幸せの白い犬 

幸せの白い犬 

今日は家族でお盆のお参りに行く。

世間一般の習わしでお盆のお墓参りだが、うちでは大阪のミナミの御堂筋沿いにある北御堂というお寺の納骨堂にご先祖様を祀っている。


そこに家族で電車で向かっているのだ。

ぼくは平戸誉小学4年生。

サラサラヘアが特徴で周りからはかわいいと言われていたが

「僕は男やで、かわいいは嬉しくない」と返すのが定型文となっていた。

この日は僕にとって待ちに待った日だった。

お盆のお参りがそんなに待ち遠しいのかというとそうではない。

白いポメラニアンが我が家に迎えられる日だったのだ。


お盆のお参りに向かう車内で僕は、はしゃぎながら

「なぁなぁ、名前何にする?決めてもいい?」とピョンピョン跳ねながらおかんに問いかける。

「もう考えてるん?」と微笑みながらおかんが僕に問いかけるのと同時に

「ハッピーがいいねん!」と食いぎみに満面の笑みを浮かべながら答えた。


しかし直後に誉は少し何かを含んだように「ハッピーって英語で幸せって意味やろ?ハッピーがうちに来たらうちの家族幸せになれんねん」とどこか寂しげに付け加えた。


おかんの酉子ゆうこは誉の気持ちに気がつき嬉しい反面切なさも感じていた。

「ええよ」と複雑な気持ちながらも笑顔で答えた。


平戸家は夜になると夫婦喧嘩の絶えない状況で、誉は小学生ながらに居たたまれない気持ちで過ごしていたのだ。

そんな状況が好転するかもしれないと「ハッピーで幸せ」という意味を込めたのだろうと酉子もすぐに感づいていた。


そんな複雑なやりとりを無視するように家族を乗せた電車はいつもと変わりなく目的地へとひた走る。



御堂筋沿いを家族で歩き北御堂に到着した。

北御堂は正面に立派な門があり、門をくぐる幅の広い大きい長い階段がある。僕と真ん中の兄キミは階段が見えるなり走って上まで競争した。


当然弟の僕が勝てるわけもなく勝負は始まる前に決していた。


キミは運動神経がずば抜けており近所では野生児と言われる程とんでもない事をやってのけるお調子者だ。

このころ器械体操に興味を持ち体操クラブにも通っていた。

一番の話題と言えば、過去に滑り台に26インチの自転車に乗ったまま登る遊びを友達達と考案し、その最中勢い余って滑り台から落下し骨折するなど話題性抜群の子供だ。


お参りを終え帰る際にはキミにとっての恒例の行事があった。

北御堂には立派な階段がある事は前述の通りだが、その階段の両サイドが畳一畳程の幅の石の壁のような作りで、ちょうど滑り台のような形をしている。

その横は何もなく高さは10メートル程あり、上から見るとざわざわする程の景色だ。

落ちれば大怪我では済まないだろう。


キミはおかんの心配など気にする様子もなくその石の滑り台のような坂道を綱渡りかのように歩いて降りていくのだった。


ここまでが北御堂での平戸家の一連のお参りなのである。


だがこの日はいつもより行事が多かった。

体操クラブに通っていたキミがバク転を披露して見せたのだ。

さすがキミといったような綺麗なバク転だった。


ここで終わるならまぁよくある話なのだが

「おとうさんもできるで!」とおとんもバク転をすると言い出した。


おとんの敏英は昔自衛隊に居てバク転もできていたという。

確かに過去にはできていたかもしれないが…みんなの不安を他所にバク転はひとまず成功し皆安堵した。


このバク転の際どうも肩を痛めたらしく後でわかった事だが、腱板を損傷してしまっていた。


「肩がなんか変やな」とぼそっと言ったのを長男のケータは聞こえないふりをしてその事に触れなかった。


長男のケータは勉強がピカイチで頭がとても良く真面目な兄だった。ただ、弟達とは壁を作っており誉とキミはどこか近寄りがたい物を感じていた。



地元に帰った家族は帰りにスーパーイズミヤへとやって来た。

ハッピーを迎えに来たのだ。

大型のスーパーではないけれど小さなペットショップがありそこでおかんが惚れ込んだのがハッピーだった。

酉子と敏英は喧嘩ばかりしていたが買い物に一緒に行く事もあり、イズミヤのペットショップの犬を二人で見るのが密かな楽しみだったのだ。

