第17話

 それから僕の記憶は、やや飛び飛びになった。ふと気がつけばバイトが始まり、また気がつけば昼食を摂っており、またある時は急に目覚めて、夢と現実がごちゃ混ぜになることさえあった。

 自分が他人に暴力を振るう。それは、自らの暴力性に自身が巻き込まれてしまうということであり、かつての僕と優海の両親の姿そのものだ。それだけはどうしても避けたかったのだけれど、まさかこれが親から受け継いだ血の宿命とでもいうものなのだろうか?


 兄は対人暴力を。妹もまた、ゲームの中とはいえ殺人を。そんな僕たちは狂っているのだろうか。

 そんな中、救いとなったのは詩織の訪問だった。優海は、やや意外なことではあるが、きちんと詩織から課された宿題をきちんと行い、なかなかの正答率を挙げていた。


 また、僕は特に何もすることはなかったが、影響を受けなかったと言えば嘘になる。恋愛感情かどうかは別として、僕は詩織の姿、仕草、そして笑顔に、微かな安らぎを見出していた。以前、こんな風に三人で過ごす時間がずっと続けば、と夢想したのは、僕の理想からあながち外れてはいなかったらしい。


 しかし、奇妙なことがある。大代麻実だ。

 僕が優海の頭部を殴打したあの日以来、何の音沙汰もない。Skypeや電話、LINEを毎日確認するのだが、少なくとも麻実は、僕との接触は試みていない。


 やはり、優海と個別にコンタクトを取っていると考えるべきだろうか。そうなると、僕には打つ手がない。だが、その確認のために、優海のスマホを勝手に覗き見るようなことはしなかった。


 そんな真似は、願い下げだ。優海のプライバシーを侵害するなど――と思ったのだけれど、優海に無断で彼女の過去、すなわち動物虐待の事実を調べ上げてしまった。そのことからするに、僕はもうとっくに地雷原に足を踏み入れているのかもしれない。


 などなど悩んでいる間に、ようやくFPS都道府県大会の前日となった。

 僕は、胸がざわついてどうにも落ち着いていられず、その日と翌日はバイトを休ませてもらった。


「兄ちゃん?」

「ああ」

「どしたの? 檻の中の熊みたいだよ」


 なんだその比喩は。だが、抱いている感情はどうあれ、この狭い部屋の中でじっとしているのが困難であることには違いなかった。

 ちなみに、優海が賞金稼ぎを止めることに基づく新居への引っ越しは、来週を予定している。環境的にはあまり変わらないだろうが。


 リロードし、カバーをスライドさせる(どうして僕までこんな用語を覚えてしまったのだろう)、その一連の動作の練習を繰り返す優海。今はもう、NPC相手のプレイはしていない。自分の動作を確認し、他の猛者のプレイ動画をYouTubeで繰り返し観るばかりだ。


 少しでも落ち着こう。僕は優海の部屋(壁に残された殴打痕は隠しようがない)から出て、自室でノートパソコンを開いた。


「明日の会場は、っと」


 何度も繰り返し確認したのだが、自分を冷静にさせるために、再度会場の場所と開場時刻、試合開始時刻を確認する。


「兄ちゃん、あたしシャワー浴びて寝るけど、構わない?」

「うん。明日は少し早起きしろよ。現場の雰囲気を掴むのは重要だからな」

「あーい」


 その日は特にそれ以上のことはなく、僕も優海と入れ替わりに入浴して寝つこうとした。

 しかし、思うように頭が眠りに入ってくれない。僕は寝返りを打ちながら、自分の考えを整理した。


「優海は明日で、ゲームを止めるつもりなんだよな……」


 都道府県ごとに行われる、地方予選。全国大会への倍率、約十倍。

 このゲームソフトは、最高で十人同時プレイが可能だから、一回戦の優勝者が二回戦、すなわち決勝に進むことができる。一回戦さえ突破できれば、そして優海が棄権すれば、優海のFPS人生は終わる。

 その事実を前にして、僕が今更どうしようというのだろう? どうしようもない。優海の実力と少しばかりの運を信じる他には。


 僕はふん、と鼻を鳴らした。これ以上、優海を助けるために『出しゃばる』ことができると思っている自分に、嫌気が差したのだ。

 僕はそっとベッドから降り、ゆっくりと襖を開けた。優海は布団の上で、すやすやと寝息を立てている。やや長めの睫毛は、どこにも憂いの影はなく、穏やかな雰囲気を漂わせている。

