第26話 満月の夜に悪魔が哭く
「これは……違う、病気なんかじゃない!」
浮かび上がったリーリアを見て、僕は全てを悟った。これは悪魔憑きだ!
肉眼ではリーリア一人で空に浮かび上がったように見える。でも、起動させた僕の砂の目は確かにその魔力の形を捉えていた。リーリアのお腹の中から、二本の角を持った
『!!!!!!!!!!!!!!!!!』
この世のものとは思えないような叫び声が部屋中に響き渡る、と同時に、部屋の物がまるで意思を持ったかのように飛び回った。僕はリーリアへの集中力を切らさないようにしながら、辛うじてそれを避ける。
(これはカレット先生の手に負えるもんじゃない!)
このままではリーリアはもちろん、カレット先生の身も危ない。僕は何とか余剰魔力を絞り出して魔法を行使しようとした。しかしその時、僕の肩に師匠の手が置かれる。
「止めるんだ」
「どうして止めるんですか師匠!」
「まだだ。まだカレット先生は自分の意志を示していない」
僕には師匠の言わんとしていることが全く理解できなかった。それでも、僕は奥歯を噛み締めて魔法の発現を止める。
僕はカレット先生を見つめる。カレット先生はその場にへたり込んだまま、呆然とリーリアを見上げていた。
◇
ああ、またあの時と同じだ。
それでも、
(立ちなさい! 私がリーリアを助けるの! ライルの時のように死なせたりしない!)
脳内で己を叱咤し、私は何とかその場から立ち上がる。でも、それだけだった。私は浮かんでいるリーリアに対して治療することも、地面に降ろしてあげることすらできない。私は……無力だ。
リーリア。私の可愛いリーリア。ライルを失った今、リーリアだけが私の心の拠り所だった。ここでリーリアを失ったら、私はもう生きていけない。私は、私は一体どうしたら……。
「先生!」
その時、背後から子供の声が聞こえた。振り向くとそこには二人の魔法使いの姿。カルストはじっとこちらを見つめ、ミョシュア君は何かを訴えかけようとしている。
思わず声が出そうになった。それでも声が出ずに喉が張り付く。ここで彼らに助けを求めてしまえば、きっと私はもう医者を続けることができない。そうなったらこの村は誰が守れるのか。
(――違う、そうじゃない。今はそんなこと問題じゃない! いちばん大切なのは……)
私はリーリアを助けたい。リーリアが私の全て。リーリアを助けるためなら何だって捨ててやる! そう考えた瞬間、さっきまでが嘘のように声が出た。
「お願い……あの子を、リーリアを助けて!」
◇
「師匠!」
「おうさ! やるぞミョシュア!」
すかさず師匠が片膝をついて両手を床に付けた。すると部屋の床全体に紫に光る魔法陣が現れる。師匠の転移魔法だ。
魔法陣の光が強くなり、僕は右腕で目を覆った。光が収まり腕を下ろすと、僕達は地下室からどこかの花畑に移動していた。いや、僕はこの場所を知っている。ここは、僕とリーリアが会っていた場所だ。
開けた夜空から満月の光がリーリアに降り注ぐ。その光が、リーリアの体に取り憑いている者の姿を浮かび上がらせた。
体表は毒々しい紫色。二本の尖った角と鳥に似たくちばしを持ち、真っ赤に光る目が僕達を睨みつけている。耳まで裂けた口端からは、粘性の強い液体がだらしなく滴り落ちていた。こいつが、ずっとこの村に巣食って村人を殺していた悪魔の正体だ!
