夜蝶の夢

<1>

 窓越しに赤く染まった夕暮れ空を見て、吐息をこぼしながらミスミは立ち上がった。


 待合室に顔を出すと、器用に編み物をするカンナバリと熱心に医術書を読むティオの姿があった。両者共にヒマそうだ。

 コホンと空咳で、二人の目を引きつける。ティオはページの端を折って医術書を閉じたが、カンナバリが繰る編み棒は目線が外れてからも動きつづけていた。複雑に絡み合った糸が、まるで魔法のように一枚の布地となっていく。


「ちょっと出かけてくる。帰りは遅くなるだろうから、戸締りして診療所を締めておいてくれ」

「どちらにお出かけですか?」


 別段知りたかったわけではないだろうが、何気なくティオが尋ねた。ヒマすぎて気の抜けた顔を見れば、意識した問いかけでないことはわかる。

 ミスミはボサボサ髪をかきながら、さりげなく視線をそらす。


「タツカワ会長に呼ばれてるんだ。たいした用事じゃないと思うが、断るとうるさそうなんで行ってくる」

「ひょっとして――」キリのいいところまで編んだらしく、ようやく手を止めたカンナバリが疑わしそうな眼差しを浮かべていた。「また飲みにいくんですか?」


 内心焦りながらも、あくまで表面上は平静を保ち、何でもないといったふうに肩をすくめてみせた。


って、どういうことです?」


 流してくれればいいものを、ティオはよけいなところに引っかかった。舌打ちがこぼれそうになるのを、必死にこらえる。


「ミスミ先生と会長は、定期的に盛り場を飲み歩いてるのよ」

「そうなんですか」

「それも、お大尽が通うような美女が接待してくれる高級な店をね」

「そうなんですか……」


 途端にさげすみの混じった白い目が、容赦なくミスミに注がれる。年のわりには初心うぶなティオからすれば、その手の飲み屋はいかがわしい店に思えるのだろう。

 ミスミはひょうひょうとした態度を維持して、まったく気にしていないていで扉に手にかける。


「じゅあ、そういうことで、あとはよろしく」


 捨てゼリフを残して、診療所を飛び出した。


「あ、待ってください、ミスミ先生!」ティオの呼び止める声を振り切り、小走りで繁華街に急ぐ。


 街の中心であるダンジョン入口広場から南に抜けて、薄闇が覆いはじめた路地に足を踏み入れた。飲み屋が軒を並べた、通称『酒場通り』だ。まだ酒をあおるには浅い時間帯であったが、気の早いのん兵衛の姿があちこちにあった。


 店先にかけられたランプの淡い明かりをたどって、道なりに進んだ先に目的の場所が見えてくる。酒場通りにあって、一際きらびやかな建物だ。

 白いレンガ調の石材で組まれた壁面に、ランプの光がキラキラと反射していた。ランプにダイヤモンドのブリリアンカットを思わせる特徴的なガラス細工を施すことで、光を屈折させているのだ。まるで一級の芸術品のようなおもむきがある。


 そんな目につく店構えとは裏腹に、入口扉は脇のほうにポツンと設置されていた。ちょうどランプ灯りの届かない、影となった目立たない場所だ。高級店の格式を示しながらも、客のプライバシーも守ろうという趣旨なのだろうか。店の看板さえも見当たらなかった。


 タツカワ会長に何度か連れられてきたことはあるが、場違いに思えてミスミはいまだになれない。緊張の面持ちで、軽く扉をノックする。

 ほとんど待つことなく、扉は音もなく開いた。静かに進み出たドアマンが、ミスミの顔を確認する。


「いらっしゃいませ、ミスミ先生。タツカワ会長がお待ちです」


 ドアマンは慇懃いんぎんな態度で、ミスミを招き入れた。広いエントランスを抜けて、奥の部屋に通される。

 かっちりと囲われた個室を長い廊下が繋いでいた。ナイトクラブというよりは、構造としては料亭に近い。


「おー、来たか、ミスミ先生」


 個室のソファーにどっかり腰かけていたタツカワ会長が、手にしたグラスを掲げて歓迎する。すでにかなり飲んでいるようで、角ばった顔が赤く色づいていた。

 その隣には、青いドレスを着た色っぽい美女が寄り添っている。エルフの女王も美しかったが、彼女は違う魅力――肉感的な魅力に溢れていた。ざっくりと開いた胸元に、思わず目が吸い寄せられる。