ハッピーは酉子への口下手な敏英からの贈り物であり、感謝や詫びの気持ちが込められていたのだろう。

ペットシーツやご飯におもちゃ等必要な物を買い揃えハッピーと共にイズミヤを後にした。



サッカーボール程も無い大きさのハッピーはダンボールのような入れ物で連れて帰ってきた。

今思うと箱で連れて帰らせるとはいかがな物かと思うがそこは置いておこう。

実はこのダンボールだか、ハッピーを家に連れて帰るには逆に都合が良かったのだ。

平戸家が住んでいるのは府営の団地で犬を飼うという事に関して曖昧なルールでグレーだったからである。

まぁこれから飼うのだから連れて帰る時に隠そうがあまり意味はないのだけれど

「箱ってかわいそうやけど隠せるから良かったやん」とおかんが言った事に誰も異論を唱えなかった。


始めての家、ハッピーにとっては未知の世界に連れてこられた気分だろう。

それを全身で表すかのように箱から出してもらったハッピーは、まるで雪の中に裸で放り出されたかのようにその白く小さい身体をガタガタと震わせて怯えていた。

誉はその様子を見て

「僕だっていきなり知らん人に知らん所に連れていかれて、こんなに人に囲まれたら怖いし」とハッピーが怯えるのを落ち着かせようと撫でながら言った。

「そりゃそうやな」と言いながらおかんはハッピーを抱き上げ、まるで子供をあやすように話かけながら凄く嬉しそうにしていた。


ハッピーがうちに来た経緯について補足になるのだが、酉子は保育士で子供が大好きだ。おかんに子供を抱く喜びをハッピーを飼う事で満たしてやれると考えての事だったと後になって知った。


そのおとんだが、ハッピーを抱くおかんを見て喜びを感じているとばかり思っていたのだが、なぜか焼きもちをやいて少しストレスを感じていたらしい…ほとほと不器用な男なのである。



ハッピーが来て1年がたった夏休み、おとんを覗いた4人とハッピーで北海道のおかんの実家へ里帰りした。小学生の頃は夏休みの間北海道で過ごすのが平戸家の恒例行事だった。


ハッピーは初めての飛行機なので酔い止めを動物病院でもらい飲ませてあげたのだが、過度のストレスもあってか空港でハッピーを引き渡してもらった時にはもどしてしまっていて少し元気が無かった。

「ハッピー、大丈夫かぁ」とケージ越しにキミが話かける。

「ちょっと外で出してあげようや」と誉が言うと

「せやなぁ、外で水飲ましてあげよ」とおかんが言いながら、皆は空港の到着ロビーへと向かった。

ロビーではじぃじとばぁばが迎えに来ており、こちらに向かって手を振っていた。

普段物静かなケータもこと時ばかりはじぃじとばぁばを見て笑顔で二人に近寄っていった。

「無事ついて良かった」とじぃじが安心したように言うと

「犬は大丈夫か?」とばぁばがハッピーを心配している

「ちょっともどしてぐったりしてるからいっぺん外出よ」とおかんが皆を先導しながら外へ出てハッピーも解放され水をペロペロと飲み、少し落ち着いたようだ。怖かったのだろうか、目の辺りが濡れていた。

突然一人にされ長時間よくわからない空間に拘束されたのだから無理もない。

駐車場へ行き車に乗り込みじぃじの運転で家へと向かった。

家へつくとおかんはおとんへ電話した。

「無事ついたから」と雑談を交わし電話を切った。

夏休みの間おとんは一人で家に居る事になるのだが、一人は少し恐ろしさを感じていたらしく、おかんといつも電話をしていた事は内緒である。

おかんは、「ふぅ、ちょっと休憩」とソファーに腰を下ろした。

三人も子供を連れてハッピーも居るとなるとそれだけでもおかんにとっては重労働だっただろう。

平戸家は約1ヶ月の間北海道でのんびりと過ごしあっという間に夏休みが終わり大阪へ帰る日がやってきた。


帰りは家の近所から高速バスが出ているので、それに乗って帰る事になっていた。

バスが到着しじぃじとばぁばに別れを告げてバスに乗り込む。窓越しに見える二人は手を振っている、誉は外を見る事ができない。誉はじぃじとばぁばが大好きで離れるのがとても辛かったのだ。号泣してとても不細工な顔になっていた。

