<2>

「ああ、ミスミ先生。来てたんだ」


 包帯の女はおっとりとした口調で言った。わずかに声が浮ついたのは、口内の腫瘍の影響だろうか。


 ミスミは彼女の左目を見つめる。そこだけは、かつての面影を残していたからだ。

 病を患う前の彼女は、けっして美人ではなかったが、ほどよくふくよかで包容力のある素敵な女性だった。何人もの男達が、彼女の柔らかな体に包まれて、さみしい心を癒してもらってきた。


 それが、いまでは見る影もない。やつれ、ただれ、欠けてしまっている。包帯に隠された病巣が、人当たりのよい彼女の魅力を削ぎ落していったのだ。

 何一つ守れなかった無力感にさいなまれ、ミスミは胸が痛くなる。憤りと後悔の沼に、足が埋もれていくのを感じた。


 娼婦のアゲハが、その病を感染したのは、ロウの店で性病予防を実施するようになってからだった。予防措置をとっているにも関わず、彼女は感染してしまった。梅毒に。


 梅毒は――性行為によって感染する性病の一種である。感染するとひそやかに原因菌が全身に広がり、炎症を起こし、発熱や痛みにはじまり皮膚にバラ疹と呼ばれる紅い発疹があらわれる。症状が進むと、さらに様々な合併症を引き起こし、最終的には死に至ることとなる。


 当時バロッカにきつく当たったこともあった。本当に指示したとおり、予防を徹底させたのかと。

 すると彼は、「てめぇは治療法を知っていたら、どんな病気でも必ず治せるっていうのかい。こういうのは、どうしようもねぇこともあるだろうが」と強い口調で言い返した。ぐうの音もでなかった。


 抗生物質さえあれば、梅毒の治療は可能だ。しかし、この世界では手に入れることのできない薬剤である。活性化魔法も効き目はなく、進行していく感染症を見ていることしかできなかった。


「あれ、ミスミ先生。来てたんだ」

「やあ、気分はどうだい?」


 アゲハはぼんやりミスミを眺めると、しばしの沈黙をはさんで、唐突に答える。


「悪くないよ。そこそこ気分がいい」

「そりゃあ、よかった。少しずつ復調しているのかもしれないな」


 ウソだった。梅毒はすでに体中いたるところに広がり、脳の一部にまで浸食している。意識障害に記憶障害も引き起こし、思考が細切れとなって正常な働きを阻害していた。今日は意思疎通を行える分、本当に気分がいいのかもしれない。


「そうだ、包帯を交換しようか。すっきりするぞ」

「やめとくれよ。こんな醜い姿を、見られたくはない」

「でも――」

「これでいいんだよ」と、わずかに口元をほころばせた。「このままで充分だ」


 アゲハを覆った包帯には、かすかに染みがにじんでいる。だが、さして汚れが目立つわけでもなければ、特別臭うこともない。ここ数日の間に交換したらしい。問題はないかと、ミスミは患者の意思を尊重することにした。


「ミスミ先生、どうしたんだい。何かあったのかい?」


 キョトンとした目に見つめられて、ミスミは肩をすくめる――と、違う視線を背中に感じて、何気なく振り返ってみた。

 扉の隙間から、世話係を任せられた少女が覗いている。


「そういえば、新人の世話を断ったらしいじゃないか。病人なんだから、遠慮せずに頼めばいいだろうに」

「新人?」アゲハは長考の末に、誰のことか思い至ったようだ。「ああ、ノンか――」


 ミスミは手招きして、少女を呼び寄せる。なぜか少女は眉をしかめた怒ったような表情を浮かべて、ためらいがちに個室へ入った。


「お前さん、ノンって言うのか?」


 ぶすっとしたふてくされた顔で、少女はうなずく。不機嫌なのか、それとも顔の腫れがそう見せているのか――ミスミには判別できない。


「先生、その子を遠くにやっておくれよ。うつるといけない」

「適切に処置していれば、うつることはないさ。気を使わなくていいんだ」


 梅毒の主な感染経路は、性交渉による粘膜の接触だ。通常生活において感染することは、まずないと言っていい。

 感染を心配して世話を拒否する必要はなかった。だが、おそらく感染だけが理由ではないのだろう。醜く変貌してしまった姿を、他人に見られたくないという気持ちが少なからずあったに違いない。


「アゲハ姐さん、アタシに看病させてよ。たいしたことはできないけど、そばにいさせて」


 ノンは身を乗り出して懇願し、思い切って手を取った。紅い発疹が目につくが、構わずギュッと握りしめる。


 包帯の上からでもわかる困り顔を浮かべて、アゲハは対応に戸惑っていた。何度か口を開くが言葉はもれず、思いを形にできないでいる。やがて、前ぶれなく左まぶたがストンと落ちて、小さな寝息が聞こえてきた。

