<2>

 話し合いの結果、最初に診察を受けることとなったのはエルフのシフルーシュだ。ミスミの背後に控えたドワーフの看護師が、露骨に嫌そうな顔をする。

 シフルーシュの心にムクムクと対抗心が沸き起こるが、いまだけは診察を優先して気持ちを押さえつけた。


「で、どうした。調子が悪いのか?」

「ノドが痛い」

「喉?」と、オウム返しに確認したのは、ノートを手にしたティオだ。診察記録を取っているらしい。


 シフルーシュがジロリと挑戦的な目を向けると、少し怯えたように頬をひきつらせる。マイトはやけにこだわっているが、あまり頼りがいがあるようには見えなかった。医術者としての腕を見込んでいたとしても、他で足手まといになるのなら、相対的にお荷物でしかない。

 うまく言葉にできない感情の揺らめきが起こり、胸がざわめいている。妙な苛立ちをおぼえていることに、シフルーシュは自分自身を不思議に思った。


「喉が痛いって、どういう痛みなんだ。ズキズキとかチクチクとか、痛みの種類を教えてくれ」

「種類と言われても……引っかかるような感覚があって、何度も咳をして喉が痛くなった。だから、ヒリヒリって感じかな」

「どれ、ちょいと口を開けてみろ」


 言われたとおりシフルーシュは口を開けるが、「もっと大きく」と注文をつけられる。

 ムカッとしたが、怒りは飲み込み限界まで大きく口を開けた。

 ミスミは口内を覗き込み、木製のヘラで舌を押さえ込む。一瞬吐き気に襲われるが、ぐっと我慢してこらえた。


「炎症は起きていないようだ。目に見えるような傷も見当たらないな」


 ヘラから解放されて、口を閉じる。普段こんなにも大きく口を開ける機会がないので、ほんの短い間であってもアゴが痛くなった。

 シフルーシュは顎関節をしきり撫でる――と、その様子を見ていたカンナバリが、小馬鹿にしたように鼻で笑う姿が目に入った。


「なんか言いたいことあるの?」

「別に」カンナバリはそっけなく答える。「ただ、エルフってやつは貧弱だと思っただけ。そんな細っこい体してるから、ちょっとしたことでダメージを受けるのよ」


 医療に携わる看護師とは思えない発言だ。シフルーシュは怒りを隠すことなく視線にこめた。

 背丈こそ小さいが骨太で筋肉質なドワーフと違い、脂肪のつきにくい細身のエルフは、確かに華奢ではある。それは種族特有の体質である以上、個人ではどうしようもないことだ。