「ほら!じいちゃんとばぁちゃんにバイバイしいや」と酉子に促され、やっとの思い出二人に手を振りバスは走り出した。

誉は空港に向かうバスの中、到着するまで泣き続けた。座っていた窓際のカーテンに隠れるようにしてなき続けていたため、バスのカーテンが湿る程だった。

楽しかったはずの北海道なのに、なぜこんなにも悲しい思いをするのかと子供の誉は少し複雑な気持ちになった。

ハッピーの初めての旅、誉の切ない記憶と共に短い夏が終わっていく。



大阪に戻ってから家族とハッピーは笑顔の溢れる日常を過ごしていた。

文字通りハッピーが幸せの使者の役割を見事に果たしていたのである。

誉は毎日学校から帰るとハッピーの散歩に行く。

ハッピーは散歩が大好きで、玄関にかけてあるリードを取る動作をするだけで、興奮して玄関でくるくる回りながら吠えるようになっていた。


犬の聴覚の鋭さには本当に驚かされる。

家族で会話している時に散歩というワードが出るだけで興奮してとりかえしがつかなくなる程だった。

そうなってしまっては期待させてしまったこちらが悪いと罪悪感にかられ、しぶしぶ散歩に行く事もあった。


この日も誉はハッピーに向かって

「散歩行く?」と弾むようにハッピーに語りかける。

待ってましたと言わんばかりに誉に飛びつく。

飛びついてきたハッピーをキャッチし抱きながらリードをつける。

そうしないとくるくる回りながら興奮しているハッピーにリードをつける事ができないからである。


いつもの散歩コースを周り終えて団地の下に帰ってきた時の事だった。

誉の手からスルッとリードが抜けハッピーが道路に向かって一目散に走っていく。誉には走ってくる車が見えていた…

誉は咄嗟に段地中に聞こえる程の大きな声で

「ハッピー待て~!!」

道路に出る寸前の所でハッピーはピタリと止まった。

誉は半べそだった。

走って戻ってくるハッピーを震える手で抱き締めた。


ハッピーはいつも公園のような囲まれた空間では、リードを外してやり走り回らせてあげていたのだが、外には絶対出ないように躾られていた。

ハッピーからすれば道路に出る行為が囲まれたスペースから出ると解釈して止まったのか、誉の叫びで止まったのかはわからない。


何にせよハッピーが無事で本当に良かった。

誉はまだ震えていた。



ハッピーが来てから平戸家は一段明るくなったようだった。

この時誉は中学生になっていた。中学生といってもまだまだ子供で親の事にはとても敏感に反応する子になっていた。


夫婦喧嘩は相変わらずだったが、誉はハッピーが居る事でハッピーに安らぎを求めるようになり、幾分精神的に楽にはなっていた。

ただ、おとんのハッピーへの焼きもちからハッピーの事でおかんと喧嘩するという新たな芽が誕生した事に誉はがっかりしていた。

「自分でおかんにプレゼントするって決めたんちゃうんか?男やったら仮に焼きもちやいても我慢しろや!たった一人の愛した女やろが!」

と心の中で喧嘩の度に叫んでいた。

何度も書くがそういう不器用なのがおとんという男である。


喧嘩を聞いているのは苦痛だったが、それが平戸家なのだとこの頃から受け入れるようになり、誉はおかんをサポートし励ます事に徹底するようになる。

誉が過剰なまでにおかんを愛し守ろうとするのは、幼い頃の体験から来ているのだった。


誉がおかんを大事にしている事は連れの間でも評判だった。その事について誰もマザコンとからかうような事はしなかった。

誉はおかんの話になると決まって

「おかんを愛されへんやつが女と付き合ったって大事にできる訳ないやろ」と中々にくさい言葉を平気で言っていたのだ。


この頃の誉は学校から帰り、おかんがハッピーを抱いてテレビを見ている光景がとても好きだった。

その時間帯はおとんもまだ帰って居ないので、存分にハッピーを愛でる事ができる時間なのだ。

「おかんいつでも好きな時に好きなだけハッピーとくっついてられたらもっと幸せやのになぁ」と思った。


