<2>

 メリンダ・レイは六十代を迎えたいまもなおバイタリティに満ち溢れ、現役バリバリで働く酒場の女将であった。雨が降ろうが槍が降ろうが毎日店に立ち、厄介な酔客を手際よくあしらっている。


 酒場が軽食を扱っていることもあって、ミスミもよく世話になっていた。味は特別いいわけではないが、とにかく値段が安いので重宝している。


 ちなみに店の名称である『銀亀手の酒場』は、亡くなったメリンダの旦那が元冒険者で、ダンジョン探索中に発見した銀製の亀の手を売った金を元手に酒場をはじめたことからきている。どこぞの英雄とは無関係だ。


 そのメリンダが突然押しかけてきた理由は、「外まで声が響いてんよ。いったい何を騒いでいるんだ?」


 ミスミとティオは顔を見合わせると、原因について視線を送る。

 つられてメリンダが目を向けた先には、苦悶に顔をゆがませた若い女がいた。腹の膨らみを見て、大体の事情は察した。普段ろれつの回らない酔っぱらいの支離滅裂な話の相手をしているだけあって、言葉がなくとも理解が早い。


「なんだい、えらいときに顔を出しちまったね。あたしンことは気にせず、パパッと楽にしてやんなよ」

「いや、そう簡単にはいかないんだ。俺も嬢ちゃんも赤ん坊を取り上げた経験がない。どうすりゃいいのかわからないから、手の出しようがなくて困ってる」


「役に立たない医者だねェ。人様の体いじくってオマンマ食ってんなら、それくらいできないでどうする」

「これは医者の仕事じゃない――とは言いきれないけど、とにかくムリなもんはムリだ。専門の知識がないのに、下手なまねはできない」


 メリンダは呆れ顔でため息をつき、いびつに口を曲げた。塗りたくった化粧で隠したほうれい線が、くっきりと浮き出る。


「案外頭固いところがあるんだな、ヤブ先生は。やってみないことには、うまくいくかどうかわかんないだろ」

「人の命がかかってるんだ。無茶はできない!」


 生半可な判断で事を運べば、子供も母体も危険にさらす可能性がある。だが、そうも言っていられない状況が差し迫っていることも確かだった。

 若い妊婦はうなり声を上げて、襲いくる陣痛を必死に耐えている。ガクガクと震えるを体を自らの腕で押さえつけ、きつく噛んだ唇からうっすらと血が滴っていた。


「ミスミ先生、早く処置しないと!」


 ティオに言われなくとも、充分に承知している。もはやカンナバリを呼びにいく時間もないほどに、一刻を争う容態であることは認識していた。

 それでも二の足を踏むのは、男だからだろうか。出産に対して、男はとことん弱い生き物のようだ。


「ああ、もうしょうがない。ここで関わったのも何かの縁だ、あたしが人肌脱ぐか」


 メリンダが腕まくりをしながら、立ちすくむミスミを押しのけて進み出る。


「ちょっと待った。出産に携わった経験はあるのか?」

「あるよ」メリンダは自分の腹をポンと叩く。「ここから四人、ひり出した。ずいぶんと前のことだけど、やり方は大体わかってる」


 それを経験に入れていいものやら。止めるべきか迷っているうちに、メリンダは落ち着いた様子で妊婦に寄り添い、汗で額に張りついた前髪をやさしく払っていた。

 助けを求めるうるんだ目に、楽天的な笑顔を返す。少しは安堵したのか、妊婦の表情がわずかにやわらいだ。


「とりあえず、場所を移そう。この子が横になれるところはない?」

「それなら手術室に行きましょう。ベッドがあります」


 言葉に詰まったミスミに代わり、ティオが対応する。頼りにならない男にできることは、指示されるがままに妊婦を運ぶ力仕事だけであった。

 すでに主導権はメリンダが握っていた。ミスミの手から方針を決める舵は奪われ、もう口出しするのは難しい。


「ヤブ先生はありったけのタオルを持ってきておくれ。それにヒモなんかもほしい。後はハサミでもナイフでもいいから、へその緒を切る物。ああ、お湯を沸かすのも忘れずに。いくらあっても邪魔にはならないんだ、たっぷりと用意して」


 矢継ぎ早に浴びせかけられる注文に、右往左往しながら応じる。診療所を走り回り、頼まれた品をかき集めていく。

 焦りはしたが、体を動かしていると気持ちはいくらか楽になった。頭の中に鎮座していた混乱が、汗と共に流れていくのを感じる。


「お嬢ちゃん先生は、あたしの手伝いをしてもらうよ。あんたは女だ、体のつくりは同じなんだからやることは本能でわかるだろ」

「や、やってみます!」


 ひとまず必要な道具を揃えて、お湯を沸かす合間の待ち時間を利用し、ミスミは手術室に顔を出す。

 妊婦は手術ベッドに寝かされて、足をM字に開脚した状態で維持されていた。陣痛は一時的に治まったようで、いまのところ落ち着いている。


 ミスミは様子を見ようと下半身側に回ろうとしたが、ティオに睨まれて足を止めた。ティオがこんなふうに鋭い視線を投げつけるのも、それにミスミが臆したのも、はじめてのことだった。出産に関しては、とことん身の置き場がない。


