<3>

 ミスミ診療所に押しかけてきた男は、馬車の御者であると告げた。


「ロウの店のバロッカに頼まれた。ミスミって人、至急来てくれってよ」


 娼婦館に立ち寄った二日後のことだ。ミスミは鼻のつけ根にしわを寄せて、怪訝そうに首をかしげる。


「うまく話が伝わってなかったようだ。治療はここでやる。申し訳ないが一旦戻って、バロッカに患者を連れてくるよう言ってくれないか」

「そいつは難しいんじゃないかな」御者のほうも複雑な表情で首をかしげる。「なんでも危篤って話だ。そんなヤツを馬車に乗せるのはご免こうむるね。座席で死なれちゃゲンが悪い」


 ミスミは言葉を失う。この結果を考えなかったわけではない――ありえることと、つねに頭の片隅に控えていたはずだった。それなのに、御者の口から“危篤”という言葉を聞くまで、なぜかノンのことだと思い込んでいた。

 無意識に辛い現実から目をそむけていたのかもしれない。医者として未熟極まりない。


「わかった、行こう……」


 自嘲にまみれたつぶやきをもらし、御者について診療所を出る。

 不安げな表情で、慌ててティオが追ってきた。「ミスミ先生、病人がいるのなら、わたしもいっしょに――」


 少し考えて、静かに首を振る。回復魔法は効かなくとも、マヒ魔法はアゲハの苦しみをやわらげてくれるだろう。しかし、部外者にいまの姿を見られるのは、痛みよりも辛かろうと判断した。


「そいつはムリだぜ、お嬢さん」御者が仕事道具の馬車を指す。「こいつは一人乗りだ。二人は運べない。それに、ロウの店は女人禁制だ。娼婦に転職するってんなら話は変わってくるが、そうでないなら大人しく待ってな」

「しょ、娼婦?」


「よけいなことを……」困惑したティオの質問攻めがはじまる前に、ミスミは素早く馬車の座席にすべり込んだ。

 一頭立ての小型馬車で、座席は木板を組んだだけの簡素な作りをしている。走り出して振動が足されると、かなり腰に響きそうだが、文句を言っている時間はない。


「待ってください、ミスミ先生。どういうことか説明してください!」


 御者をせっついて、馬車を発進させる。遠ざかっていくティオの声を振り切って、ミスミは小さな吐息をもらした。


 まるで嵐に突入したような激しい揺れに耐えること数分――猛スピードで町を駆け抜けてくれたおかげで、予想以上に早く到着できた。軽い乗り物酔いでふらつきながらも、朱色の門をくぐる。

 まだ営業時間前のがらんとした店内を通り、裏の居住区に向かった。廊下の突き当りにあるアゲハの個室前には、心配した娼婦達が集まっている。


「そこ通してくれ」


 娼婦の一群をかき分けて、部屋に入る。ただ一人室内で付き添っていたノンが、燻された黒い葉が放つ煙のなか、いまにも泣き出しそうな顔で振り返った。


「バロッカは?」

「わかんない。いつの間にか、いなくなった……」


 人を呼びつけておいて、どこに行ったというのか――苛立ちが顔に浮き上がるのをこらえて、穏やかな仮面をかぶり枕元に腰を下ろす。

 体温を確認しようと包帯越しの額に手を添えると、うつろな目がミスミに向けられた。


「気分はどう?」手のひらが焼けそうなほどに高熱だ。「少し熱っぽいな。水でも飲むか?」

「……たい」


「ん?」よく聞き取れなかったので、耳を近づける。

 荒い呼気の間隙をぬって、アゲハは言った。「ベリーのタルト。キリカの店のベリータルト食べたい」


 いまダンジョン街で話題になっている菓子店で、特にベリータルトは店頭に並ぶとすぐに売り切れる人気商品である――と、甘いもの好きのティオが診療所で話していたことを思い出す。