 疲弊したのか、アゲハは眠っている。ノンに目線で合図を送り、静かに個室を出ることにした。


 扉を抜けると、ちょうど様子を見に来たらしいバロッカと出くわす。冷めた顔つきで、ミスミとノンを順繰りに見た。


「どうだ。そろそろ死にそうか?」


 ノンは噛みつきそうな剣幕で、バロッカを睨みつけた。

 ミスミは慌てて少女の襟首をつかみ、飛びかかるのを阻止する。「こいつの悪態にいちいち反応していたら、キリがないぞ。相手にするな」


「うっ、うるさい……」


 悔しそうに顔を伏せて、ノンは力なく手を払う。結局のところ雇う側に、雇われる側は逆らえない。

 バロッカはフンと鼻を鳴らし、改めてミスミに目を向けた。ふざけた物言いをするが、本当に容態を知りたいのだろう。

 ミスミは黙して首を振った。どう転ぶかは、彼女の体力次第だ――もはや判断を下せる状態ではなかった。


「こっちは何一つ頼んじゃいないが、アゲハの件で、一応はてめぇの世話になったことになるのかねぇ」何を思ったのか、バロッカは唐突に意外な話を切り出した。「貸しを作ったままでは、どうにもシャクだ。礼と言えるほどいいもんじゃないが、このチビスケの水揚げをやってみるかい?」


 いきなりのことで、ノンの非対称の顔が青ざめる。

 水揚げ――つまり初めての客として、少女に色を教える役目だ。初物を好む男達は多く、水揚げ役を希望する者は多い。


「ガキを抱く趣味はねえよ」

「そりゃそうか。こんな歪んだツラの女を抱く気にはなれないか」

「その代わりと言っちゃあなんだが――」ボサボサ頭をかきながら、ちらりとノンの腫れた顔を見た。「この子の診察をさせてもらう。腫れ方が気になる」


 バロッカは肩をすくめて、嘲るように目を細めた。


「てめぇは本当に物好きだな。金にならねえ仕事を、どうしてこうやりたがるんだ。よっぽどのヒマ人……いや、聖人気取りか」

「そんなんじゃないって」と、鼻のつけ根にしわを寄せる。


 その渋面のまま向き直ると、ノンはビクッっと体を震わせて身構えた。面構えが恐ろしかったわけではないだろう、診察を恐れているのだ。

 手を差し出して頬にふれようとすると、一歩二歩と後ずさった。

 無言で追いかけ、強引にふれる。指が腫れをとらえた瞬間、ノンは大口を開けて身をよじった。まなじりに、うっすらと涙がにじむ。


「相当痛むようだな。どれ、口を開けてみろ」

「嫌だ! 診察なんて頼んじゃいない!!」


 言うが早いか、ノンは一目散に逃げだす。止める間もなかった。

 廊下を駆けていく姿を呆然と見送り、ミスミはボサボサ頭をかいた。その隣で、大きな舌打ちが鳴らされる。


「あいつは、てめぇの立場ってものをわかってねえな。まだ生意気言うようなら、自分が買われた女ってことをブン殴ってでも教えてやんねぇといけない」


 物騒なことを口にしたバロッカであるが、その行為が行われないとミスミは確信している。親分であるロウの教えなのか、バロッカが女を傷つけることはない。彼らにとって女は、大事な商品なのだ。

 最低限の決まり事を除けば、ロウの娼婦館は比較的自由な気風がある。他では、そうもいかない。いまだノンが生意気でいられるのも、この店に拾われたからだろう。


「あの子は、最初から顔を腫らしていたのか?」

「まあな、それで売れ残ってた。女衒のオッサンが言うには、親が売りに来たときはマトモだったが、買った直後からドンドン腫れていったらしい。あんなツラだから買い手がつかず、かなり安値にしてくれるってんで、アゲハの世話役にちょうどいいと思って買った」

「治そうとは思わなかったのか」


 バロッカは軽く肩をすくめる。「客で来た医術者に頼み込んで回復魔法の治療をしてもらったが、見たとおり治る気配はねえ。それどころか、じわじわ悪化してきてる。時々布団を頭までかぶって、寝床でうなってるって話だ」


 先ほど指がふれた感触を思い出し、腫れはじめた時期に回復魔法が通じなかった事実を加えて、病状を推察する。しっかりと診察してみないことには断定できないが、おおよその予想はついた。


「おい、まさかうつるような悪い病気にかかってるとは言わないよな」

「それはないだろう、たぶん」

「たぶんって――てめぇ、はっきりしろ!」


 ミスミはニヤッと笑い、廊下の奥に目をやった。


「何にしても、あれはかなり痛みを我慢してるはずだ。我慢の限界がきたら俺に知らせろ。治療の準備はしておく」


 その知らせがきたのは、二日後のことだった。

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