「えっと……」おそるおそる声をかける。「その、大丈夫そう?」

「ヤブ先生は気にしすぎ、妊娠ってのは病気じゃないんだ。心配するなとは言わないけど、心配しすぎる必要はない」


「それはわかってるんだけど――」

「女ってのはね、その気になれば一人で産むことだってできる。あんまり女を舐めるなよ」


 ミスミはたじたじになって、思わず後ずさる。舐めてもいないし、強さも嫌というほど思い知らされた。むしろ尊敬すらしている。それはそれとして、怖いとも。

 今日にかぎっては、女の戦場と化した手術室で男のミスミは一番下っ端だ。ティオとも普段と立場が逆転している。


「ミスミ先生、白湯を用意してください。横着しないで、沸騰してから冷ましたやつですよ」

「了解しました」


 ミスミは素直に応じて、炊事場に走った。

 そこからしばらく、陣痛の波はいくどか訪れるも出産に至ることなく時間だけがすぎていった。ふと窓の外に目をやると、薄雲越しの淡い月の光が真上からもれているのが見えた。


 当初はすぐにでも分娩しそうな印象を受けたが、思いのほか長期戦となっている。

 これなら、いまからでもカンナバリを呼んで本物の産婆を連れてきたほうがいいのではと考えはじめた頃――予兆なく、唐突にそのときはきた。


「子宮口が開いてきました!」


 ティオの口から、興奮して上ずった声が発せられる。

 事態を確認しようとして、寸でのところで止まった。ティオにこちらを気にしている余裕はなかったが、無神経に覗き込むのははばかられた。

 実況中継よろしく、立ち会う女達の会話から状況を察するしかない。


「そろそろだね」メリンダが妊婦の手を握って応援を送る。「なるべく力まないように注意して、ヒッ・ヒッ・フーと声にして呼吸するんだ」


 いわゆるラマーズ法だ。世界は違えど出産時のサポート方法は、同じ形にたどり着いたということか。興味深い事案であるが、いまは気にかけている余地がない。


 妊婦は言われたとおり、「ヒッ・ヒッ・フー」と呼吸する。

 タイミングを合わせてメリンダも声を重ね、それにならってティオも口にする。手術室に女三人の「ヒッ・ヒッ・フー」が響き渡った。


 状況的にミスミも合唱に加わるべきなのかもしれないが、迷った挙句に参加は見送った。単純に照れくさかったからだ。結果としては、ミスミが加わる必要性はなかったようだ。

 しばらくつづけた末に、ラマーズ法の効果があらわれる。


「出てきました、あっ――」開脚姿勢の局部に顔を寄せていたティオが、目をむいて絶句した。「これ、お尻です。赤ん坊がお尻のほうから出ようとしています!」


「逆子か?!」

ミスミはゾッとして、身震いする。


 本来胎児は、母親の胎内で頭部を下に向けた状態でいることが“正常”とされていた。これは産道を通る際、頭部から這い出ることで、引っかかりが少なくスムーズに出産を成就させるためという説がある。

 下半身が下を向いた状態であるは逆子は、引っかかりが多く出産が困難になるケースが多かった。当然ながら死産率にも大きく関わる。


 前もって逆子であると判明していたなら、事前に正位置に戻るように調整することはできたかもしれない。たとえ戻らなかったとしても、対処法を準備しておくことは充分に考えられた。しかし、この世界にはエコー検査もなければ、明確な手引書があるわけでもない。気づけなかった以上、もはやどうすることもできないのだ。


「ミ、ミスミ先生、どうすればいいでしょう……」

「急にそんなこと言われても」ボサボサ頭を乱暴にかきながら、ちらりとメリンダに目線を送る。「何か手はないか?」

「悪いね、あたしは逆子で産んだことないから、対策なんてわかりゃしないよ」


 ミスミは鼻のつけ根にしわを寄せて、必死に記憶をたどる。頭のどこかに産科の見聞はないものかと、医療知識をひっくり返して探しつづけた。

 その結果、どうにか絞り出したのは、「帝王切開しかないかもしれない」


「ていおうせっかい?」ティオが怪訝そうに意味をたずねる。

「腹部を開放して直接赤ん坊を取り上げる方法だ。ただ現在の状況だと、かなり難しいな」


 切開する場合は麻酔が必要だが、マヒ魔法を使えるダットンを呼びにいく時間がない。もしいたとしても、マヒ魔法が胎児に与える影響は未知数で、テストなしで実行するのはあまりに危険すぎた。


