<3>

 ミスミは肩に張りついた凝りをほぐすために、ぐるりと首を回す。のしかかっていた疲労感が、心持ちまぎれたような気がする。

 ティオが持ち帰ったメモ書きのノートに目を通しはじめたのが夕暮れ頃だった。気づくとすっかり夜闇が落ちて、くすんだ窓越しに淡い星の輝きが差している。


 細かく書き記されたメモの羅列をどうにか読み終えて、カンナバリが淹れてくれたお茶を口にした。すでに冷めていた茶が、空きっ腹の胃袋に染み込んでいった。


「まだいたのか……」


 診察室を出ると、待合室の硬い木椅子でティオが眠りこけていた。よほど疲れているのか、起きる気配はない。大口を開けて、よだれをこぼし、微かにいびきも聞こえる。腰にずり落ちた毛布は、おそらく先に帰ったカンナバリがかけていったものだろう。

 このまま寝させてやろうかとも思ったが、椅子では疲れが取れないと考え直す。


「おい、嬢ちゃん起きろ」肩を軽く揺する。「こんなところで寝てると風邪をひくぞ」


 何度目かの揺さぶりで、ティオはようやく目を覚ました。寝ぼけ眼をパチクリまたたかせて、ぼやけた意識を向けてくる。


「寝るなら家に帰って寝ろ」

「え、はあ……」


 しばらくミスミを眺めていたが、ハッとして体を起こす。次の瞬間、ボキボキと伸びた背骨が騒々しく鳴った。痛みをともなったらしく、赤らんだ顔に苦悶を浮かべていた。


「そんなところで寝てるからだ。早く家に帰って、ベッドで横になれ」

「はい、あの、それでノートのほうは?」


 疲労よりも実地調査の成果が気になるようだ。身を乗り出したティオの目に、不安と期待が入り混じる。


「読んだ」

「えっと、役に立ったのでしょうか?」


 ミスミは少し迷った。結果としては、当初の予測を補強する材料にはなった。だが、実地調査が行われなかったとしても結論は変わらなかったことだろう。調査隊が新たに記した地図を確認すれば、十分な情報はえられた。

 沈黙が延びるごとに、瞳の不安が大きくなっていく。ミスミは心のなかで、こっそりとため息をついた。


「役に立った」

「本当ですか?」


「本当だっての。疑うな」ボサボサ頭を乱暴にかきながら、さりげなく目をそらす。「とにかく、今日は帰って休め。冒険者の真似事で疲れてんだろ、明日まで――いや明日も来なくていい。明日一日ゆっくり養生して、疲れを取るんだな。それと、活性化魔法を自分にかけるのも忘れるなよ」

「はい……」


 ティオはかすれた声でつぶやくと、しょんぼり肩を落として帰っていった。

 褒められたかったのだろうか。それとも、成果を実感したかったのか――悪いことをしたという気持ちは少なからずあったが、どうしようもないという気持ちが上回る。

 やるせない思いに押し出されるように、今度ははっきりとため息をついた。その音と重なって、ドンと勢いよく診療所の扉が開かれる。


「おい、あのお嬢ちゃんどうしたんだ?」

 やって来たのはダンジョン管理組合のタツカワ会長だ。四角い顔に困惑が張りついている。


「は?」

「そこでお嬢ちゃんとすれ違ったんだが、声をかけたのに無視された。心ここにあらずって感じだったな。もしかして、また素っ気ない態度で彼女を傷つけたのか?」

「そんなんじゃない――それより、冒険者病の原因を聞きにきたんですよね」


 いらぬ誤解を避けるために、手っ取り早く話題を変える。

 どこか不服そうではあったが、タツカワ会長は渋々椅子に腰を下ろした。立場上、本来の目的をないがしろにはできない。

 ミスミは咳払いを一つ打ち、導きだした病理の説明に入る。


「結論から言えば、原因は病原菌だと思います」

「病原菌って、細菌とかウイルスが悪さしてるのか?」

 あまりピンとこないようで、タツカワ会長は不審げに目を細めた。


「おそらくは病原性大腸菌、代表的なもので言えば『O157』なんかがそうですね。名前くらい聞いたことがあるでしょ。数日の潜伏期間を経て発症するから、症状を自覚できない状況にも当てはまる」

「なるほど大腸菌か」本当に理解したのか微妙なところだが、一応は納得してくれた。「しかし、なんでそんなものが急に流行りだしたんだ?」


「ダンジョンの構造が変わったことが要因でしょうね。新しいダンジョン地図を確認すると、地下三階に冒険者が決めた便所と水場がきわめて近い位置にあった。変転前の古い地図では、便所と水場は離れて配置されている。便所に使用できる都合のいい通路が変わったことによって、病原菌が水場に届く確率が増えたわけです」