「ほら、早く座れ」

「はいはい、座ります座ります」


 向かいの席に腰を下ろすと、美女がおしぼりを渡してくれた。


「あ、どうも――」

「サリアです。よろしくね」


 鼻の下が伸びそうになるのを必死にこらえて、ぎこちなくうなずいた。艶めかしい視線を送られると、年甲斐もなく照れてしまう。


 彼女が注いでくれた酒を受け取り、そっと口をつけた。琥珀色の蒸留酒が、濃い味わいを引き連れて喉を焼く。

「ケホッ」と、少しむせる。舌に残ったアルコールのにおいだけで、酔っ払ってしまいそうだ。


「あら、ちょっと強すぎたかな?」

「ミスミ先生は、顔に似合わず酒に弱いんだ。手加減してやってくれ」ニヤニヤ笑いながら、タツカワ会長が注文をつける。「どうせ、酒の味もわからん。たっぷり水で割ってやるといい」


 腹立ちまぎれに用意されていた、酒の肴の野菜スティックを頬張る。高級店だけあって、瑞々しい新鮮な野菜でドレッシング無しでも充分にうまかった。


 サリアが新しいグラスに、また酒を注いでくれた。先ほどより薄く仕上がった水割りを、おそるおそる口運ぶ――と、今度は、つっかえることなくするりと喉を流れていった。ちょうどいい塩梅に調整してくれたようだ。さすが接客のプロだと感心する。


「それで、最近診療所の調子はどうなんだ」

「相変わらずですよ、閑古鳥が鳴いている。でも、まあ、何んとかやっていけているかな」


「医術者のお嬢ちゃんはどうだ。少しは成長してるか?」

「底力はあります。ただ弱気なところがあって、他に頼れるヤツがいると任せてしまう傾向がある。自分で判断を下せるようになれば、一皮むけるんだが――」


 会話を交わしながらも、タツカワ会長は執拗にサリアへちょっかいをかけていた。その都度うまくあしらわれていたが、酔っぱらいオヤジは諦めない。

 ふくよかな乳房に指を埋めようとして、「もう、エッチな会長さん」と手を払われている。ピシャリと叩かれた手の甲に、赤い跡が残っていた。酔いのおかげで気づいていないようだが、結構な強さで叩かれたらしい。プロのサリアは笑顔を崩さないが、内心相当苛立っているのかもしれない。


 そんなオッサンの痴態を眺めつづける、地獄のような時間をしばらく耐えなくてはいけなかった。気を利かせて、もう一人接待役を読んでくれればいいのに……と思わなくもないが、後の予定を考えると、自分のペースを守れる現状がベストだろう。


 ――店に来て、どれくらいたったことか。底を突きかけた蒸留酒の瓶を見て、いい頃合いだとミスミは切り出す。


「タツカワ会長。俺、そろそろ行くよ」

「なんだ、早くないか?」

「少しロウの店に寄っていきたいんだ。あまり遅くなると迷惑になる」

「ロウの店……」タツカワ会長の顔に、掛け値なしにいやらしいと言える下品な笑みが宿る。「お前も好きだな」


 ミスミはボサボサ頭をかいて、わざと聞こえるように大きなため息をつく。


「そんなんじゃないって、わかってるだろ。とにかく、そういうことなんで、先に失礼します」


 見送りに出ようとしたサリアを手で制して、ミスミは個室を後にした。廊下を抜けて、ドアマンに会釈し、杓子定規な挨拶を聞き流しながら店を出る。

 日はとっぷりと暮れて、墨を塗り込んだような空に、綺麗な二重の月がにじんでいた。アルコールの入った体に、ひやりとした夜気が心地いい。


 ミスミは迷うことなく足を、酒場通りの脇道に向ける。

 建物の影に覆われた暗い小路では、ぼやけた安ランプの灯りがたゆたっている。灯りはミスミを発見すると、エサを見つけた野良犬のように光の尾を振って駆け寄ってきた。


「兄さん、ヒマなのかい。安くしておくよ、今晩どうだい」


 ランプ灯りに照らされて、フードを目深にかぶった女の姿が浮かび上がる。わずかに見えた口元には、くっきりとしたほうれい線が刻まれていた。


「悪いね、今日は行く店を決めてるんだ」

「そう言わずに、遊んでいっておくれよ。わたしを助けると思ってさ」

「また今度な」


 絡みつこうとした腕をさけて、大きく踏み出し引き離す。


「チッ、なんだい、気取りやがって。オンナ買いにきた下郎のくせに!」


 ミスミは背中に罵倒を受けながら、さらに小路を奥へ進んでいく。いくつもの視線が投げかけられているのを感じた。

 路傍に立つ客引き娼婦達の目だ。この界隈は、いわゆる赤線地帯であった。


 ――ダンジョン街に拠点を置く冒険者の八割は男性と言われている。年齢層は大半が若者と呼ばれる世代で、彼らの抑えきれない性欲求を、夜の仕事を生業とする女達が解消してきた。一時は仕事を求めて集まる娼婦の存在を危惧する声もあったというが、独自に暗黙のルールを作り上げて特定の場所のみでの営業を実施することにより 表面上は共存を許されるようになったわけだ。