 腹立ちのあまり歪んだ顔で、カンナバリを睨みつける。ミスミが心底面倒そうに、「まあまあ」と割って入ってきた。

 そのとき、唐突にポンとティオが手を合わせる。

「あっ、そうか――」


 ぽろりともれた弾んだ声は、ひりつく緊張感をかすませるほどに浮いていた。即座に一同の視線が集まり、ティオは気後れしてぎこちなく腰を引く。


「どうした、嬢ちゃん」ボサボサ頭をかきながら、ミスミは聞いた。「何か思いついたのなら言ってみな」


 一瞬ためらいを見せたティオだが、意を決して口を開く。


「身体的に頑丈とは言えないエルフは、気管の耐性も相応に低いのではないでしょうか」

「それで?」と、ミスミはつづきをうながす。


「えっと、だから、人間なら問題ない程度の少量であっても細かな粒子が喉に引っかかって咳き込むことになる。見た目以上にダンジョンは埃っぽいですからね」

「なるほど、現役冒険者らしい意見だ。そうなると、どう対策するのがいいと思う?」


 ティオは悩んだ末に、視線をぐるりと回してシフルーシュに向けた。正確には、その口元にだ。

 対策を練る過程での行為であって、そこに他意はないとわかっているのに、思わずヘの字に唇を結ぶ。


「鼻と口を何か布地で覆ってみてはどうでしょう。多少は息苦しくなるかもしれませんが、埃が入り込むのを防ぐことはできると思います」

「うん、それくらいしか方法はないか。ほうっておくと気管や肺に深刻な症状が起きることも考えられる、しっかり対策は取っておくべきだろう」


 ミスミの同意をえられたことで、ティオは心底嬉しそうに笑顔を咲かせた。

 その顔を見た瞬間、シフルーシュの中にあった敵愾心がホロリと溶けていくのを感じた。ティオのミスミを見る目に、特別な想いが混じっているように思えたからだ。

 不思議な安堵感に包まれて、肩から力が抜ける。同時に、マイトはわかっているのか知りたくなった。


「粉塵防止用のマスクは、冒険者の店を探せば売ってる。あんたは医者じゃなく、そっちに行くんだね」


 嫌みったらしいドワーフの言葉は聞き流し、とにかくが解決したことを喜ぶ。


「マスクを試して、あとは水分補給で喉が乾燥しないように注意すること。それでも咳き込むようなら、もう一度診療所に来い。何か病気の可能性もないわけじゃない」

「わかった、そうする。ありがとう、ミスミ。それにティオ!」


 シフルーシュは笑顔で診察の礼を言った。もちろんドワーフの看護師は無視して。


※※※


「次の方、どうぞー」


 カンナバリの呼びかけに応じ、おずおずと診察室に入る。

 待ち構えていた視線を浴びて、まるで矢に射抜かれたようにダットンは身をすくめた。


「遠慮せず、座ってください」


 ティオのやさしい声にうながされて、ためらいがちに診察席に浅く腰を下ろす。対面のミスミと顔を合わせないように、体向きをわずかにずらしておいた。


 ――しばし沈黙が下りる。ダットンからの発言を待っているのだろうが、言葉が渇いた喉に張りついて声にならない。ミスミの鼻のつけ根にしわが寄るのが、横目に見えた。


「何か相談があったんじゃないのか?」


 業を煮やしたミスミが、話のきっかけを投げてくれた。


「え、ええっと……」目線が激しくブレる。「じ、じじ実は……」


 どうやっても相談内容を口にすることができない。告げなくては話にならないとわかっていても、語るべき悩みが情けなさすぎて羞恥心が上回ってしまう。


「話しにくいなら、席を外そうか?」左右に飛び回る目線の行方を、ミスミは何気なく追っていた。「仲の良い嬢ちゃんになら、話せるだろ」

「ギャ逆!」


 ダットンは首が取れそうなほど激しく振った。あまりに強く振りすぎて、首の筋を痛めてしまうほどに。

 逆――つまりティオには聞かせたくない話だった。どうも腑に落ちない様子であったが、ダットンの言い分を聞き入れてくれる。

 ひとまずティオとカンナバリは診察室を出て、部屋には男二人だけとなった。


「これで話せるか?」ボサボサ頭をかいて、ミスミはほんの少し声をやわらげる。「これでも医者の端くれだ。秘密は口外しない」


 ためらいが消えたわけではないが、気分はいくらか楽になった。短い深呼吸を繰り返して、早鐘を打つ心臓を落ち着ける。


「えっと、その実は……む昔から、その、ね、寝てるとき、あれが……あれして」

「もうちょっとわかりやすく説明してくれ」


 ダットンは勇気を振り絞って、内緒にしていた秘密を打ち明ける。


「も、もも――」

「桃?」

「も、もらすんです、時々。おね、おねしょ……」


 はじめて他人に、自身の不名誉な性質を伝えた。恥辱に襲われて、顔から火が出そうだ。

 できるならば一生秘密にしておきたかったが、冒険者という業種はそれを許してはくれない。

 ――ダンジョン深くに潜るようになると、必然的に長い時間地下ですごすことになる。場合によっては、泊りになるときもあるだろう。遅かれ早かれ、仲間に知られるのは確実だ。もちろんティオにも。


