第20話
「ん……あれ?」
僕は気がついた。いや、目を覚ましたというべきか。目の前には食べかけの野菜炒めの皿が置かれ、右手には箸が握られている。上半身はテーブルに寄りかかるように載せられており、随分だらしない格好になっていた。
「僕、寝てたのか……?」
身体が重い。これは、寝覚めの悪かった時の感覚に似ている。いや、寝覚めそのものだ。つまり僕は、野菜炒めを食べかけのまま、眠ってしまったということか。
しかし、食事中に突然居眠りをしたことなど、今回を除いて一度もない。思うに、今は何らかの異常が発生しているのではないか。だが、いったい何が?
ようやく味覚が覚醒してきた。なんだか、妙に甘く、それでいて不快な苦みを含んだ感覚を覚える。この野菜炒め、どうやって作られたんだ? 調味料は何を? やはり、優海に料理を任せるのは早かったのか。
いや待てよ。そもそも、こんな味つけのできる調味料などあるだろうか。薬剤がぶちこまれたわけでもあるまいし。
その時、廊下に繋がるドアの向こうで物音がした。優海の方が目覚めが早かったらしい。時計を確認すると、既に夜の八時を回っている。真夏とはいえ、流石に外は真っ暗だ。
「よっと」
僕は、ぼんやりした頭を回転させつつ、ゆっくりと立ち上がった。
「優海、いるのか?」
反応はない。ただ、何かの擦れるような音がする。
僕はもう一度、優海と思われる人物に声をかけてから、ドアを押し開けた。すると同時に、さあっ、という軽い音がした。バスルームからだ。
「優海、大丈夫か?」
と呼びかけて、僕は危うく転びかけた。優海が脱いだ衣服が、脱衣所に散乱している。
「だらしないな」
自分のことを棚に上げ、そう呟いた直後、僕は気づいてしまった。
優海の衣服に、赤いものが滲んでいることに。正確には、赤黒いものが雨に晒され、淡く広がったと思しきものだ。
「こ、これって……」
僕はそっとしゃがみ込み、優海のシャツを取り上げた。それから、
「うわあっ!」
慌ててそれを投げ出した。これは、もしかして血ではないのか。
即座に脳裏に浮かんだのは、強盗、大代麻実に襲われた時のこと。まさか優海も、同じ目に遭わされたのか?
僕は正気でいられなくなり、バスルームの扉を引き開けた。
「優海! 無事か!」
「あ」
そこには、生まれたままの姿でシャワーを浴びる優海の姿があった。しきりに右腕をスポンジで擦っている。血か? 出血したのか?
優海が素っ裸であることなどお構いなしに、僕はバスルームに踏み込み、優海の右腕を引っ張った。
「ちょ、なんだよ兄ちゃん!? 覗くだけじゃ物足りないのかよ!?」
と、優海は喚いたが、僕の胸中はそれどころではなかった。
「優海、大丈夫か? 怪我は? いったい誰にやられたんだ!?」
シャワーに濡れることもお構いなしに、僕は優海に顔を近づけた。それこそ、鼻先が触れるほどに。
「警察、いや、救急だ! 早く連絡しないと! 誰がこんな酷いことを!」
「だっ、誰でもねえよ! 出てけ、変態!」
「だってお前、血が出て――」
そう言いかけた時、優海の口から飛び出したのは、恐るべき一言だった。
「あたしの血じゃねえよ!」
「止血だ! 綺麗な布を――って、え?」
僕はようやく、優海が無事であることを認識した。
「ジロジロ見るなよ! 家族だからって、あたしは女だぞ! 異性なんだぞ!」
しかし、優海が喚くことは僕の頭蓋骨を掠めた程度。それよりも重要な言葉が、時間差で僕の胸に突き刺さった。
「お前の血じゃ、ない?」
困惑が僕の顔に出たのだろう、優海ははっとして両手で口を覆った。
「あっ、やべ……」
「どういう、意味だ?」
僕は自分が幽体離脱して、身体が自分の意志とは関係なく喋るのを見ているような気分になった。優海が右腕から洗い流そうとしているのが自分の血でないのなら、誰の血だというんだ? その困惑が、ただでさえ崩壊しかかっている冷静さを突き崩していく。
思わず後ずさりする。一歩、二歩、三歩。
言葉を失った僕に向かい、優海はさっと胸の前で腕を組んでから、深く俯いた。
「ちょっと待って。今、上がるから」
「あ、ああ」
僕の喉から発せられたのは、返答とも嘆きともつかない、情けない音だった。僕はびしょぬれのまま、バスルームと脱衣所を抜けて廊下に。さらにそのまま摺り足で、廊下をリビングへと向かっていった。
※
「取り敢えず着替えたら、兄ちゃん?」
「……」