 このルール作りに尽力したのが、娼婦の元締め的地位にいるロウ・ジンエだ。ダンジョン街の表の顔がタツカワ会長なら、裏の顔はロウであろう。現在は老齢であることから半隠居状態だというが、その影響力はいまも衰えていない。


 今回ミスミが向かっているのは、ロウが経営する娼婦館の一つだ。小路の奥の複雑に枝分かれした路地の先で、朱色の門構えが目につく店に行き当たった。


 ツンと鼻先に、お香と肉欲の混じりあった独特なにおいが漂ってくる。

 扉を開けて踏み込むと、帳場の若者が顔を上げた。ミスミの顔を確認すると、見る間に表情が歪んでいく。


「なんだ、ヤブ医者か。面倒なヤツが来た」


 吐き捨てるようにつぶやいたのは、若いながらも店を任されている青年バロッカだ。さすがに客前では自重しているが、素の彼は態度も悪ければ口も悪かった。


「どうだ、俺の言いつけをちゃんと守ってるか。お前のとこの親分に許可はもらってるんだ、やってないとは言わせないぞ」

「うるせぇな、てめぇは小姑かよ。いちいちチェックにくるんじゃねえ」バロッカは心底忌々しそうに舌打ちを鳴らした。「言われなくても、やることはやってる。仕事前に小汚い客を洗って、厄介な病気を持ってそうなバカは追い返してる。クソ面倒だけどな」


 以前ミスミは娼婦の間で性病が蔓延していることを知り、感染を防ぐために予防措置を行うべきだとロウに直談判した。タツカワと旧知の仲であったロウは、老齢で性格が丸くなったこともあり、すんなりとミスミの提案を受け入れてくれる。


 それからは、ミスミ指導の下にロウの店では性病予防策がとられるようになった。まだ娼婦全体に予防の重要度が浸透したわけではないが、大店をまねる形で、少しずつ不衛生な性行為は改善されているという話だ。


「こんなことのために、営業時間にわざわざ来たのかよ。とんだ嫌がらせだな」

「いや、まあ、時間のことは悪いと思ってる」ミスミはボサボサ頭をかきながら、ちらりと店の奥に目をやった。「アゲハはどんな調子だ?」


 一瞬バロッカの顔に動揺が走った。 


「いいわけねぇだろ。いまにくもくたばりそうなツラをしてるよ。もう長くねえだろうな」

「ちょっと寄せてもらおうかな」


 ミスミが店内に上がり込む。バロッカは険しい視線を送っていたが、それを止めることはなかった。


「あっ、そういやアゲハの世話は新しく入ったチビスケに任せてんだ。くわしいことは、そいつに聞け」


 店舗部分の端にある勝手口から館の裏側に出ると、娼婦が居住する安普請の共同住宅に繋がっていた。いくつかの大部屋とわずかな個室が、小さな区画に詰め込まれている。

 けっして良い居住環境とはいえないが、それでも他の娼婦に比べればロウの店の女は恵まれていた。ここにいるかぎりは衣食住は保証されて、仕事にありつけるのだから。


 荷物の包みが乱雑に置かれて一層狭くなった廊下を進んだ突き当りに、その個室はあった。扉脇の壁に寄りかかり座っていた少女が、ミスミに気づいて顔を上げる。


「誰だ?」

「医者だよ。お前さんがバロッカの言ってた世話係の新人か」


 彼女は右に顔をそむけて、小さくうなずいた。まだ十代前半であろう小柄で痩せっぽちの少女だ。何よりも印象に残ったのは、その顔――右側の側面が不自然に腫れており、ちらりと目にした正面顔がひどく歪んで見えた。


「アゲハについてなくていいのかい?」

「……姐さんにいらないって言われた。部屋に入ると怒られる」

「そうか。それならしかたないな」


 ボサボサ頭をかきながら、扉に手をかける。少女は横顔に戸惑いを浮かべたが、「俺は医者だからいいんだ」と黙認させた。


 ランプを灯していない薄暗い個室に足を踏み入れると、甘いような酸いような独特なにおいを放つ煙に包まれる。香皿の底で火花を立てる、乾燥した黒い葉が大元のようだ。

 部屋に敷かれた布団の枕元に、ミスミは静かに屈み込んだ。


「気分はどうだ、アゲハ――」


 顔中に巻いた包帯で右目を塞がれた女が、左目を転がしてミスミを見る。そこに意識が灯るのに、しばらく時間を要した。

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