<3>

 ミスミは放心状態で、待合室の長椅子に座り込んでいた。その隣で、精も根も尽き果てたティオもぐったり身を預けている。


 思い返すと、ダンジョン潜りに参加して以降、ずっと動きづめだった。疲労はピークに達して、息をつくことさえ億劫だ。それなのに、不思議と眠気は感じない。まぶたはひどく重いのに、なぜか寝入る気になれないでいる。

 分娩に立ち会った興奮が、いまだに消えることなく頭に渦巻いているからだろうか。はじめて人を切った感触は、まだ指先に残っている。


「今回は本当まいったよ……」ミスミが虚空を見つめて、ぼそりと言った。「まったく役に立てなかった。まだまだ俺も未熟だな」


 気遣う言葉が脳裏をよぎるが、ティオは口にしなかった。単純に面倒であったことも確かだが、珍しくうなだれたミスミの姿をもう少し見ていたいという気持ちが湧いていた。

 興奮によって感性がおかしくなっているのか、それとも普段隠れている意地悪な心が顔を覗かせたのか――自分自身も判別できない。ただ胸に芽生えた小さな優越感は、ティオを満更でもない気分にさせる。


「それにしても、嬢ちゃんはたいしたもんだった。よく切開して赤ん坊の通り道を広げるなんて方法を思いつけたな」

「……どうしてあんな大胆なことができたのか、自分でも不思議です。必死になりすぎて、変なスイッチが入っちゃったのかもしれません」


「今度から、妊婦が来たら嬢ちゃんに任せることにしよう。なんだったら、ティオ産婦人科医院でも開いてみるか?」

「やめてくださいよ。あんな危ない橋を渡るのは、もうごめんです」


「違いない」と、ミスミは細かく肩を揺らして笑う。

 からかわれているのだろうか?――ティオはふてくされて、抗議の視線を投げかけた。


 そのとき、ミスミの横顔越しに見えた診療所の扉が、ふいに勢いよく開かれた。青ざめた顔の若い男が、文字通り転がり込んでくる。

 いきなりのことに、ティオもミスミも目を丸くした。この状況で急患だとしたなら、肉体的に対処は難しい。


「すッ、すんません。ここに女房が運ばれてきたと聞きました!」


 男の後につづき、冒険者が入ってくる。

 いつの間にか姿が見えなくなっていた冒険者は、町中を駆けずり回って女の旦那を捜していたらしい。なりゆきで関わることになったというのに、底抜けに人がいい。


「そこの手術室にいる。赤ん坊といっしょにな」

「産まれたんだ……」男の顔が歓喜に包まれていく。「やった!、よくやった!!」


 飛び上がって喜びを表現する男は、そのまま弾むような足取りで手術室に入っていった。奥から、産まれたばかりの娘の父を歓迎する泣き声が聞こえる。

 あの母子を救えた事実を、このときになってようやく実感することができた。安堵が胸を締めつけ、油断すると泣いてしまいそうだ。


「お手柄だな、ティオ」


 ミスミの優しい声が、ゆるんだ涙腺を刺激する。じわりとにじみ出した涙の欠片は、火傷しそうなほど熱い。


 そこに、一旦店に戻っていたメリンダが診療所に再び顔を見せる。「お疲れさん、どんな様子だい?」

 意識が彼女に向いたことで、どうにか涙が引っ込んでくれた。ミスミの前で泣かずにすんだことに、心のなかで感謝した。


 鼻をすすり、改めてメリンダに視線を送ると、その手に鍋を持っていることに気づく。立ち昇るやわらかな湯気と共に、食欲をそそる香ばしいにおいが漂ってきた。


「腹減ってるだろ。銀亀手の特性スープだ、遠慮なくやっとくれ」


 年長者だというのにメリンダに疲れの色は見えない。この場にいる誰よりもタフだ。


「ありがたい。お腹ペコペコだったんだ」

「さあ、好きなだけ飲みな」スープをカップに注ぎ、一人ずつ手渡していく。「あんたも、どうぞ。ここのヤブ医者は気が回らなくて、いろいろ大変だったろ。まったく災難だったねぇ」


