反対することはない。それは、何を行うにしても負傷によって協力できない後ろめたさがあったからだろう。
とりあえずミスミは意見が通ったことに満足し、さっそく行動を開始する。男の子の手を借りて、まずは木炭で狼煙を上げる準備をはじめた。
火の扱いに不慣れなミスミは、作業の大半を男の子に丸投げする。
男の子は石を円形に組んで簡易なかまどを作り、土台となる焚き火を起こしてから濡れた木炭を設置した。火にあぶられ、もうもうと黒煙が天に昇っていく。
狼煙の首尾は上々、問題は鬼との接触だ。こちらは姿をあらわすまで根気よく待つしかない。
狼煙の維持を男の子に任せて、ミスミは木の影に身を潜めて山林を探った。
どれくらいたった頃だろうか。男の子が一旦区切りをつけて、洞穴に戻ったとき、じりじりと近付いてくる黒い塊を発見した。
汚れで黒く濁った布を頭にすっぽりとかぶった存在だ。体を覆い隠しているので、本当に“鬼”であるのか判別つかないが、わかったこともある。
それは、思いのほか小さいということ。身長はミスミより頭一つ分ほど低いように思う。体つきも痩せ型であることがわかった。そして、もう一つ――左足に問題を抱えているらしく、引きずるようにして歩いていた。その歩き方からして、昨日今日患ったという印象はない。左足が不自由なことを前提とした動きをしていたのだ。
黒い塊は用心深く洞穴の様子をうかがい、注意を払っている。おかげで洞穴の外にいるミスミの存在には気づいていないようだ。
ミスミは覚悟を決めると、足音を忍ばせて回り込んでいく。念のために武器として手頃な石を拾っておいた。心もとないが、ないよりかはマシだろう。
湿った地面がうまい具合に音を消してくれたので、想像したよりもすんなりと背後を取ることができた。
あとは声をかけるだけ――不安材料は、相手にこちらの話を聞く意思があるかどうかだ。警戒されないような穏やかな言葉選びを、必死に考える。
そのとき、ふいに鬼が振り返った。人の気配を感じ取ったのだろうか。
鬼はあきらかに動揺した様子で、慌てて逃げ出す。
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
ミスミの呼び止める声を無視し、器用に木々をぬって走る。ただ足が悪いこともあって、スピードはそれほどでもない。
「どうしたの、おじさん?!」
洞穴から飛び出してきた男の子に、くわしい事情を説明している時間はなかった。
「そこにいろ!」と、一言だけ告げてミスミは後を追う。
純粋な走力ならば、ミスミに分があったことは間違いない。だが、山林という不慣れな場所が足かせとなる。
結果として、二人の追いかけっこはなかなか距離が縮まらず、疲労ばかりが溜まっていった。
ようやく追いつく見通しがついたのは、一つのアクシデントが起きてからだ。地表に盛り上がった木の根に足を取られて、鬼が頭から倒れ込んだのだ。
ミスミは速度をゆるめて、ゆっくりと近付いていく。急に走ったので、横っ腹が痛む。
「おじさん、いったいどうしたの?」
「ま、待ってろ……て、い、言ったろ……」
追いかけるのに必死で気づかなかったが、男の子がついてきていた。男の子も軽く肩で息をしていたが、その顔に疲労はさほど見受けられない。
運動不足と加齢を痛感させられる。ダンジョン街に戻ったら、ジョギングでもはじめようかと本気で考えた。
ミスミは深呼吸で息を整えて、改めて鬼に声をかける。
「行かないでくれ」這って逃れようとしていた鬼が、ピタリと動きを止めた。「話を聞いてくれないか」
長い逡巡の末に、倒れた姿勢のまま鬼がわずかに振り返った。頭にかぶった布が少しはだけて、ちらりと横顔が目に入る。
男の子が、「ヒッ!」と身を縮めて怯えた声をもらす。
ミスミも息を飲み、驚きで目を見開いた。
鬼はすぐさま顔を伏せる。まるで恥じるように――いや、恐れるようにといったほうが正しいだろうか。
その横顔は腫瘍で腫れあがり、無数の発疹が散っていた。こびりついた垢汚れに縁取られて、いびつな形状が強く印象に残る。けっして鬼と呼べるような相貌ではなかったが、異質な姿は人とも違って見えた。
