第21話
僕が言葉を失ってから、優海は一旦席を立ち、自分と僕の分のウーロン茶を注いで持ってきた。
「まあ、飲みなよ兄ちゃん」
僕は返答代わりに、ほうっ、と息をついた。両手でグラスを握るものの、口元に持ち上げるだけの余力はない。
やはり、優海の心は暴力性に囚われたままだったのだ。このままでは、優海はいつか捕まるし、その前に誰かを殺してしまうかもしれない。
今更ながら、僕は自分の無力さと、楽観主義を呪った。ゲーム中毒を脱したということと、優海の胸中から暴力性が抹消されたこととはイコールではない。
現に、優海は動物を虐待したり、部屋の壁を殴ったりした前科があるのだ。ゲームを止めるくらいで、どうして『優海はかつての優しい妹に戻ってくれた』などと思ってしまったのだろう。
「兄ちゃん、あたしのこと、許せないと思う?」
特に気遣わしい態度も見せず、優海は淡々と告げる。
しかし、許すも許さないもない。それ以前の問題だ。僕と優海の間には、『他者を傷つけてはいけない』『暴力に頼ってはいけない』という共通認識が成り立っていないのだ。
もう何を言い、どう祈っても、優海は元には戻ってくれない。僕を支えてくれる唯一の肉親が、暴力という怪物の魔の手に捕らえられ、そして僕にはその怪物を倒すだけの技術も知力も作戦もない。
僕は、非力だ。しかし、優海が質問を投げかけてきたのだから、僕は返答を迫られている。
『許すことはできない』と答えようと唇を湿らせた、その時だった。
「うわ!」
「おっと、着信だ」
電子音が僕の耳朶を打った。優海のスマホが鳴りだしたのだ。
「もしもし、麻実姉ちゃん? うん、今は兄ちゃんと話してるところ。え? ああ、隠しようがなくってね。睡眠薬の分量、少なかったんじゃない? うん、うん、分かった。それじゃ」
優海は手早く話を終え、スマホをポケットに突っ込んだ。それからすっと、滑らかな挙動でベレッタを取り出した。弾倉を取り出し、残弾を確認する。
優海の手中にぴったりと収まる小振りな拳銃。その銃口は、ゆっくりと僕に、それも眉間に向けられた。
「一緒に来てもらおうか、兄ちゃん」
「ど、どこへ?」
返事が裏返る。自分の声を抑えられないほど、僕は驚き、恐怖し、絶望していた。
そんなことには無頓着に、優海は語った。
「兄ちゃんは事情を知ってしまったからね、一緒に来てもらおうか。でなければ、兄ちゃんに怪我してもらうことになるかも」
銃口は下ろされ、その矛先は僕の腕へと向けられた。確かに、腕を負傷するくらいなら、命に別状はないかもしれないが。
それにしても、この悪役じみた台詞と、妹としての健気さのギャップは如何なものだろう。
「じゃ、行こうか。麻実姉ちゃんのところへ。すぐに迎えの車が来るから」
優海は銃を下ろし、僕の正面から立ち上がって、窓から下を見下ろした。雷光が一瞬、優海の背中に影を作ってみせた。その影が僕を嘲笑っているように見えて、僕は改めて恐怖心を煽られた。
※
「来たよ、兄ちゃん」
優海はいつもの活発さを取り戻し、無邪気に僕に振り返った。
今更ながら、何を持って行ったらいいのか戸惑う僕。それを察したのか、優海は『何も要らないよ』と言って、僕に手招きした。
「それじゃ兄ちゃん、先に外へ」
優海に促されて、僕は玄関ドアを開けた。優海はきっと、僕に背後を取られないように警戒しているのだろう。とはいっても、後ろから優海を羽交い絞めにする技量や勇気は、僕は持ち合わせていない。
「さあ、兄ちゃん。多田さんを怒らせるとおっかないからね」
「た、多田さん?」
「ああ、兄ちゃんは知らなかったんだっけ」
階段を下りながら、優海は僕に説明した。
多田克仁、二十五歳。大代麻実の腹心の部下にしてボディガード。麻実より年上ではあるが、麻実の方が観察力も洞察力もある――早い話、頭が切れるので、それを認めて副司令の座に自ら志願したらしい。
きっと、麻実とコンビを組んでいるのはこの男だ。
「早かったね、多田さん」
優海がそう言うと、多田は黙って頷いた。
アパートの前に乗りつけられていたのは、よく見かける軽自動車だった。
「兄ちゃんは後部座席に。あたしの隣ね」
乗り込みながら、優海は『麻実姉ちゃんは?』と多田に尋ねた。
「本部で待機している。これを兄貴に」
なるほど、本部というものがあるのか。関係ないが、随分と声の低い男だ。などと思っていると、優海は多田から黒い布を受け取っていた。
「本部の場所は極秘だから、兄ちゃんはこれで目隠ししてね」
