幕間の物語

第20話 いつまでも、ともに

 「……ふむ」


 ガラント先生は診察を終え、器具を自分の鞄の中にしまい始める。いつも難しい顔をしているガラント先生だが、その表情は今日はとりわけ暗い。


 ガラント先生は鞄をパタンと閉じると俺の方を見つめて語りかける。


「なあ、バン。お前の体はもういつ壊れてもおかしくない。だからせめてお前の子供達に連絡を……」


「先生、何度も言ってるだろ? その必要はない」


「この強情っぱりめ……。まあいい、また明日来る。薬はここに置いておくからちゃんと飲め。じゃあな、お大事に」


 そう言ってガラント先生は部屋のドアを開けて家の外に出ていった。


 後に残されたのは俺だけ。妻には先立たれ、この家で一人になってもう五年になる。子供達は皆巣立ち、元気でやっているとよく便りが来る。


 本当に、本当に満ち足りた人生だった。思い残したことなんて何もない。ここで一人で静かに暮らしていることもまた幸福だ。子供達に今の自分を知らせたら血相を変えて帰ってくるかもしれないが、それではこの静寂は消えてしまう。


 俺はベッドから起き上がり、先生の置いていった薬を飲もうと手を伸ばした瞬間、胸がつかえてひどい咳が出る。しばらく咳き込んで押さえていた手を離すと、そこにはべったりと赤黒い血が張り付いていた。

 俺は少しも動じることなく、その手をそばにあった布巾で拭い、薬を水で流し込んだ。わずかに苦痛が和らいだ気がして、俺はベッドに腰掛けて窓の外を見る。

 窓からは茜色の日差しが部屋の奥深くまで差し込んでいる。ああ、綺麗だ。妻と二人でいつもこの光景を見ていたのを思い出す。


 その時、胸からチャリッと音が鳴った。俺はいつも首から下げているペンダントのペンダントトップを手に取った。銀色の素材で丸の中に十字が入った意匠。これは、ある友人が俺に贈ってくれたものだった。

 これには魔法がかかっていて、身に着けていれば自然と幸福が訪れると。実際その通りで、これを受け取ってから俺はずっと幸せだった。

 もちろん、困難や障害もあった。だがこれを見ていると、不思議とそれらを乗り越える力が湧いてきて、気がついた時には全て解決していた。まさに、幸運のお守りだ。


「……なんだ?」


 その時、不思議なことが起こった。夕日がだんだんと白くなり、目も眩むような眩しさに変わった。俺は眉を潜めて右腕で目を覆う。その光が収まったのを確認して腕を下ろすと、俺の目の前にありえない光景が広がっていた。

 そこは晴れた一面の草原だった。ささやかな草花が咲き、一本の大きな木が近くにある。

 俺は……この光景を知っている。


「こいつは、一体どういうことだ?」


 草むらに座り込んでいた俺は立ち上がって驚いた。さっきまで俺を蝕んでいた体の苦痛が全くない。それどころか、年によって体に刻まれた皺が消えている。顔を触ってみればまるで二十代の頃のようだ。信じられないが多分、俺は今若返っている。


 その時、カサリと音がした。音の方を見れば、先程はいなかったはずの木の下に一人の男が立っていた。

 低い背丈と華奢な体つき。グレーのローブを身に纏い、森のような髪色に中性的な顔つき。ああ、間違いない。あの時のままだ。

 男の名はクラース。俺の友人だ。


「やあ、久しぶり。五十年ぶりぐらいかな?」


 驚きで固まっている俺に向かって、クラースが普通に声をかけてきた。まるで水のように体に染み渡る不思議な声。

 全てに納得がいった俺は、クラースに歩み寄りながら返事を返す。


「ああ、そのぐらいだ。これはお前の仕業か?」


「うん。懐かしいだろう?」


「ああ、そうだな」


 そう言って俺はクラースの前に立った。クラースはあの日と同じ顔をして、同じ笑顔を俺に向けている。


「突然どうしたんだ?」


「会いたくなったから来た、じゃだめかい?」


「いや。ちょうど俺もお前のことを考えてた」


「おや、それは嬉しいね」


 そう言って、クラースは木を背中に草むらへ座った。そして自分の隣をポンポンと叩く。促されるまま、俺もクラースの隣に座った。


 爽やかな風が草原を走り抜ける。


 クラースは村の恩人だった。

 当時、村は領主からの重税にあえいでいた。しかし、村に現れたクラースは事情を聞くと案内役兼仲介役の俺だけを供につけ、領主の元に乗り込んだのだ。

 そこからの手腕は見事なものだった。あれよあれよという間に領主を言葉巧みに丸め込んだのだ。

 舌戦ぜっせんでは勝てないと領主は実力行使に出たが、クラースは魔法を操りたった一人で私兵達を倒してしまった。結果、村にかけられていた税はまともなものになり、俺達の生活が人並みに変わったのだ。