この日も誉はおかんの抱いているハッピーに

「ハッピーただいま」と言いながらくしゃくしゃに撫でまわし、その二人の光景に幸せな気持ちになるのだった。

この貴重な時間があるからおかんも救われるのだろう。

おかんが少しでも幸せを感じられる事こそハッピーの役目なのだと改めて感じたのだった。


ハッピーうちに来てくれてありがとう。



誉が高校生になった時その事件は起こった。

その日家族でケンタッキーを食べた。

ハッピーは落ちた物を一瞬で飛びついて食べてしまうためみんな落とさないように注意して食べていた。

骨でも落とそうものならハッピーが食べてしまうからだ。

鳥の骨は人から見ても飲みこんでしまうと危険だとわかる程大きい。

その日は何事もなく皆美味しく頂いた。


異変は次の日の朝に起こった。

起きるとハッピーが何度も何度も戻している。

いつもは食べるご飯も食べず水すら飲まず戻すばかりだった。

家族はハッピーを心配そうに優しく撫でたり話かけたりしながら様子を見守る。だがハッピーが戻すのは止まらず、終いにはぐったりと横になってしまった。


真ん中の兄のきみは昔から動物が大好きで、ハッピーが来たことをきっかけにトリマーの専門学校へ通っていた。

きみが

「何かがおかしい…あっ!待って…」咄嗟に兄のケータの部屋へ行きゴミ箱を漁った。

そこにはハッピーが漁った形跡が残っていた。

「やっぱりな…マジでありえへん!なに考えてんねん!考えたらわかるやろ!」考えてもわからないからやってしまったのだろう。

きみの怒りは収まらずその怒りの勢いのままに兄のケータへと電話をかけた。

「ケンタッキーの骨部屋のゴミ箱に捨てるとか何してるん!!ハッピー臭いでわかるねんから漁るに決まってるやろ!!」

普段ケータに向かってこんな話方は絶対にしないのだが、この時のキミは怒りに狂って我を忘れていたのだ。

ハッピーはケータの部屋のゴミ箱を漁りケンタッキーの骨を食べてしまい、喉に骨を詰まらせてしまっていたのだ。

キミはケータに

「ハッピーがこれで死んだらお前のせいやからな!!一生恨むで!」

この時ばかりはケータも生意気な口調のキミに一切反論せず

「ほんまに申し訳ない、今更やけどほんまに悪い事した」

素直に詫びを入れた。

起こってしまった事は仕方ない。

すぐに病院へ連れていったのだが、詰まった骨がもどす時に一緒に出てくるのを待つしかないと言われた。

誉は心配で心配でハッピーから片時も離れずにただただ見守る事しかできなかった。


何日たっただろう…ハッピーの様子は代わらずご飯も食べれず水も飲まずどんどん衰弱していった。

その様子を思い出すだけで誉は泣くのを我慢せずには居られなかった。

「ハッピーも頑張ってるやしこっちが諦めたらあかんな」

と誉がおかんに言うと、おかんも

「そやな、大丈夫きっと元気になるから」とは言ったものの暗い雰囲気は晴れる事は無かった。

前向きな言葉を口にはするもののおかんはどこかで何かをさとっているようだった。


休日の誉は少し遅く起きた。

今日もハッピーは…そんな事を考えながら部屋を出ておかんに

「ハッピーどう?」と話かけると

「まだあかんわ…」と首を振った。

ふと、ハッピーがもどす声が聞こえる、誉はいつも通り処理しゴミ箱へ捨てた。

すると突然リビングからおかんが

「誉!ハッピーが!」

驚いて走ってリビングへ行くとハッピーが水をがぶ飲みし、ご飯を一瞬で食べたのだ。あれはダイソンと言ってもいいだろう。


誉はすぐさまキミへ電話する。

「キミ!ハッピーが元気になった!ご飯も水も!」

喜びと興奮でうまく状況が説明できない。

するとキミが

「ハッピーその前にもどした?それ調べてくれへん?骨出てきてんちゃう?」誉は興奮し過ぎてその事をすっかり忘れていた。

「ちょっと待って!見てくる!」

誉はすぐにさっき捨てたハッピーの物をゴミ箱から取り出し調べた。

「あっ!」誉は思わず声を出した。