「グググ……ガアアアァァァァアアァ!」
「先生、危ない!」
悪魔がカレット先生に向かって飛び出した。僕は慌ててカレット先生のそばまで駆け寄ると、カレット先生の襟首を掴んで思いっきり引っ張る。間一髪、振りかざされた悪魔の爪はカレット先生の髪の毛を数本切り取っただけで終わり、悪魔はまた空に戻っていく。
「あれは……何? 一体、何が起こってるの! リーリアは大丈夫なの!?」
「ちょ、ちょっと先生! 落ち着いて!」
カレット先生は明らかに取り乱した様子で僕の両肩を掴み、すごい力でガクガクと揺らされてしまう。クラクラと世界が回る中、それを止めてくれたのは師匠だった。気がつけば、周りに魔法による結界が張られている。
「先生は知らないだろうが、あれは悪魔と呼ばれるものだ。本来は別の世界に住んでいるが、極稀に何かの拍子でこちらの世界に来てしまう者がいる。あれもそういう類だろう」
師匠が話している間にも、あの悪魔は結界を破ろうと何度も空から結界へ突撃を繰り返してきている。悪魔の爪が結界に叩きつけられる度にギイィ、という頭の中が引っ掻かれるような嫌な音が響く。
その様子を、カレット先生は恐怖に満ちた目で見ていた。僕を掴んでいる手がカタカタと震えている。人智を超えた存在を目の当たりにして、ましてや娘に取り憑かれてるんだ。平静でいられるはずがない。
「さて、あれを
師匠は言葉少なに僕に問いかける。その意味は簡単だ。師匠が何かをする間、僕があの悪魔から師匠とカレット先生を守れと、そういうことだ。なら、もう答えは決まっている。
「はい! 絶対にやり遂げてみせます!」
そう強く答えた僕を見て、師匠は笑ったように目を細めた。
「よろしい。ならばカウントダウンだ。いくぞ、一〇……九……八……」
「守護神エギスよ、絶対不可侵の
「三……二……一……ゼロ!」
「
師匠の結界が消えた瞬間、僕の結界が入れ替わるように現れた。赤く燃える結界が僕達を包み込んで守る。
悪魔が空から急降下して結界に爪を突き立てる。結界が軋んで破られかけるけど何とかそれは耐えきった。なんて力だ、このままじゃそう長くは持たない……。
その時、悪魔の顔がにぃっと醜く歪んだ。まるで、手頃な獲物を見つけたみたいに。嫌な予感が背中を這い上がる。そして、それは的中した。
悪魔が両手を突き出してこちらに向ける。すると、そこにどす黒い魔力のようなものが集まって収束していく。そして次の瞬間にその力が波動となって結界に襲いかかった。
「く……あああああああぁぁぁ!!!」
凄まじい力の濁流が結界にかかる。結界は黒の波に飲まれてギリギリと軋みの音を上げた。このままでは破られる!
僕は全力で結界の維持に努めた。何とか、この攻撃だけは絶対に耐え切らなきゃいけない! 結界のあちこちにヒビが入り、あちこちから黒いモヤのようなものが漏れ出してくる。それでも、僕は師匠とカレット先生を守るために必死に耐える。そしてもう限界だ、と思った瞬間に悪魔の攻撃は一時的に止まった。と同時に僕の結界も維持できずに解けてしまった。
「はあ! はあ! はあ! ……くっ!」
強い。僕の魔力が満足に使えないと言っても、あの結界は余程のことがない限り破られないはずだった。しかもおそらく、あれは手加減されている。そう、僕はあの悪魔に遊ばれているんだ……。
「ミョシュア君……」
不安な顔をしたカレット先生が僕のローブの裾を少しだけ引っ張る。その様子を見て揺らぎかけていた僕の決意にもう一度火が灯った。僕は、絶対に皆を守ってみせる!
僕は悪魔をきっと見据えた。悪魔は空から降りてこっちを舌舐めずりするように見ている。
守ってばかりじゃ駄目だ。僕の魔力があっという間に尽きてしまう。遠距離から魔法? 駄目だ、リーリアに当たってしまうかもしれない。となると、選択肢は一つしかなかった。
「光精よ、この手に宿れ。そして形作り剣となれ!」
呪文に反応し、周囲の光精を集めて剣を作る。そして作られた剣を両手で握り、僕は悪魔に向かって構えた。正直言って、僕に剣の才能は微塵もない。それでも、もうあの悪魔と対峙するにはこの方法しかなかった。
「でやあああぁぁぁ!」
僕は剣を振りかぶったまま悪魔に走り寄り、悪魔に向かって全力で剣を振り下ろした。悪魔は剣を右手で受け止めようとしたが、剣は悪魔の右手を切り飛ばす。悪魔は慌てたように僕と距離を取った。
(よし、いけるか!)