 その後もクラースは村に留まって魔法で皆の傷を癒やしてくれたり、自分も農具を握って農作業を手伝ったりしていた。まあ、農作業の方は非力すぎてまるで役に立っていなかったが、皆は喜んでそれを受け入れていた。


 そしてあの日、クラースは人知れず唐突に村から去っていった。もう五十年以上前の話だ。


 この場所は俺とクラースが農作業の合間に来ていた場所だった。ここで俺は、クラースからあのペンダントを受け取ったんだ。


「ずっと……ずっともう一度お前に会いたいと思っていたんだ。お前には感謝してもしきれない。村のこともそうだし、このペンダントのこともだ。お前のペンダントにはいつも助けてもらった。おかげで、俺は最後まで幸せな人生を送ることができた。ありがとう」


「はは、照れるじゃないか。僕は大したことはしてないよ。君の人生が豊かだったのは、君自身の頑張りのおかげだ。僕はそれにちょっと後押しをしただけさ」


 少し困ったようにクラースが笑う。

 俺は首元からペンダントを外し、クラースに向かって差し出した。


「受け取ってくれ。俺にはもう必要のないものだ」


 クラースはちょっとだけ驚いたように見えたが、すぐにいつもの表情を取り戻し、俺からペンダントを受け取った。自分の首にペンダントを回し、ペンダントトップがクラースの胸元を飾る。


「似合うかい?」


「ああ。やっぱりそれはお前の方が似合うな。無骨な俺じゃ似合わないとよく笑われたもんだ」


「そうか、それはすまなかったね」


 そう言ってクラースは鈴が転がるように笑った。

 ひとしきり笑った後、クラースの顔つきが真剣に変わる。


「さて、君に一つ謝らないといけないことがある。実はね、これに魔法なんてかかっていないんだ」


「何だと? そんなはずは……」


「だから、君の人生が幸せだったというなら、それは全て君自身の力のおかげだ。言っただろう? 僕は後押ししかしていないって」


 思いもしなかった事実に俺はしばらく呆然としていたが、次第に笑いがこみ上げてきた。俺は右掌を額に押し付けて空を仰ぐ。


「……くっくっくっ、あっはははは! 何てことだ! 俺は今までずっとお前に騙されてたってことか!」


「ふふ、ははははは! すまないね。僕は魔法も使うけどペテンも使うのさ!」


 俺達はずっと笑いあった。まるで、離れ離れになっていた時間を取り戻すかのように。


 それから俺はつぶさにクラースが去ってから起きた出来事を語った。妻のこと、小子供のこと、村のこと全てだ。クラースは時に笑い、時に悲しんだりして俺の話を真剣に聞いてくれた。


 そうやってしばらく過ごしていると、突然クラースがすっくと立ち上がった。


「行くのか」


「うん。どうやらそろそろ時間のようだ。さよなら、僕の友。最後に会えて嬉しかった」


 クラースが草原の奥に向かって歩を進める。クラースが一歩歩くごとに光が溢れていく。しばらくすると、もう目も開けられないほどに眩しくなって、クラースの姿は捉えられなくなっていた。


 ああ……夢から、めていく……



 その日、僕は師匠に外へ連れて行ってもらえず、一人で過ごしていた。

 師匠が外に行く時は大体一緒に連れて行ってもらえるのだけどどうしても連れて行ってもらえない時があるらしく、今日はどうもそんな気配を感じ取ったので僕は大人しく留守番をしていた。


 日もどっぷりと暮れて、僕はそろそろ寝ようと自分の部屋に行こうとした瞬間、ガタリと玄関のドアが開いた。見れば師匠が家に入ってきていた。今日は随分と若々しくて華奢な姿だ。


「お帰りなさい。今日は遅かったですね」


「ああ、古い友人と会っていてね。話し込むうちについ名残惜しくなってしまった」


 そう言った師匠の目がほんの少しだけ遠くを見た気がした。


 その時、僕は師匠の胸元にペンダントがあるのに気付いた。銀色で丸の中に十字が入った意匠だ。出る前には、間違いなく着けていなかったはずだ。

 何か効果があるのかと砂の目で見てみたけど魔力は込められていない。本当に何の変哲もない、ただのペンダントだ。


「師匠、そのペンダントはどうしたんですか?」


「これかい? これは幸運のお守りさ。大切な友人から預かった、ね」


「え、でも……」


 何の効果もない、と言おうとして僕は言葉を止めた。

 師匠はペンダントトップを右手に持ち、愛おしそうな目でそれを眺めていた。まるで、子供が見つけた世界でたった一つだけの宝物のように。

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