「兄ちゃん?」
「……あ」
「しょうがないな、あたしが着替え準備するから、タオルで身体、拭いときなよ。風邪ひくから」
優海は宣言通り、すぐにシャワーと着替えを終えて、僕の部屋に入ってきた。この時の優海の言葉は、何故か刻銘に記憶されている。事態があまりにも奇怪かつ驚嘆すべきものだったので、映像と音声がセットで僕の脳にインプットされてしまったようだ。
「ほら、これ着て。兄ちゃんのシャツとズボン。あたしは向こうに行ってるから」
そう言って、優海はまた廊下に引っ込んでしまった。僕は、のそのそとシャツとスラックスを脱ぎ、シャワーを被った部分を拭いて(ほぼ全身だったのだけれど)、新しい上着とズボンに手足を通した。
本来だったらここで、着替え終わったことを優海に知らせるべきなのだろうが、僕の頭の中はそれどころではなかった。様々な憶測が飛び交い、落ち着かなかったのだ。落ち着いたかと思えば疑惑に駆られ、そうすると再び落ち着きを失い、しばらくするとまた落ち着くものの、やはりまた懸念に囚われ――といった具合だ。
「兄ちゃん、着替えた?」
ドアの向こうからの優海の声。僕は肯定の意志表示を試みたが、喉から出たのはやはり貧弱な呻き声。ただ、優海はそれを僕の意図通りに捉えてくれたらしい。ガチャリ、と音を立てて、廊下側のドアが引き開けられた。
優海はいつもの、パーカーにだぶだぶのズボンという格好だった。
「もう隠しようがないからね、全部話すよ。あたしが今日、何をしたのか」
僕はごくり、と唾を飲んだ。
「今朝、麻実姉ちゃんから連絡があったよ。自分たちのグループに入らないかって」
「ッ!?」
僕はテーブル上に身を乗り出した。しかし優海は、淡々とした姿勢を崩さない。『自分たちのグループ』というのは、十中八九、連続強盗犯のことだろう。
「あたしはOKした。勉強ばっかりやってるのもつまらなかったし、前からアプローチは受けてたし」
「お前!」
反射的に、僕は手を出していた。優海の胸倉を引っ掴む。が、優海は全く無抵抗だった。そして僕は、先日優海の頭部を強打してしまったことを思い出し、慌てて手を引いた。あの時も、優海は反撃しようとはしなかったからだ。
「す、すまない」
「いや、別に」
優海は襟元を直し、言葉を続けた。
「それで、今日の午前中に、こっそり麻実姉ちゃんに会ってきたんだ。詩織姉ちゃんに会う前にね。睡眠薬を貰う手筈だった。それを、兄ちゃんの野菜炒めに混ぜて、兄ちゃんが気を失ってる間に『初仕事』をしてくるつもりだった。まさか後処理に、こんなに時間がかかるとは思わなかったけど」
そこまで語ってから、優海はじっとこちらの目を覗き込んだ。まるで、質問はないかと探るような目つきだ。会話のボールを、なんとか返さなければ。
『後処理』とは、負傷させた相手の血を洗い流すことだろう。と、いうことは。
「相手はどうなったんだ? まさか、亡くなったわけじゃ……」
ニュースで見ていたが、麻実たちの強盗団は殺人を一度も犯していない。被害者の口止めなどは試みていないのだ。
「生きてるよ、たぶんね。麻実姉ちゃんがすぐに病院前まで運んでいったから」
つまり、相手は軽傷では済まなかったわけだ。それは、優海の衣服に付いていた返り血からも考えられる。では、いったいどうやって優海は相手を傷つけたのか? まさか。
「お前、鉄パイプや包丁くらいで相手を襲ったわけじゃないな。もしかして――」
と言いかけた僕から目を逸らし、優海は背後から、自分のバックパックを取り出した。ずぶ濡れになっているところを見ると、優海が犯行当時に携帯していたのだろう。
そこから出てきたのは、銀色に光る、九ミリ口径の、火薬臭い金属の塊だった。
「お前、それは!」
覚悟していたとはいえ、いざ目の前に実物を晒されると、僕は喉が干上がるような緊張感に襲われた。
慌てて後ずさるが、背中がベッドにぶつかって止まらざるを得なくなった。
説明されるまでもない。ベレッタ92。その銃口には、僅かに血が赤茶色になって付着していた。
「こ、これでお前、人を撃ったのか?」
「他の用途、ある?」
動揺極まる僕に対し、優海は飽くまで淡々としていた。
優海は、変わってしまった。僕の唯一の親族である『妹』から、他者を傷つけることを厭わない『犯罪者』へと。
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