「いくら近いといっても、そう簡単に伝わるものかな。ダンジョンの壁は案外厚いぞ」

「水場を利用するのは何も冒険者だけじゃない、モンスターだって生物である以上喉が渇けば水場に向かう。感染経路はいくらでも考えられるますよ」


 これが、ミスミが導きだした答えだ。対策法としては、多少不便であっても便所の位置をなるべく離れた場所に変えること。水場の管理を徹底すること。何よりも病原菌の危険性を冒険者に周知させることが重要だろう。


 思いついた対策案をいくつか進言して、今回の仕事は終了。十分な成果はあった、これで堂々と賃金を催促することができる。

 ミスミ診療所は表向きは個人経営の小さな医院にすぎないが、実のところ運転資金はタツカワ会長のポケットマネーでまかなわれていた。会長の私設病院というのが実情だ。スポンサーの要求には答えなくてはいけない。


「それで、お嬢ちゃんの実地調査は役に立ったのかい?」

 原因究明が一段落したところで、タツカワ会長はふいに話を蒸し返した。


 ミスミはわずかに鼻のつけ根にしわを寄せて、そろりと診察室に目をやる。ティオに渡したノートには、言いつけどおり事細かな状況説明が記されていた。ほとんどが慌ててペンを走らせた乱れた文字で、懸命に仕事をまっとうしようとした様子が伝わってくる。女性が記録するには恥ずかしく気まずいであろう、排泄の過程まで耐え忍んで書き記されていたほどだ。

 その真面目で誠実な仕事態度は、素直に好感が持てる。しかし、医者として彼女を受け入れるのは、やはり抵抗があった。


「まあ、役に立ったと言えば立ったかな。なくても問題なかったろうけど」

「お前ってやつは、本当に頑固だねぇ。お嬢ちゃんのこと、少しは認めてやってもいいんじゃないのかい」

「そうはいかない。医術者の彼女を、こんなところで埋もれさせるのは医療の損失だ」

「どういう意味だ?」


 ミスミは視線を揺らして、胸に秘めた想いを一つ一つ言葉にしていく。


「俺は医者を名乗っちゃいるけど、ろくに治療もできないヤブ医者ですよ。ここは俺たちがいた元の世界と違って、診察や手術に必要な機材が揃っていない。ガラクタを集めて、どうにか自作できないかとあがいてみたが、何を試しても無駄骨だった。どうしようもない無能になり下がったということです。こんなヤブ医者の下にいるより、医術者ギルドで腕を磨いたほうが、よっぽど有益だ。あいつのためにも、治療を求める患者のためにも、ギルドに戻ったほうがいい」


「そんなこと考えてたのか。まったくバカだねー」

 肩をすくめたタツカワ会長から、茶化したような返事が投げかけられた。

 真面目な意見だっただけに、ミズミはムッとして露骨に視線を尖らせる。


「あの子はね、自分の意思でこの診療所に来ること選んだんだ。崩落事故のときの医療ミスを悔いて、二度と同じ過ちを犯したくないと、ミスミ先生のところで勉強したいってギルド長に申し出たらしい。確かに先生は治療の手立てがないかもしれない、でも、その頭の中には治療に必要な知識が詰まっている。それを彼女に教えてやればいいのさ。この世界では手術はないが、代わりに魔法があるんだ。君の医療知識と回復魔法が合わされば、きっと医術は格段に進歩するぞ。これは他の誰にもできないことだ」


 思いがけない助言であった。ミスミは考えもしなかったことだ。

 知らぬ間に辿り着いた異世界で、初めて自分にしかできないことを気づかされる。


「だから、あいつがここで働くことを許可したわけか」

「それだけじゃないさ。たまには新しい風を呼び込まないと、人間だってカビちまうもんだぞ」声色こそ軽かったが、珍しく顔つきに大物然とした度量を宿している。「まあ、先生一人がカビるのは勝手だが、お嬢ちゃんまでカビさせるのはかわいそうじゃないか」


