第19話【第五章】

 戦った本人が一番悔しいし、悲しい。

 そう言われても、今の僕の心には上手く入ってこない。優海の、まさかの都道府県大会での敗退。スナイパーに狙撃されるとは、優海にとっても想定外だったようだ。

 ここで勝っていたとしても、優海は全国大会への出場を棄権する手筈だった。そうすれば、結果は変わらないように見えるかもしれない。

 しかし、自分の努力が実らなかったというのは、優海にとっては認めがたいことだっただろうし、僕にだって悪い意味で驚くべきことだった。


 大会の一回戦、すなわち優海の出番が終わってから、僕たちはすぐに帰途に就いた。


「おい、優海」


 先を歩く優海の背中に、僕は声を投げかけた。


「雨、降ってるぞ。折り畳み傘、持ってるんだろう?」


 優海はシカトを決め込む。いや、聞こえていないのかもしれない。頭がいっぱいになってしまって。

 じめじめ、さわさわと降り注ぐ雨。これが優海の悔しさを洗い流してくれたなら、と僕は強く願ったが、そんな雨があるわけがない。仕方がないので、僕が折り畳み傘を展開し、そっと優海に寄りそうことにした。


 突然雨が途切れたことで、優海は驚いた様子だった。しかし、僕が傘を傾けてやっていることに気づくと、すぐに俯き、遅々とした歩みを再開した。

 これは重傷かもしれない。あれだけ練習し、技術を体得した結果がこれか。遠くからの狙撃で、しかも最後に残った敵を始末するとは。なんとも卑怯なやり口ではないか。

 だが、それがルール違反ということにはならない。狙撃ポイントの確保をするために、スナイパーが極めて慎重に動かざるを得なかったということもまた、確たる事実なのだ。


 今までの優海のゲームへの執着は、自身と僕の生活を支えるためにあった。たとえそれが、副次的なものであったとしても。そうして優海は、小学校時代から秘めていた暴力性を発散させていたのだ。

 その問題が解決されたのだから(そう優海が決断したのだから)、残された結果に頓着するのは馬鹿げている。


 そう、馬鹿な話なのだ。それでも、それは理性の上での話。すなわち、考えられる範囲においての筋書きだ。『頭』で考えていただけの話なのだから、『心』がついてくるか、納得できるかどうかは分からない。机上の空論と紙一重である。

 だからこその悔しさ、悲しさなのだ。


 きっと、僕の方が傷は浅い。そう思い、僕はそっと優海の肩を抱き寄せた。やけに冷たく感じられたのは気のせいだろうか。


         ※


 日が変わって、翌日。僕たちの引っ越しの一週間前。

 雨はその勢いを増し、落雷も見られるようになっていた。こんな時に外出する者はそうそういないだろうと思っていたが、ここに一人、『ありがたい例外』がいた。


「そうですか……。それは残念でしたね」


 気遣わし気に声をかけてくれたのは、訪問客である詩織だった。僕は普段通りを装う努力ができたが(その努力が実ったか否かは神のみぞ知る)、優海は沈んでいた。正座した膝の上に拳を載せ、じっと床の一点を見つめている。

 昨日の今日で『残念でしたね』と言われては、優海の態度の方が素直でいいのかもしれない。だが、僕まで黙り込んでしまってはどうにもならない。


「一応優海には、一週間くらい休んでもらおうと思います。勉強とか、進路選択とか、ですけど」

「そうですね」


 詩織もどこか、歯切れの悪さを感じさせる。それほど僕たちが気の毒そうに見えたのだろうか。

 しかし、詩織が次に発した言葉は、僕と優海の胸をえぐるのに十分な威力をもっていた。


「では、今度は私がお話する番ですね。私、優海さんの担当を外れることになりました」

「え?」


 僕は自分の耳を疑った。手を床について『申し訳ありません』と頭を下げる詩織。


「そ、それは……」

「上層部の決定です。代理の者は、まだ決まっておりません」

「そんな、ようやく優海と仲良くなってくれたのに!」

「私だって不服です。しかし、以前から上層部に、私と優海さんを引き離そうという意図があったことは感じていました。本当に、申し訳ありません」


 再び頭を下げる詩織。続く言葉を見つけられないでいる僕たちを前に、詩織はゆっくりと顔を上げ、語りだした。


「もしかしたら、こうして三人でお話の機会を持てるのはこれが最後かもしれません。話を聞いていただいてもよろしいでしょうか。どうして私が、青少年の非行者予備軍を助けようと思ったのか」