「え? ちょっと待って……」
と言いかけたが、優海が銃を持っていることを承知していた僕に、断ることができるはずもなかった。
※
しばらく車はゆっくりと走行した。街中なのだろう。ここで騒げば誰かが気に留めてくれるかもしれないが、僕が『物理的に』黙らされることもあり得る。想像しただけで、僕の背筋はぶるり、と震えた。
やがて車の速度は上がり、滑らかに走るようになった。幹線道路に出たのだろうか。僕は緩やかに右に、左にと揺さぶられ、だんだん吐き気を催してきた。乗り物酔いには免疫がある方だと思っていたが、今は例外ということなのだろう。なにせ、下手な言動を取れば、重傷を負わされる可能性があるのだから。
それから、再び車は減速し、停車した。降りろと指示されないところから察するに、信号に引っ掛かったのか。
その時、潮騒が聞こえてきた。海に面したところに出たのだ。何のメリットがあるかは知らないが、麻実たちの強盗団は沿岸を根城にし、街中まで出てきて犯行に及ぶというルーティンを築いているらしい。追跡を免れるためだろうか。
それから三回目の停車時に、横から声をかけられた。
「着いたよ、兄ちゃん」
「降りろ。塚島優翔」
優海の声はともかく、多田が発するドスの効いた重低音に、僕は短い悲鳴を上げるところだった。
「目隠しはまだ取るな。質問もなしだ」
落ち着け。まだ殺されると決まったわけじゃない。僕は二人に悟られないように、小さく深呼吸を繰り返した。僕の体内時計が正しければ、僕がアパート前で車に乗せられてから、十五分ほどが経過している。
「ごめんね、兄ちゃん。まだ兄ちゃんは部外者扱いだから、我慢して」
優海の声が背後から聞こえてくる。すると、ガチャリという金属音と共に、僕の手首は腰の後ろで完全に固定されてしまった。手錠をかけられたらしい。僕は音を立てて、苦い唾を飲み込んだ。
気づけば、僕は頭から土砂降りの雨を受けていた。降りろと言われてからしばし、どうして雨に気づかなかったのだろう。それほど意識が回らなかったということか。
僕が突っ立っていると、多田の低い声が聞こえてきた。
「右手を出せ」
「え?」
「早くしろ」
ややイラつきを孕んだ声音に、僕はさっと腕を突き出した。何か把手のようなものが掌に触れる。同時に、雨が止んだ。否、防がれた。どうやら、今渡されたのは傘だったらしい。
意外な気配りに、僕はようやく緊張の糸が緩むのが自覚された。しかし、その心の隙を見計らったかのように、聞き覚えのある女性の声が、僕の鼓膜を震わせた。
「いらっしゃい、優翔くん。ごめんなさいね、無理やり連れてくることになって」
「大代……麻実、さん」
目には見えなくとも、彼女の日本人離れした姿は容易に想像できる。先日、Skypeで画面越しに出会ったばかりだ。
「そんなにかしこまらなくてもいいのよ。多田くん、優翔くんをビルの中に。風邪を引いてもらっては困るわ。優海ちゃん、どこか落ち着いた部屋まで優翔くんを連れて行って。二階ならどこでも使ってくれて構わないから。そこで少し、話をしましょう」
「はーい」
テキパキとした麻実の指示に従い、優海は僕の肘のあたりを掴んで『こっちだよ』と一言。
数歩進むと、頭上から響いていた雨音が止んだ。と同時に、目隠しが外され、鈍い蛍光灯の灯りが目に入ってきた。
「こ、ここは?」
「どこかは秘密。だからアジトにできるんじゃん」
まあ、それはそうだが。
僕はまだ手錠をかけられたままで、あたりを見回した。まず目に入ったのは、僕の先を行く優海だ。いつもの明るい調子を取り戻している。
ここはいわばエントランスホールで、部屋の隅に多田と、もう一人の男が立っていた。二人共、拳銃を差したホルスターを肩から吊っている。
麻実はと言えば、玄関でもう一人の護衛の男と話し込んでいる。
「ほら、行くよ、兄ちゃん」
僕は頭上の灯りのように、ぼんやりとした頭で考えた。いや、考えようとして上手くいかなかったというべきか。そうでなければ、どうして拳銃に囲まれた中で落ち着いていられるだろう。
ゆっくり階段を上っていくと、数人の若い男女とすれ違った。これは一体、なんの集まりなのだろう? 分かっているのは、強盗を始めとした犯罪集団ということだけだが。
「はい、この部屋だよ」
優海に促され、僕は廊下を折れて個室に足を踏み入れた。
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