 反論しようと口を開くが、言葉は出てこなかった。代わりに、ミスミは腹の底から沸き起こった渇いた笑い声をもらす。

 つられてタツカワ会長も笑いだした。こちらは大口を開けて、「ガハハハ」と豪快に笑い飛ばす。


「なんにしてもだ。ちっとは気にかけてやれ、なあ、

「……考えとくよ」


 ミスミは短く息をついて、そろりと窓の外に目をやった。ここが故郷ではないことを、嫌というほど思い知らされる。そして、もう戻れないということも。

 黒を塗りたくった夜の彼方に、にじんだ二つの月が寄り添うように並んでいた。


※※※


 ダンジョン街の大通りは、今日も冒険者で賑わっていた。夢と希望と、ちょっぴりの不安を抱えて、彼らは迷いのない足取りで進んでいく。


 そんな混みあった道のりに、肩を落としてとぼとぼと歩く一人の女の姿があった。

 目についたのは、場違いに陰気な空気をまとっていたからだけではない。見知った人物であったからだ。

 マイトは軽やかに駆け寄ると、その丸まった背中を軽く叩いた。


「よお、姉ちゃん。どうしたの、元気ないな」


 ハッとして振り返ったのは、戸惑いを浮かべたティオだ。青白い顔で、目の下にクマを張りつけている。


「本当にどうかした? すごい顔色悪いよ」

「マイトくん。えっと、元気だよ……」

 声に覇気もなく、強がる余裕さえもなかった。


「医術者の不養生ってやつ? もしかして冒険者病にかかってる?」


 あのダンジョン調査の日から、二日がたっていた。

 冒険者病の症状は、潜伏期間があるという話なので、少し心配になる。正式なものではないが、一応はパーティを組んだ間柄だ。マイトの中では、すでにティオは仲間として認定されている。

 不安げに覗き込むと、ぎこちない笑みが返ってきた。苦労して作ったものであることは、不自然に上がった口角が教えてくれる。


「本当に元気だよ。うん、体のほうは本当に元気」

「そうは見えないなぁ。ヤブ先生に診察してもらえば。あれでも医者の端くれなんだろ」


 何気なく口にした言葉で、ティオの顔に影が落ちる。どこに反応したかは一目瞭然だ。

 マイトは太い眉を寄せて、眉間に深い一本線を刻む。単純なマイトに人間関係のあれこれを読み解くことはできないが、それでも困って苦しんでいることはわかるつもりだ。


「ヤブ先生と何があったのか知らないけど、嫌ならやめちまっていいんじゃないかな。無理してつづけてもいいことないって、医術者だけが仕事じゃないと思うんだ」

「えっ?」

「たとえば、冒険者なんてどうかな。姉ちゃん、俺とパーティ組まないか。姉ちゃんみたいに優秀な医術者がいてくれたら、どこまでだって潜れる気がするんだ!」


 はじめこそ冗談のつもりで口にしたが、言葉にすると悪くない提案に思えた。むしろ隠れていた自分の欲求が、無意識にこぼれ出たのだと思った。

 沸き起こる興奮に、鼻の穴が膨らむ。医術者とパーティを組むのは、ダンジョン踏破を目指す冒険者として理想的な構図だ。


 しかし、ティオは力なくかぶりを振る。「わたしは、別に優秀じゃあないよ」

 自嘲混じりの謙遜が、マイトを不審にさせた。優秀である確証を持っているだけに、否定の言葉が上滑りする。


 そこはともかく、早くパーティを作って冒険に出かけたい身の上としては、事情に深入りしようとは思わなかった。多少なりとも迷っているふうに見える。いまは押しの一手で勧誘をすべきと、あまり考えることが得意でない頭が直感的に判断した。


「姉ちゃんなら、絶対にうまくやれるよ。誰もつかめなかった冒険者病の正体を見極めた推察力は、きっと冒険にも役立つ」

「それ、どういうこと?」


 ちぐはぐなやり取りに疑問を感じたが、マイトは気にせず話を進める。考えることが得意でない頭が、差しさわりはないと判断した結果だ。


「どうもこうも、管理組合の事務所に冒険者病の対処法が張り出されてた。あれは姉ちゃんが考えたんだろ。考案者として、姉ちゃんの名前がちゃんと表記されてたよ」

「わたしの名前が……?」


 その顔に困惑が浮かび上がる。が、何やら思い当たる節があったのか、困惑は次第に疑念に変化していく。

 そして、落ち着きなく目を揺らした末に、青白い頬にうっすらと赤みが差していった。


「ごめん、無理――」


 喉につっかえていたものを吐きだすように、ティオは体を振ってぼそりと言った。

 マイトは意味がわからず、キョトンとして首をかしげる。


「わたしは冒険者にならない。ダンジョンに挑戦したいとは思えないし、そもそも争うことが苦手だから冒険者の素養がないと思う。何より、医術者の道をまだあきらめたくはない。地上ここで、わたしはがんばっていきたいんだ。マイトくんがダンジョンに挑みたいように」


 どう返答すればいいのか戸惑ったが、「そっか」と一言どうにか返した。

 その意志が固いことは、生気がよみがえった目を見ればわかる。自分が勧誘方法を間違えたということも。


「わたし、そろそろ行くね。ミスミ診療所に行かないと」

「うん、じゃあね。また機会があったら、いっしょうに冒険しよう」


 ティオの唇がわずかに開きかけるも、声がこぼれることはなく、どこか吹っ切れたような微笑にとどまる。行きあったときと違い、しっかりとした足取りで冒険者の人混みにまぎれていった。


 遠ざかる背中を見送り、マイトはつぶやく。

「よし、俺もがんばるとするか」

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