「早く方針を決めてもらわないと、いろいろまずいことになるよ」


 都合の悪いときだけ、メリンダは方針の舵を投げてよこす。憤りがないと言えばウソになるが、それを表にあらわしている時間もなければ余裕もない。

 ミスミは眉をひそめると、脂汗でびっしょりと濡れた妊婦を見て、次に不安げに決断を待つティオに目を向けた。


「このままだと母体も危ない。子供は諦めよう」


 苦渋の選択であるが、しかたないことだった。両方を救えないとなれば、母体を優先するものだ。


「いやだ! あの人の子なの、わたしはどうなってもいいから子供を助けて!!」


 妊婦の悲痛な叫びが耳に痛い。彼女の想いは理解できても、医者として応じるわけにはいかなかった。

 半狂乱となって身をよじり暴れる妊婦を、メリンダが懸命に押さえ込む。爪を立てた指が、頬をひっかき三本の赤い線を刻んでいた。


「気持ちはわかるけど、こればっかりは――」

「そうですよ、まだ諦めるのは早いです!」


 メリンダの声をかき消すように、ティオが大声で訴えた。迷いのない眼差しを、困惑を浮かべたミスミに向ける。

 気持ちばかりが先立って、考えなしに意見したわけではなさそうだった。普段の頼りない医術者の顔ではない、覚悟を決めた医者の顔であった。


「いい案を思いついたのか?」

「赤ちゃんが通れるように、少し切れ込みを入れます。赤ちゃんを取り出して、すぐに再生魔法で治療したら、損傷は最小限に抑えられると思うんです」


 それは、ミスミが考えつかなかった手法だった。言われてはじめて会陰えいん切開と呼ばれる治療を思い出したくらいだ。

 会陰切開は――分娩時子供が会陰(外陰部から肛門にかけて)を通る際に裂傷が起きる場合があり、前もって切開することで縫合しやすくする手術法であった。逆子に対しての効果いかんは記憶をあさってもわからなかったが、聞いたかぎりでは解決策として妙案に思えた。


「できそうか?」


 ティオは一瞬ためらいを浮かべたが、意を決すると大きくうなずいてみせた。


「やってみます。やらせてください! モンスターと戦うために斬ることはできないけど、命を助けるためなら切ることはできます!!」

「そいつは俺に言うことじゃないだろ」ミスミは視線を滑らせて、動揺する妊婦と目を合わせた。「リスクのある方法だが、賭けてみるかい?」


「お願い、やって。この子が助かるなら、わたしの体を切り刻んでもかまわない!!」


 これ以上不安にさせまいとミスミは笑顔を浮かべて、穏やかな声色で言った。

「わかった、任せてくれ」


 念のために用意しておいた、消毒済みの手術用ナイフをティオに手渡す。

 受け取った手は緊張に震えていたが、二度三度と深呼吸を繰り返して心を落ち着かせると、慎重にナイフを局部にあてがった。

 集中力を高めて、そっと会陰に切れ込みを入れる。血しぶきが顔にかかっても、瞬き一つしなかった。


 物理的に広がった外陰部の奥から、赤ん坊の尻がわずかに出てきた。すかさずメリンダが手を添えて、多少強引に引っ張り出そうと力を込める。

 妊婦の叫び声が響くなか、尻が完全に外へ露出すると、後はこれまでの苦労がウソのように、するりと全身が抜け出た。メリンダは産まれたばかりの赤ん坊を片手に抱えながら、器用にへその緒を木綿ひもで縛る。


「あっ……」


 ミスミは言葉を失い、憂いに顔を歪ませる。しわくちゃの青黒い肌をした赤ん坊は、ぴくりとも動かなかった。あるべきはずの泣き声も聞こえてこない。難産の影響は、小さな体にあまりにも負担が大きかったのだ。


 動転した男を尻目に、女達は行動をつづける。

 ティオは迷うことなく再生魔法を唱えはじめ、メリンダは赤ん坊を産湯につけて優しい手つきで洗いながらマッサージをしていた。


 やがて、かすかなむせる声が聞こえた。パシャパシャと湯が波打つ音に混じって、咳き込むような小さな声がする。

 そして、唐突に弾けるような大きな泣き声が響いた。肌の色は赤みを差し、体をもぞもぞと動かしている。


「おめでとう、元気な女の子だよ!」


 メリンダは手早くタオルで赤ん坊を包むと、母となった女に差し出す。彼女は産まれたばかりの娘に頬を寄せて、美しい涙を一筋こぼした。


「産まれてくれて、ありがとう……」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る