悪魔のイメージから光精の剣にしたのは正解だったみたいだ。手応えがまるで水を切ったように軽い。これなら戦える。
一方の悪魔は切られた右手を見つめている。するとボコボコと切り口から泡が吹き出し、瞬く間に右手が再生してしまった。それを見て僕は小さく舌打ちする。あの再生力じゃ、ちょっとやそっと切ったところですぐに回復されてしまう。
「キイイイイィィヤアアァァァ!」
「くう!」
今度は悪魔の方から僕に向かってきた。両手の爪を振り回して攻撃を繰り返してくる。僕は何とか剣でそれを防ぐのが精一杯で、完全に防戦一方になってしまっていた。悪魔の勢いと気迫に押され、一歩、また一歩と足が後退していく。
「あ!」
その時、僕の右かかとがごつっと何かに当たった。地面から覗いていた石に躓いてしまったのだ。僕はこらえきれずバランスを崩して仰向けに地面に倒れ込む。
悪魔がにたりと笑い、僕に止めを刺そうと両手を振りかざした。
やられる。僕は反射的に両目を
「この子から離れなさい!」
「先生!? 駄目です、下がって!」
このままでは先生がやられてしまう。僕は慌てて立ち上がり、先生の前に立って庇おうとした。
そこで僕は異変に気づく。悪魔がガタガタと震えて立ち尽くしているのだ。その視線の先には、先生がせめてもの牽制にと両手で握りしめた銀色の刃物がある。これは一体……?
その時、月明かりに
「清浄なる月光は悪しき者を浄化する。彼の敵へと降り注げ、
背後から師匠の詠唱が聞こえる。そう、この現象は師匠の仕業だったんだ。気づけば僕達の周りはまるで真夏の昼のように明るくなっていた。
そして悪魔が明らかに苦しみ始めた。月の光は悪魔を浄化する。さっきまでは悪魔の姿を目に映すぐらいしか効果はなかったけど、今は悪魔の体が月の光に焼かれて白く煙を上げている。
たまらず悪魔は翼を大きく広げて羽ばたいた。ここから逃げるつもりだ!
「逃しはせんよ」
師匠がポツリと呟く。そして次の瞬間、月の光が収束して悪魔とリーリアに向かって降り注いだ。
「アアアアアァァァァアアアアァァァ!」
悪魔が断末魔を上げ、ずるりとリーリアのお腹から悪魔が飛び出してきた。
「リーリア!」
僕は反射的に飛び出し、リーリアに向かって走り出す。一方、悪魔から開放されたリーリアは地面へ一直線に落ちていく。このままじゃ間に合わない。そう判断すると、僕は両手を前に投げ出して地面を腹ばいに飛んだ。両腕にとすん、という感触が伝わり、リーリアは僕の腕の中で寝息を立てていた。
僕はほっとするのと同時に、すぐさまリーリアのお腹を、魔力を使って閉じる。後でちゃんとした治療は必要だけど、当面の間はこれで大丈夫のはずだ。
その時、僕の背後にドサッと何かが落ちてきた。あの悪魔が月の光に耐えきれず、空から落ちてきたのだ。ヤツはまだ死んではいない。ならば僕の手で
「先生! あなたの手の中にある銀の刃物をその悪魔の胸に突き立ててください! それで全てが終わります!」
そう指示されて、カレット先生はびくっと肩を
「――よくも……村の皆を、ライルを、リーリアを! うわああああぁぁぁぁ!」
先生は両手を振り上げ、声を上げて悪魔の胸に銀の刃物を突き立てた。同時に悪魔はまるでこの世の全てを呪うような凄まじい断末魔を上げる。そして、悪魔は刃物を突き立てた場所から白い灰になり、風に乗ってゆっくりと散っていた。
悪魔に止めを刺した先生は夜空を仰いで大声で泣いていた。それは夫の仇を討ち娘を救った嬉し涙だったのか、それとも……。
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