 頷くことしかできない僕たちを前に、『私の自己満足に過ぎませんが』と言って、詩織は語りだした。


「私、両親の顔を知らないんです」


 これには僕だけでなく、優海もはっと顔を上げた。詩織は僕と優海の間で視線を動かしながら、飽くまで淡々と言葉を紡ぐ。


「私の記憶にあるのは、五歳の頃に保護施設で行われた私の誕生日会です。当時、私は他の子どもたちに『親』というものがいることを察していましたから、保母さんたちを質問責めにして随分困らせました。私の『親』はどこにいるのかと」


 詩織の目が、寂し気に斜めに揺れた。


「保母さんたちも、当時の私には説明できなかったでしょうね。育児放棄の罪で刑務所にいるだなんて」


 外の雨音や雷鳴が、遥か遠くのものに感じられた。そのくらい、詩織の言葉は僕たちの胸に刻み込まれてくる。彼女もまた、程度の差こそあれ、僕たちと同じ孤児だったとは。


「だからこそ、私はなんとか高校を卒業して、孤児たちの人生の裏方、バックアップとして生きる道を選んだんです。自分の経験を語ることで、彼ら、彼女らの人生を正しい軌道に戻せれば、と思いながら」


 そうして初めて与えられた仕事が、塚島優海の人生相談(時には議論)と経過観察だった、と。


「なにぶん初めての案件でしたから、お二人を混乱させてしまうことも多々あったと思います。でも、私は嬉しかった。優海さんが勉強にやる気を出してくれて」


 詩織は軽く首を傾げ、目を細めて穏やかな笑みを浮かべた。それから改めて姿勢を正し、僕の目を真正面から覗き込んだ。


「優翔さん。どうか優海さんを支えてあげてください。あなたの妹さんは、立派な将来を歩むための努力を惜しまないという覚悟ができています。どうか、励まし続けてあげてください」


 僕はやはり言葉を発することができず、しかし大きく頷くことで、肯定の意を示した。


「では、失礼します」


 再び頭を下げた詩織に向かい、僕もまたぐっと腰を折った。


「お見送りは結構ですよ、ひどい雨ですから」


 そう言って、詩織は寂し気に口元を綻ばせながら、部屋を後にした。

 バタン、ガチャリと玄関扉の閉まる音がする。


「はあ……」


 僕は正座したまま、右の掌で顔を覆った。泣いていたわけではない。なんといえばいいのか。ただ、現実を直視するのが辛かったのかもしれない。

 しかし、そんな所作を取っていたのは一瞬のことだった。


「ねえ、兄ちゃん」


 優海は、やや暗いながらも落ち着いた口ぶりで話し出した。

 

「今日の晩飯、あたしが作ろうか?」

「どうしたんだ、いきなり?」


 僕はそっと自分の顔から手を離し、優海の方を見遣った。


「兄ちゃん、須々木さんのコンビニで貰ってくる食べ物だけど、たまには材料だけ貰ってこようか。コンビニ弁当ばっかりだと飽きるでしょ?」


 何を今更、とは思ったが、確かに優海の言うことには一理ある。いや、図星だったというべきか。既成の弁当に飽きてしまったということは。


「でも、材料はあるのか? この雨の中で外出するのは……」

「大丈夫だよ、詩織姉ちゃんだって歩いてきたんだから。あたし、調達してくるよ」


 まあ、そこまで言うなら止める理由はないか。僕が納得したのを察したのか、優海はずいっと顔を寄せてきた。


「兄ちゃんは何が食べたい?」

「お前に任せるよ」

「じゃあ、適当に野菜炒めで」


 ふむ。優海は料理をしたことはないはずだが、野菜炒めなら失敗のしようもないか。


「分かった。じゃあ、気をつけて」

「おう!」


 いつの間にか、優海は元気を取り戻したらしい。ゲーム大会で敗れたのは無念だったろうが、それも昨日のこと。今日は今日の風が吹く、とでもいうように、新しい何かを始める方向に心の舵を切ってくれたようだ。


 僕はしばし、部屋に一人で座ったままでいた。優海のお陰で、僕の方まで落ち着きを取り戻したのかもしれない。

 二人三脚。これこそ、僕と優海の理想的な在り方なのだろう。


「さて、フライパンはどこにやったかな……」


 全くと言っていいほど使ったことのない調理器具を探しに、僕は立ち上がって、廊下に併設された狭いキッチンへと向かった。優海がすぐ調理に取りかかれるように。

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