 カップを受け取った冒険者は苦笑し、「いただきます」と一言添えて、ズルズルと音を立てて一気にスープを飲み干した。

「ありがとう、おいしかった」冒険者は口元を拭うと、軽く頭を下げる。「それじゃあ、俺はそろそろ……」


 引きとめる理由はなかったが、ここにきて大事なことをティオを思い出す。半ば強制的に協力してもらったというのに、まだちゃんとしたお礼を伝えていなかったのだ。


「今日はありがとうございました。本当に助かりました。なんとお礼すればいいか――」

「礼なんていいよ。当然のことをしたまでだ」

「でも……いや、そうですね。あまり押しつけがましいのはよくない。よかったら、お名前を教えてくれませんか?」


「ディケンズ・オーバー」

 名を告げると、冒険者ディケンズは会釈して去っていった。


 その後ろ姿を見送ったミスミは肩をすくめて、フッと短く息をつく。「絵に描いたような好青年だ。冒険者にもまともなヤツがいるんだな」


「そりゃあ、いるだろうさ。医者にもいい加減なヤツがいるようにね」

「それ俺のこと? ひどいな、別にいい加減なわけじゃないぞ」


 メリンダは薄笑いを浮かべると、ちらりと手術室に目をやった。妻をねぎらう夫の声が、途切れ途切れに聞こえる。


「いい年して独り身なのは、いい加減な証拠だ。あんたは結婚する気ないのかい。あの夫婦を見て、うらやましいと思ったりしない?」


 興味津々で耳をかたむけながら、ティオはカップに口をつける。野菜のダシに塩を利かせたやさしい風味のスープが、空きっ腹にじんわり染み込んでいく。


「故郷に残っていたら、そういうこともあったんだろうけど、いまは考えられないな。第一相手がいないし」

「そこにいるじゃないか。お嬢ちゃん先生、この枯れた男をもらってあげなよ」


 あくまで冗談めかした言葉であったが、驚きのあまりスープが気管に誤って入り、ティオは激しくむせた。


「おい、大丈夫か?」体を折って咳き込むティオの背中を、ミスミが優しく撫でてくれる。「変なこと言うなよ。ほら、こんなに嫌がってるじゃないか」


「別に嫌とは……」

 荒れた呼吸の合間にこぼした小さな声は、どうやら届かなかったようだ。咳が落ち着き顔を上げたティオと、目が合ってもまったく様子は変わらない。

 安堵する気持ちと、ちょっぴり残念な気持ちが、同時に沸き起こり胸の奥で混じり合う。


「いつか、あたしがいい女を見繕ってやるよ。それまで待ってな」メリンダはどこか楽しそうに言った。「まあ、いまはとりあえず――この特製スープを、赤ちゃんのためにも栄養が必要な新米ママに振る舞ってやろうかね」


 鍋を抱えなおすと、メリンダは軽やかな足取りで手術室に向かった。本当にタフな人だ。

 待合室に残された二人はどちらともなく苦笑をもらし、温かなスープに口をつけた。喉の奥に流れ込む優しい味を、思う存分堪能する。

 そうしてカップの底が見えた頃に、ぽつりとミスミが言った。


「問題なのは俺じゃないよな。嬢ちゃんのほうだ」

「何がですか?」


「さっきメリンダが言ってたことだ。結婚はまだ早いとしても、男と付き合ったことがないってのは問題だぞ。若い娘がそれでいいのか。あんまり仕事や冒険にかまけてないで、たまには遊んでこいよ。いい仲の男はいないのか?」


 不覚にも口にしてしまった恥ずかしい告白を、ミスミはしっかりとおぼえていた。頬が熱くなっていくのがわかる。


「そんな相手いません」

 そっぽを向いて、小さなトゲが詰まった声を返す。


「さっきの冒険者なんて、いいんじゃないか。いいヤツだし、ツラもそこそこ悪くない。今度会ったとき、お礼代わりだってデートに誘ってみれば」

「困らせるだけですよ。私はいいんです、いまは仕事が楽しいですから」


 ミスミは嘆息して、ボサボサ頭をかいた。呆れ混じりの意地悪な視線が、うなじに投げかけられる。


「仕事が恋人ってやつか。まったくしょうがないな、いざとなったら俺が――」


 ドキンと胸の鐘が痛むほどに強く鳴った。ティオは動揺によって、胃袋がキュッと締めつけられるような感覚を味わう。

 こわごわと顔を向けると、疲労と眠気によってとろんとした半眼とかち合った。


「――俺が、いい男を捜してやるよ」


 ティオは長椅子からずり落ちそうになった。ちょっとでも期待した自分がバカだった。


「ミスミ先生って、そういうとこありますよね。絶妙に肩すかしを食らわせる」

「なんだよ、それ」

「別にいいんです、わかっていました。ミスミ先生はそういう人だって」

「おい、もっとわかるように説明しろ。こういうちぐはぐな問答が一番ムズムズする」


 ティオは無視して、窓の外に目をやった。気づけば空の端が白みはじめており、夜明けが近いことを報せている。

 思いがけず長い夜となった。ミスミの不満の声を聞き流しながら、ティオは背もたれに寄りかかり、静かにまぶたの幕を下ろすのだった。


※※※


 出勤したカンナバリは診療所の扉を開けた瞬間、ギョッとして立ち尽くした。

 前日仕事終わりに清掃したにも関わらず、待合室がずいぶんと荒れていたのだ。ふと長椅子を見ると、互いを支えに寄り添って眠るミスミとティオの姿がある。


「いったい何が……」


 ぽつりとつぶやいた疑問に答えるように、手術室から赤ん坊の泣き声が聞こえた。

 混乱した頭に、状況から連想される事情が組みあがっていく。大体のことを察したカンナバリは、足早に更衣室に入ると手早く白いワンピースに着替えた。

 毛布を寝こけた二人にかぶせて、腕まくりをする。


「さあ、今日は忙しくなりそう」

 長い夜がすぎさり、新しい一日がはじまる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る