口にする予定だった言葉が吐き出せず、ミスミは全身を強張らせる。
この間隙を埋めるように、ふいにドシンと大きな音が響く。地を震わせる衝撃は、足音によるものだった。
悲鳴を上げそうになった男の子を、反射的に抱え込んで口を塞いだ。そのまま近くの木の影に滑り込み、突如あらわれた怪物から身を隠す。
ミスミはおそるおそる顔を出し、怪物の正体を確認した。
見上げるほどに巨体の恐ろしいモンスターだ。一ツ目で、その額には鋭い突起が生えている。“鬼”と形容するのに相応しい姿だった。
一ツ目の鬼は、ミスミ達に気づかなかったようで、悠然と木立を挟んだ奥を通りすぎていく。迷いない足取りで向かった先は、岩室の方角だ。
ギョッとして震えたが、わずかに向きがずれていた。怪物の目的地は、ちょうど馬車がある地点――正確には、その隣に設置された狼煙を上げている焚き火だ。
何を考えているのか、ためらいなく大きな足で焚き火を踏み潰した。一瞬にして火は消失する。
怪物の行動原理はまったくわからない。だが、狼煙を消して満足したようで、やはり悠然と来た道を戻っていく。
ミスミと男の子は、怪物が見えなくなるまでじっと身を潜めていた。ようやく姿が消えて解放されたときには、全身汗びっしょりで、冷えた空気に巻かれて凍えそうだった。
「あっ――」と、本来の目的を思い出し、カラカラに乾ききったノドがかすれた声をこぼす。
追っていた“鬼”は、すでに行方をくらましていた。
※※※
恐ろしい大きな鬼は、火が嫌いだった。以前カミナリが落ちたときも、燃えた木をわざわざ出向いて消していた。
どんな理由で消火にいそしんでいるかは不明だが、とにかくロアルは火に近づかないようにしていた。火元には必ず鬼がやってくる。
追ってきた男達が鬼に意識を向けている間に、ロアルはこっそりとその場を離れる。
転んだときに反射的についた手がゆるく痛んだが、そんなことを気にかけている場合ではなかった。早く逃げなくては――その一心で、這いつくばり
怖かった。鬼も怖いが、やはり人間が怖い。
ロアルの顔を見て、男の子の浮かべた怯えた表情が目に焼きついている。最初はみんな怯える、やがて怯えは嫌悪に変わり、いつしか憎悪に変換される。憎悪はたやすく暴力を生み出し、容赦なく叩きつけられるのだ。
バカなマネをしたと、心の底から後悔する。どうして果物を届けようなどと思ったのか、自分の愚かさが嫌になった。
最初から関わるべきではなかったのだ。人間と共生することは不可能だと、わかっていたはずなのに妙な同情心を抱いてしまった。
安心できる距離まで来たところで、ロアルは木の幹を背にして座り込む。
改めて手を見ると、右の手首が内側に折れ曲がっていた。左手の歪んだ指で、ゆっくりと正常な位置に戻す。
ケガの具合はよくわからなかった。元から骨が変形して、神経がマヒしている。わずかに伝わる痛みの感覚だけでは、判断材料とならない。
短く息をつき、はだけていた布で顔を覆う。これで、やっと安心できた。他人の目のないところでも、長年染みついた習慣で顔を隠していないと落ち着かないのだ。
ロアルは起き上がり、足を引きずって隠れ家に向かう。
『話を聞いてくれないか』
ふと追ってきた男の言葉がよみがえった。まるで反響するように、頭の中で何度も同じ言葉が繰り返される。
あの男は何を話そうとしていたのだろう?――考えないように思っても、どうしても考えてしまう。
逃げなければ、これまでにない展開があったのかもしれない。そんな幻想が脳裏をよぎり、慌ててかぶりを振った。
ロアルは自嘲して、目を伏せる。泣きたいような笑えるような複雑な心境だ。
人間は怖い。でも、どれだけ虐げられても、まだ交流を切望する気持ちが残っている。
それは、しかたないことなのかもしれない。ロアルもかつては人間だったのだから――
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