 こんな穏やかな寝顔を見たのは、本当に何年振りのことだろうか。

 僕はすぐに襖を閉め、今度こそ眠りについた。


         ※


「兄ちゃん、おはよ~」

「おう」


 翌朝、やけに早く目を覚ましてしまった僕は、集合時間と場所を確認していた。

 自宅から駅まで十五分、在来線で二十分、また徒歩で五分。午前九時集合で、九時半に最初の十人による対戦が開始される。場所は、新築された県立の大衆向け公共施設。

 こんな企画に県が全面協力するとは、時代も変わったなと思わされる。と、詩織に年寄り臭いと言われたことを思い出し、口元が綻んだ。


「兄ちゃん、あたしは準備できたよ。もう出発?」


 僕はパソコンのディスプレイ隅の時計に目を遣った。午前七時過ぎ。なるほど、ちょうどいい。


「よし、行くか」


 優海に先だって、玄関扉を開ける。最初に目に入ったのは、灰色に埋め尽くされた空だった。見事なまでの曇天。まるで今の僕の気持ちを代弁しているかのようではないか。


「優海、折り畳み傘はあるか?」

「うん。昨日、兄ちゃんが『天気の心配があるから持って行け』って言ったじゃん」


 そういえばそうだった。このところ、僕の言動と記憶はリンクしていない。一体何がそうさせているのだろう? いや、自問自答を繰り返す暇は、もう残されていない。

 優海は僕の前に出て、片手をアパートの屋根の下から差し出した。


「雨は降ってないね。早く行こう、兄ちゃん」

「そうだな」


 短く返答した僕は、優海と肩を並べて階段を下り、駅へと向かった。その間、優海と交わした言葉はない。しかしそれは、決して優海が機嫌を損ねていたり、ましてや過度の緊張を強いられたりしていたという意味ではなかった。

 現に、優海はこのゲームのメインテーマと思しき勇壮な曲を口ずさんでいる。僕がいない時は、音楽入りでゲームをプレイしていたのかもしれない。一度も聞いたことのない曲だったのに、僕の方まで励まされるような感触を覚えた。たとえそれが、殺人ゲームのテーマだったとしても。


         ※


「うわー、でかいなあ。それにこの人混み、すごいや」


 優海は天井を見上げ、周囲を見回しながら感嘆の声を上げた。

 新築された市民交流センター。今その入り口に、僕と優海は立っている。入り口は、メインエントランスと裏手のサブエントランスの二ヶ所。『プレイヤーの方は裏手にどうぞ』との看板が立っている。


「じゃあな、優海。頑張れよ」

「おう!」


 そう言って、優海は軽い駆け足で裏手に回っていった。


 僕はプレイヤーの保護者枠で、メインエントラスから入場した。この大会に使用されるのは、大・中・小とある中の大ホール。入場料は千円だったが、僕は保護者扱いのため無料で、しかも最前席での観戦が許可された。


 ホール内を見回すと、まず目に入ったのは白いスクリーン。十個に分かれるように線引きが為されている。ここに、各プレイヤーの観ている画面が投影されるらしい。

 その手前には長いテーブルがあり、十台のテレビが設置され、一台一台の間に仕切り板が設けられている。プレイヤーは、自分の操作しているキャラクターの画面しか観られないのだろう。


 やがて時刻は九時になり、九時二十分になり、九時二十五分になった。


《レディース・アンド・ジェントルメン! 盛り上がってるかーーー!!》


 突然会場に響き渡った、威勢のいい声。僕は思わず耳に手を当てた。


《さあ、今日は皆が待ちに待った、FPS都道府県予選だ! 夢のアメリカと賞金十万ドルを懸けた大一番の幕開けだ! オーディエンスの諸君、最高のスリルを味わう準備はいいかーーー!!》


 ウオッ、ともワアッ、ともつかない歓声が上がる。


《そしてプレイヤー諸君、悔いのない戦いをする覚悟はいいかーーー!!》


 再び会場が歓喜の渦に包まれる。コントローラーを握りしめる者もいれば、振り返って拳を突き上げる者もいる。優海はと言えば、軽く左右に首を倒し、ベレッタの弾倉をバチンと叩き込むところだった。


《さあ、ゲーム開始まであと三十秒だ! 皆、誇りをもって戦い、愛をもって応援してくれ! 分かったか!》


 会場の盛り上がりは最高潮に達した。


《十秒前! 九、八、七、六――》


 僕は両手を握りしめ、ごくりと唾を飲んだ。スクリーン上の、優海の観ている画面に注視する。そして、


《三、二、一、ファイア!!》


 戦いが、幕を開けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る