その中には茶色の異様な物があった。ハッピーは見事に吐き出してみせたのだ。

「あった!骨あった!」キミに伝えるとキミは

「良かった~ひとまず安心やわ」と安堵しため息をつく

「ちょっと気をつけて様子は見といてな」と言い電話を切った。

誉はおかんと涙を流しながらハッピーの回復を喜んだ。


その晩キミがケータに、ハッピーが吐き出した骨を見せ

「これやで、こんなもんハッピーが食べてもうたんやで、ほんま頼むで」

この時は怒りに任せて喋るのではなく、泣きそうになりながらケータを諭すように語りかけていた。

ケータは

「良かった、ほんまにすまんかった」心底反省しているようだった。


その後ハッピーは順調に回復しいつもの元気なハッピーに戻った。

それ以来ケータはゴミ箱を床へは置かなくなった。

家族もみな物を落とす事には神経質になり、家の床は以前よりも綺麗になったとおかんは喜んでいた。

とうのハッピー何事も無かったかのように、また誰かが何かを落とすのを虎視眈々と狙っているのだった。



蝉の鳴き声が煩くその声で目が覚めた。

誉は休みの日は昼まで寝るのがお決まりだった。寝るのが好きで休日のアラームの無い目覚めが休日の幸せなのだ。

だが、この日は蝉の目覚ましで目を覚ました。


リビングに出ると誰も居ない、ハッピーもいない

「あれ?どっか連れていったんか?」ぼそっと独り言を言いながら誉は考えた。

ふと玄関を見ると夏の間だけ使っている網戸の玄関扉が少し開いている。

誉は血の気が引いていくのを感じながら、寝癖もひどい寝間着のまま飛び出した。


団地の廊下を走りながら

「ハッピー、ハッピー」と何度も呼びかけながら必死に探したが居ない。

ふと聞き覚えのある声が団地の下の公園から聞こえる

「ワン!ワン!」

誉は4階の廊下から公園を見下ろす、そこには近所の子供達と元気に走り回るハッピーが居た。

誉はものの数秒で階段をかけおり走ってハッピーのいる公園へとむかった。

「ハッピーおいで!」

その声に気づいたハッピーはピタリと足を止めこちらを振り返ると、尻尾を振りながら一目散に誉の元へと走ってきて誉に飛びついた。

「びっくりするやん、頼むでほんま」とハッピーに語りかける。

なんとも無邪気な様子に誉は怒りもせずにハッピーを抱いて家へと帰る

驚かせる事にはことかかないハッピーだが、どうもうちの兄弟のように突拍子もない事をしでかす辺りは飼い主に似たのだろう。


家に帰りハッピーの汚れた足を濡れたタオルで拭いてやった。

走り回って喉が渇いていたのだろう。

物凄い勢いで水を飲んでいた。


そこへおかんが帰ってきた。

「ハッピー脱走しててびっくりしたわ」誉が言うと

「うそやろ!どうやって?」おかんは驚いて誉に聞き返す。

「なんでかは知らんけど網戸がちょっとあいててそっから出てったんやろな、公園でチビちゃんらと遊んでたわ」と笑い声ながら説明した。

「ほんまぁ、良かったわ」とほっとした様子でハッピーに話かける。

「もう!勝手に出て行ったあかんやん…」といつものように抱っこしながら説教する。


ハッピーは問題を起こす事は多いが、人の感情を読み取るのがとても得意で空気を読む賢い犬だ。


この時も叱られている事にすぐに気がついたハッピーは、両耳を垂らして、しゅんとしながらおかんの言葉に反省したようだった。

そんな姿のハッピーをおかんはいつまでも叱る事はできず、いつもの如くまたお互いに甘えるようにじゃれあっていた。


誉はこの時ハッピーが道路に飛び出しそうになったあの日を思いだし、おかんとハッピーがこうして幸せそうな姿を目の前にし、ほっと胸を撫で下ろした。


なんでも無い休日の日だったが、ハッピーが居るだけでその日はイベントになる。

誉はそんなハッピーの居る刺激的でいて幸せな日々が当たり前のように平戸家に訪れた事にとても幸せを感じていた。