「悪いな、それはちょっと無理そうだ。水で我慢してくれ」


 水差しで少量の水を口に含ませる。喉を湿らす程度であったにも関わらず、アゲハはつっかえ軽くむせた。とてもじゃないが、焼き菓子を食べられるような状態ではなかった。

 もう、ほとんど時間は残されていない。迫りくる死の影が、刻々と深くなっていく様子が見て取れる。


「ねえ、先生」おっとりとした口調だった。「わたし、死ぬの?」


 あまりに直接的な問いかけに、ミスミは返事をためらった。


「死にたくないな。うん、死にたくない。死にたくないよ。死にたくない」


 おっとりとした口調のなかに、鬱積した情念がこもっている。

 思わずノンは目をそらし、腫れた横顔を震わせていた。


「わたしは、何のために生まれてきたんだろう。親に売られて、娼婦になって、病気になって、死んでいく人生……。もっと別の道があったんじゃないかって、ずっとずっと、考えている」


 胸の奥に溜め込んでいた憤懣ふんまんを吐き出して、アゲハは力なく笑った。まるで負けを悟った剣闘士のような、諦めに支配された痛々しい笑顔だ。

 どうすることもできない境地に立たされた者に、何を言ってやれるというのだろう。ミスミは一度小さく首を振り、ありきたりな慰めや励ましの言葉を捨てて、寄り添う思いを形にした。。


「俺も似たようなもんさ。どうして、ここにいるのか考えている」


 おそらく理解してもらえないであろう自分語り――それでも、少しは心が通うと信じて口にする。


「前にいた場所で死にそうになって……実際死んじまったのかどうか、はっきりしないまま、気づけばここにいた。他にできることがないから医者をつづけて、なりゆき任せで生きている。ここに連れられた意味を考えちゃいるけど、結局わからずじまいだ。生きる理由なんて、たぶん誰にもわからない。何のために生まれたかなんて、自分ではわかりゃあしないんだよ」


 向けられたうつろな左目に、わずかだがやわらかい光が宿ったように思えた。意味は通じなくとも、伝わるものはあったのだろう。

 アゲハは「ほうっ」と大きく息をついた後、静かにまぶたを下ろす。包帯越しの顔立ちに、どことなく落ち着きを感じた。


 ――だが、次にアゲハが目を開けたとき、話は思わぬ方向に飛んだ。

「ねえ、バロッカはどこにいったの?」


 不安に満ちた目で、室内に視線を巡らせる。混濁した意識のチャンネルが、別のところに繋がったようだ。

 あまりの戸惑いように、居ても立ってもいられずノンが立ち上がった。「アタシ、ちょっと捜してくる!」


 駆けていく少女の姿を見て、アゲハは眉間にしわを寄せる。


「あの子、誰?」

「ノンだ。お前さんの世話をしていた新人だよ」

「ノン……、ああ、そうだね。ノンか、ノンだった。世話をしてくれてたんだね、確か……そう、ノンだ。わたしと同じ、口減らしで親に売られた可哀想な子」


 アゲハは記憶に刻み込もうとするように、何度も「ノン」と口にする。そして、なぜか怒りにも似た険しい表情を浮かべた。

 包帯の下で、どんな感情がうごめいているのか――眉間にしわを隆起させている。細く尖った視線が、薄煙の漂う天井を睨みつけていた。


「そうだ、ノンとわたしは似ている。同じような境遇で、ここにたどり着いた。あの子の未来は、わたしだ」

「違うぞ、二人は別の人間だ。同じ道を歩むわけじゃない」


「わたし、やりたいことがたくさんあった。誰にも言ってないけど、叶えたかった夢があった。あの子……ノンも、きっとそうだ。でも、わたしは何一つ叶わず死ぬ。ノンも、死んでいく」