 極端に背を丸めたダットンは、顔にたれた長いくせっ毛の隙間からちらりとミスミを覗き見た。


「なるほど、夜尿症か」


 ミスミは驚くことも茶化すこともなく、変わらぬ態度で受け取っていた。医者の矜持か、はたまた単に興味がないだけか――どちらにしても、ダットンとしてはありがたい。

 わずかに顔を上げて、正面を向く。まだ目線を合わせるのは怖いので、無精ひげの伸びたアゴに意識を集中した。


「頻度はどれくらいなんだ?」

「そ、その、二日……つづいたり、い一か月以上なかったり。まちまち……です」

「予測できるもんでもないしな。しかたない」


 ミスミは苦笑しながら、かすかに目を揺らす。いつも人の視線を気にして生きているダットンは、他人の目の動きに敏感だった。困っていると、すぐに悟る。

 幼い頃からおねしょに効くと言われる薬草や民間療法を試してきたが、効果を実感することなくいまに至っていた。ミスミであっても治療が難しいだろうと、最初からわかっていたことだ。


「夜尿症は――ホルモンバランスの乱れに心理ストレスの影響、自律神経の異常や睡眠障害といった複数の原因が絡まって起きる症状だ。生活習慣の改善が有効とされているが、規則正しいとはほど遠い冒険者には酷な話だよな」


「だったら……ど、どうすれば」

「俺には手の施しようがない。オムツとまではいかなくてもパンツに詰め物を仕込んでおくとか、眠る前は水分を控えて、なるべく排尿を済ませておく程度のありきたりなアドバイスくらいしか言えないな」


 若干申し訳なさそうに、ミスミは首をかしげた。

 ダットンは落胆して、深く肩を落とす。期待値は低かったが、それでも心のどこかで解決策を授けてくれることを願っていた。


「まあ、あまり気にしないことだ。おねしょなんてものは、誰の身にも起きることがある災難にすぎない。かくいう俺も、飲みすぎた翌日にやっちまった経験がある。こんなことでバカにするような仲間だったら、さっさとパーティを抜ければいいんだ」

「ぬ、抜けるなんて、とても……」


「すぐに新しいパーティが見つかるだろうさ。お前さんは自分に自信がないようだが、俺に言わせると、そこらの魔術師なんかよりよっぽど上等な存在だぞ。マヒ魔法を使えるのが、どれだけすごいことか自覚したほうがいい。冒険者なんかにしておくのはもったいないくらいだ」


 こんなにもストレートに褒められたことはなかったので、ダットンは戸惑い頬をひきつらせる。半信半疑で、大真面目な顔をした医者を上目遣いに見た。


 田舎の村で祖父に魔法を習ったダットンは、正規の教育を受けた魔術師にコンプレックスを抱いていた。習熟魔法は村の生活に役立つことを優先したものばかりで、一般的な基礎魔法がいくつも欠けているのだ。元々内気な性格であったが、ダンジョン街に来て人見知りが加速したのは、このコンプレックスが大きい。

 マヒ魔法に関しても、村で家畜を絞める際、暴れないように鎮めることが目的でおぼえさせられたものだ。ミスミは賞賛してくれるが、自ら選び取ったわけではないので、これが自信につながることはなかった。


 魔術師として、異端寄りの存在だと誰よりもわかっているつもりだ。でも――いや、だからこそ、ミスミが認めてくれたことはうれしかった。たとえ治療行為の延長戦にあるウソやおだてであっても、敬意を表した言葉が胸に沁みる。


「とりあえず、こっそりマイトにだけは事情を説明しておくといい。あいつはバカだけど、悪いヤツじゃない。ちゃんとわかってくれるだろう」

「はい、そうします……」


 問題は何一つ解決していないが、ほんの少し心は軽くなった。そもそも一朝一夕で治療できる病気などないのだ。

 ダットンはこの日はじめて目を合わせると、首を沈めるようにして頭を下げた。

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