ここからしばらくの間平戸家にはハッピーに纏わる特別なニュースになるような事は起こらず、幸せな楽しい日々が流れ続けていった。



いつまでも当たり前のようにハッピーとの幸せな日々が続いていた。


この日も誉はハッピーといつものように散歩へと出掛けた。

ハッピーは散歩が大好きだ。


いつものルートをいつも通りに散歩する。


合間にハッピーはなんの前触れもなくダッシュする事がある。

だが、この日は足取りこそ軽い物のハッピーはダッシュしなかった。


誉はルートの終わりがけに試しにこちらからダッシュを仕掛けてみた。

ハッピーはこちらがダッシュを仕掛けてもいつもそれに乗ってダッシュするのだ。


この日もハッピーはダッシュについて来た、ところがその途中

「キャンキャン!」いつも出さない声をあげてびっこを引き出した。

「ごめんごめん…大丈夫か?」ハッピーに語りかける。


ハッピーには脱臼癖があったので誉はそれだろうと思いその日はハッピーを抱っこして帰った。


それからというもの、ハッピーは散歩には行きたがるし喜んで行くのだが、散歩中に痛がる事が多くなっていた。


誉は心配になりキミに相談した。


「なんか最近散歩中にハッピーやたらと痛がるんやけど大丈夫かなぁ?」誉は心配そうにキミに訪ねる。


「大分歳やし脱臼しやすくなってるんかもなぁ…あんまり走らさんようにゆっくり散歩してやって」ときみが言う。


「そうかぁ、それならまぁしゃあないわなぁ」心配ながらもキミが言うなら大丈夫なんだろうと誉は納得し、気をつけようと思った。


その頃からだろうか、おかんが不意に

「ハッピー最近異常にご飯食べるし水もがぶ飲みするんやけど?」と不思議そうに言った。


するとキミが

「弱ってたら逆に食欲とかなくなるから心配せんで大丈夫やろ」といつもの調子で答える。


おかんは

「まぁそうやわなぁ、元気やから良いけど」と納得したようだった。


確かに衰弱している様子もなく、ご飯をもりもり食べる様子からは不調があるようには微塵も感じなかった。

誉も気にはなったが、特に心配はしていなかった。


この時誰も気づかないうちにハッピーの身体は少しずつだが確実に変調をきたしていたのだった…



ハッピーの異変が誰も気づかぬうちに進行していたのだが、それとは別の大事件が平戸家を襲う事になる。


うちのおとんは昔にIGA腎症という慢性型の腎臓病を患っていた。

当時は医者に

「あんた恐らく30で死ぬよ」と宣告されていたのだ。

だが今も60を過ぎ健在である。


その腎臓病の薬や、体調を崩した時に必ず掛かり付けの医者、松下さんに行っていた。


ある日松下さんへ行ったおとんは松下さんに

「そろそろいっぺん消化器系検査しといた方がえぇんちゃいますかね?」と言われた。


おとんは素直に

「じゃあ見といてもらいます」と検査を受けた。


その検査結果に平戸家は愕然とした。

おとんに癌が見つかったのである。


松下さんの話では胃に腫瘍が見つかったとの事だった。


幸いかなり早期の発見であり、すぐに手術すれば大丈夫との事でおとんはすぐに、大阪市内の有名な病院に入院し手術をする事になった。


松下さんの言う通り早期であったため手術に成功し、幸いどこにも転位は見られず、その後の放射線や抗がん剤といった辛い治療もせずに済んだのである。


癌にはなってしまった物のこんなに予後が良好なのは奇跡以外の何物でもないと誉は思った。


おとんの病院にお見舞いと手術の説明を聞くために家族みんなで病院へ向かった。


医師から説明を受け実際に切除した胃を見せられ少し驚いた。

おとんは胃の三分の二を切除したのだ。


退院したおとんは胃切除の代償としてダンピングという症状に苦しむ事になる。

ダンクシュートのダンクという意味から来ており、胃に入った食べ物が小腸へとダンクシュートのように流れ込む事によって起こる症状でとても苦しい物らしい。


物をちびちびと食べるぐらいしか予防方法は無く、気を抜くとダンピングが起こり時々苦しんでいた。


