第2話 鏡の中の

「ああ……。完っっ全に遅刻だ……」

 大座葉おおざはは、紛れもない寝坊に、顔の血の気が引いていくのを実感していた。

 時刻は十時四十分。大座葉の通う専門学校は九時始業であり、今からでは何をどうしようと遅刻の二文字を回避することはできない。

「はあ……。しゃーねえ。ここは諦めて、学校に電話するか……」

 寝起きの頭のもやが晴れ、現実を受け止め始めた大座葉は、家の固定電話から学校へ遅刻の連絡をしようとベッドを降りた。


「……ん?」

 すとん、と。軽やかな音を立てて着地し、立ち上がった大座葉は、露骨な違和感に動きを止める。

 ──目線が、やけに低い。

 それに、何となく身体が軽い気がする。ベッドから降りる時も、いつもなら床が軋む音が耳にまで届くのだが、今日は全く軋まなかったのだ。平均的な青年の体重を大きく下回る、痩せ型の大座葉でさえ軋んでいた床が、である。


「……気のせいか? なんか身長が……うーん。……って、あれ」

 大座葉は、頭の上で手刀を水平に切り、目の前にある部屋のドアで身長の目測を試みていたが、更なる異変に気付いてしまう。

「あーっ、あ。あー……。ちぇっく、ちぇっく。あいうえおー。んんっ! ……うん?」

 何度も発声を繰り返した大座葉は、額に冷や汗を滲ませて、その場で硬直した。


「……俺、こんなに声高かったっけ? いや、そんなはずは……。ど、どういう事だこれ」

 先程から、自分の発した言葉をなぞって聞こえてくる、少女のように可憐なソプラノボイス。それが自らの声音こわねである事を確信し、呆然と立ち尽くしてしまう大座葉。頭の中は戸惑いと混乱の奔流で埋め尽くされており、遅刻の事など最早頭の中のどこにも無かった。


「……っ!」

 たっぷり数分間も棒立ちし続けていた大座葉は、切羽詰まった剣吞な表情で、弾かれるように隣室の洗面所へと向かった。もちろん、その目的は顔を洗いに行くためではない。


「う、そだろ……」

 大座葉が住んでいるのは実家のアパートであり、広さも3LDKとそこまで広くはない。すぐに洗面所に辿り着いた大座葉は、洗面台の上部に取り付けられた鏡を覗き込むと、目を見開いて絶句してしまった。


 ──見知らぬ女の子が、驚愕に満ちた表情で、大座葉を見つめ返していた。

 それも、どう控え目に言っても『美少女』としか表現できないような、そんな女の子。

 肩の少し上あたりまで伸びた艶やかな黒髪に、成人男性の手のひらで容易に鷲掴みできそうなほどに小さな顔。見開かれた目は大人しそうな垂れ目をしており、きめ細やかな白い肌の頰には、薄っすらと赤みが差していた。


「おいおい……なんだこれ。俺はまだ夢でも見てんのか?」

 頰をぺたぺたと触る自分の手すら、以前より一回り以上も小さくなっている事に、一層と動悸するのを自覚する大座葉。試しに頰をつねってみるものの、痛みとマシュマロじみた柔らかな感触が返ってくるだけで、現状が夢であると証明する情報は何一つ無かった。


「ゆ、夢じゃ……ないのか」

 にわかには信じがたい現実を受け止めきれないまま、今度は胸へと手を伸ばした大座葉は、そこで動きを止めた。続けてそのまま、まさぐりだす。

「うん……? あれ。胸は意外と……なんていうか」

 頭の中に、絶壁の映像が投影される大座葉。何故か、『残念』の二文字が一瞬脳裏にぎる。


「……って。そ、それより一番重要なのは──!」

 事態に反した呑気な思考を振り払い、慌てて手を下半身──更に具体的に言えば股間──へと持っていった大座葉は、ことに安堵し、肩を下ろした。

「あ。こっちはそのままか。良かったー……。でも、心なしか以前よりサイズが控え目になってる気が……って、うん? ?」

 安心し切った笑顔のままで表情を凍りつかせる大座葉。そう。なのだ。


「え。……は、はああああああああああ!?」


 ここで重大な情報修正。

 大座葉が転身したのは女の子ではなかった。


 正しくは、女の子のような見た目をした男の子。いわゆる『男の娘』である。

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