 思考が乱れているらしく、論理が飛躍している。だが、言いたいことはよくわかった。

 アゲハは咳き込み、ヒューヒューと喉を鳴らしながら、それでもはっきりと言った。


「ミスミ先生。ノンの力になってあげて。あの子は、わたし。わたしの夢を助けてちょうだいな」


 自分の不幸を嘆き、生きたいと願ったことも、叶えられなかった夢をノンに託そうとしたことも、どちらも本心なのだと思う。人間は、弱くて、強い生き物だ。


「ああ、わかったよ。約束する……」


 その声は、はたして彼女に届いたのだろうか。まぶたを落としたアゲハは、切れ切れな寝息を吐いている。

 手首を取り、脈を確かめた。トッ、トッ――と、次第に弱くなる感覚を指先がとらえる。


「お疲れさま。よくがんばった」


 体から力が抜けて、最後に溜まった息を吐き出す。口元にかかった黒い葉の煙が、かすかに揺らいだ。

 アゲハは静かに息を引き取った。


※※※


「お前、いったいどこに行ってたんだ」


 ぼんやりとたたずむバロッカを見つけたのは、アゲハが亡くなった直後のことだった。

 故人に別れを告げる娼婦達と入れ替わり、個室を出て身の置き場を探していたところ、帳場にいるバロッカを発見したのだ。


「別に、どこだっていいだろ」ちらりと居住区側に目をやる。「アゲハのやつ、くたばったのか?」

「ああ、さっきな……」


 バロッカは鼻を鳴らし、近くにあった来客用の椅子に腰かけた。よく見ると、うっすらと汗をかき、かすかに肩で息をしている。何やら小さな紙袋を手にしており、しばらくして思い立ったように足下に置いた。

 表面上は平然としているが、どうやら忙しく動き回っていたらしいことはわかる。


「とりあえず、アゲハに会ってこい。彼女、お前のことを捜していたんだぞ」

「どうせ、死体の後始末は俺がやらなきゃいけないんだ。急いで行く必要もないだろ」

「まったく、お前はどうしてそう――」


 バロッカは何気なく紙袋から小さな包みを二つ取り出して、そのうち一つをミスミに投げ渡した。


「食えよ」


 不審に思いながら包みを開けると、それはベリーのタルトだった。粘っこい甘いにおいが鼻腔をくすぐる。


「これって、もしかしてキリカの店のベリータルト?」

「いや、違う。キリカの店のは売り切れてたから、似たようなのを買ってきた。もう食うヤツはいないんだ、もったいないからヤブ医者も食え」


 そう言って、バロッカはタルトをかじる。

 ミスミは苦笑して、ボサボサ頭をかいた。まったく、どうしてそう――素直じゃないんだか。


 交換された形跡のあった包帯。お香に用いられていた黒い葉は、大麻に近い成分で鎮痛作用があった。簡単に用意できるものじゃない。アゲハの容態を知り、黒い葉を入手できる人物は一人だけだろう。

 事実を問おうとして、言葉を飲み込む。きっと答えてはくれない。だから、別の言葉に置き換えた。


「つらいな」

「つらいだと?」バロッカはきっぱりと言いきる。「そんなわけないだろ。つらいなんて言えるもんか!」


 間髪入れずの断言に、少し面食らう。予想していた返しであったが、まるで子供のようにムキになって言い返してくるとは思っていなかった。

 すぐに自分が取り乱していたことに気づいたようで、バロッカは目を伏せて、ごまかすためにタルトをほおばった。ポロポロと土台の生地をこぼしながら、乱暴にかみ砕いて、味わうことなく胃袋に送る。

 半分ほど食べ終えたところで、ようやくバロッカは顔を上げる。どことなく自嘲に染められた苦い表情に見えた。


「女を喰いものにしている俺が、つらくなっていいはずねえだろ。そういうのは、てめぇみたいに寄り添ってやれるヤツの役目だ。俺は、恨まれるくらいがちょうどいい。そうでなきゃ、つり合いが取れねえ」


 意地なのか、何かしらの信念があるのか――バロッカは辛辣な態度をけっして曲げようとしない。

 ミスミは諦観のため息をもらし、ゆるんだ口にタルトを運ぶ。ねっとりとしたベリーソースに、パサパサの粉っぽい生地が絡まり、あまりおいしくはない。アゲハが期待した味でないことは確かだ。でも――


「甘いな……」

「ああ、クソ甘い……」


 バロッカが買ってきたベリータルトは、歯が浮くほどに甘かった。

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