そんなおとんは経過観察のために定期的に病院へ検査に行っていたのだが、そこで二度目の奇跡が起こる。


胃の経過観察のついでに腎臓の検査も一緒にしたのだが、腎臓の機能が完全ではない物の回復してきているとの事だった。


おとんの腎臓はほとんどが死んでいて回復の見込みはないと告げられていた。

これには医師も驚いていた。


ダンピングにこそ苦しめられていたおとんだが、経過はとても良く、なに不自由無く日常生活へと復帰しめでたしめでたしといった所だった。


誉は、こんなに奇跡的な回復を見て何か説明のできない神秘的な力を感じずにはいられなかった。

誉は

「神様は見てくれてるんやろなぁ」と心の中で呟き晴れた空を見上げ目を閉じた。



おとんは順調に回復していく、だがハッピーは少しずつだが確実に様子がおかしくなっていた。


散歩の時に痛がる例のあれが家の中で走り回るだけで起こるようになったのだ。

それだけではなく、何も無い所で突然転けるようにもなっていた。

フローリングなので滑るのだろうと、頻繁に足の裏の毛をカットするようにしていた。


「やっぱりおかしいよなぁ…足腰弱くなってきたんかなぁ…」誉はおかんに問いかける。

「妙に痛がるしそれだけじゃない気はするけどどうなんやろう?」とおかんが心配そうにしている。


この時は、きっとおじいちゃんになって来たのだろうと心配はするものの深刻には捉えていなかった。


それから、転ぶ回数も増え少し動きもゆっくりになり走り回る事はほとんど無くなってきていた。

そしてもう1つ気がかりだった事が、ハッピーはおしっこもしなくなっていた。

誉は毎日心配で心配で家に居る間は常に寄り添っていた。


ある日誉はハッピーの側でおしっこのような匂いを感じた。

だがハッピーは特に漏らしている様子もない。

ふと、ハッピーの口臭が少し変わっている事に気がついた。

ハッピーの口から微かにだがおしっこの臭いがしていたのだ。


誉は何かのテレビで見た尿毒症という病気の名前が浮かんだ。

まさかとは思いつつもおかんとすぐに病院へと連れていく事にした。


動物病院でハッピーは診察を受ける。


病院で獣医の先生は臭いを確認しただけで

「尿毒症やねぇ…かなり症状進んでるかもわからん、腎臓病やわ…」


誉は頭が真っ白になった。

「腎臓病って…おとんのやつやん…」とぼそっと呟く。

「ハッピーはどうなんですか…?」おかんが先生に問いかける。


「ひとまず薬で様子見よう。しっかり水を飲ましてあげて。後はこの子の生命力次第…なんとかおしっこ出してくれたら少しはましになると思う」医師も暗いトーンで告げる。


「そうですか、わかりました。」おかんも暗い。


誉は涙が止まらない。

するとおかんが

「まだ泣いたあかん、ハッピー頑張ってるんやから!」おかんも泣きそうになりながら誉を元気づけた。

「そうやな。」誉は自分を奮い立たせる。

「ハッピー頑張ろな!絶対元気になってや」誉は涙を拭いながらハッピーの頭を撫でて語りかけた。


ぐったりとしたハッピーを家へと連れて帰る。


ハッピーの暴飲暴食は腎臓病を示唆する物だったのだと誉はこの時初めて気がついた。


キミがとても心配そうにハッピーに寄り添っている。


誉は電気を消して布団に入る。

もっとハッピーを気にかけてやっていれば、少しでもおかしいと思った時にすぐに病院に連れてやっていれば、そんな後悔が誉の頭の中をぐるぐると巡る。


堪えていたものが汲み上げてくる。


この日誉は一晩中泣いた…まくらがびしょ濡れになるほど…



ハッピーの様子は一向に良くなる兆しがなかった。

それどころか日に日に衰弱していき、とうとう歩けないほどになっていた。

もうおしっこどころか、うんちも出なくなりお腹パンパンにはっている。

とても苦しそうだ。


この頃キミはハッピーから片時も離れず、誉もずっと側に寄り添っていた。

なんとかおしっこもうんちも出てくれ、毎日毎日そう願った。

だがハッピーの状態は悪くなるばかり…


「頑張ろうな!ハッピー!」キミが頻りに声をかける。

ハッピーはもうほとんど反応する事ができず目だけをこちらに向けてくれるので精一杯だった。


この日は休みの前の日で夜遅くまでハッピーに寄り添っていた。

誉はキミが見てるからとキミより先に布団に入ったのだった…。



次の日泣きじゃくるおかんに誉は起こされる。

「誉…ハッピーが…」おかんはそれしか言葉にできない。

誉は飛び起きてキミのいる部屋へ走る。


そこには、目を真っ赤にして涙を流すキミの姿、そして生きているようにしか見えない安らかに眠るハッピーが居た。


誉は泣き叫びながらハッピーを抱きしめた。

「よう頑張ったな、しんどかったなぁ…やっと楽になれたんや」誉は涙を流しながら話しかける。

「いっぱいいっぱい幸せ運んでくれてありがとうな、大好きやで。」

精一杯の感謝と愛情をハッピーに伝えた。


キミが静かに語り出す。

「昨日の夜中な、ハッピーチラチラこっち何回も確認しててん…」キミは涙を流しながら話す。

「ほんでおしっことうんち両方してんやん。それ見て安心してもうて寝てしまったんやんか…ほんで起きたら…」涙で話す事ができない。


少し落ち着くとキミが続けた。

「多分最後にチラチラ確認してたんは寝たかどうか見てたんやと思う。ほんで安心させるために最後の力振り絞って出したんやわ。最後の最後まで空気読む賢いやつやったんやで」


誉も同じ事を思っていた。恐らく安心させたかったのだろう。


うちに来てから気を使い、空気を読んで賢くしていたハッピーが、この時とても肩身の狭い思いをしていたのではないかととても後悔した。


今まで歴代の家族達と別れを告げてきた平戸家だが、誉は別れをする度に後悔してしまっていた。

 

全力で愛を注いでもやはり最後は後悔する事ばかり考えてしまうものなのだ。


この日はハッピーと共に1日過ごそうと家族はみなハッピーを囲んで夜を明かした。



次の日、誉とキミとキミの嫁のまさよでハッピーのお線香を買いに出掛けた。

買い物を済まし家へ帰ると、おとんしか居ないはずなのにハッピーの側にお線香が焚かれていた。


自分でプレゼントしておいてなんだが、あれだけハッピーに嫉妬し毛嫌いしていたおとんが、ハッピーにお線香を焚いていたのだ。


キミと誉はそれを見てまた泣いた。


誉はお線香が焚かれたハッピーの側へ行き

「ハッピー最後にこんな事してもらえて良かったなぁ」とハッピー涙の粒を落としながら語りかけた。


誉は最後におとんがようやくハッピーを受け入れたような気がして嬉しくて仕方なかったのだった。


その日の晩おかんと誉は2人で話しをしていた。

するとおかんが

「ハッピーほんまえらかったな」泣きながらハッピーを撫でる

「きっとハッピーがおとうさんの癌も腎臓の病気も一緒に持って行っておとうさん助けたんやで…」

「じゃないとおとうさんの病気の回復の凄さ説明つかんやん」


誉も同じことを思っていた。

癌があんなに綺麗に完治した事、治るはずのない腎臓病が回復していき、尚且つハッピーがその腎臓病で死んだ事。


偶然にしてはでき過ぎていると誉も思い、とても神秘的な何かを感じずには居られなかったのだ。



幸せと名付けられたハッピー。

おかんを幸せにする白い天使だとばかり思っていたハッピー。

でも実は、おとんを助けるために現れた使者だったのかもしれない。

もしそうだとしたら、自分が毛嫌いしていたハッピーに命を救われたという皮肉な結末だと誉は思った。

何はともあれ平戸家に幸せを運んだ事に違いはない。


「ハッピーほんまにありがとう、これからもずっと見守っててな」


その後ハッピーは火葬され兄弟と実家に分骨されみんなを今でも見守り続けている。

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