第16話

「優海、お前、自分の部屋を空けて何やってたんだ?」

「ああ、これ? 詩織姉ちゃんがくれた」


 優海が差し出したのは、『小学校総復習・算数編』だった。


「これを、お前が?」

「あたししかいないのに、誰が解くんだよこの計算問題! 面積とかもうわけ分からん!」


 ぐだぐだ言いながらも、優海はすぐに勉強机に向き直り、勉強を再開した。


 その姿を見て、僕は急に胸に込み上げてくるものを感じた。

 そうだ。社会の規範に則って、まともに勉強をする。大事なことじゃないか。


 さして時間は経っていない。Skypeの開始予定時刻まで、あと二十数分。僕は、優海と麻実の接触を阻む方へと動き出した。

 理由は明快。勉強という建設的なことに取り組み始めた優海を、犯罪者である麻実に接触させるわけにはいかない。


 いやしかし、ここでケリをつけておかなければ。優海と麻実は僕の感知し得ないところで合流してしまう可能性がある。このSkype通話こそ、僕が二人の間に入り、優海の手が犯罪に染まるのを防ぐ最初で最後の防衛線だ。麻実にきっぱり告げなければ。妹を犯罪に巻き込むな、と。


 未だにぶつぶつ文句を言いながら机に向かっている優海に、僕は語りかけた。


「優海。さっきな、兄ちゃん、麻実さんに怪我させられそうになったんだ」

「分数の割り算は、上と下を交換して……って何? 兄ちゃん?」

「麻実さんは犯罪者だよ。お前が簡単にコンタクトを取れる環境に、いてはいけない人間なんだ。だからSkype中、割り込ませてもらうぞ。お前に二度と、電話もメールも届かないようにしてやる」


 優海はようやく顔を上げた。


「兄ちゃん、今のそれ、何だって? 麻実姉ちゃんが犯罪者?」

「僕だって信じたくはない。けど、さっき僕は麻実さんに襲われたんだ! 怪我や盗難の被害には遭わなかったけど、もしかしたらお前も、その犯罪の手伝いをさせられるかもしれない。それは、兄として僕が許さない。そのあたりは兄ちゃんが、はっきり麻実を問い質す。いいな?」


 意外なことに、優海からの反対はなかった。僕の、優海に対する誠意が伝わったのか。

 しかし、それにしては優海は複雑な態度を示している。首を傾げ、目線を左右に飛ばし、自分で自分を抱くように腕組みを深くする。


「まあ、兄ちゃんがそう言うなら」


 そう優海が口にする頃には、八時五十五分を過ぎていた。


「よし」


 僕は大きく頷いてみせてから、パソコンと周辺機器の調整に入った。


         ※


 その通話は、実に呆気なく開始された。


《あーあー、優翔くん、優海ちゃん、聞こえる?》

「聞こえてますよ、麻実さん。今カメラを調整します」


 そう言って僕が操作すると、向こうからも映像が入ってきた。

 色素が薄いブロンズの髪を肩に流し、淡い笑みを浮かべている。十数年振りとはいえ、確かに画面の向こうの人間は、大代麻実その人だった。日本離れした高い鼻は健在だ。

 その背後に、芯の細い、しかし威圧感のある男性が立っている。顔までは映っていなかったが、きっと僕を襲った時の、麻実の相棒なのだろう。


《ハァ~イ、優海ちゃん。お久し振り! 私のこと、覚えてる?》

「あっ、本当に麻実姉ちゃんだ! 忘れるわけないよ、家出したあたしと兄ちゃんに、よくキャンディーくれたよね!」

《あー、そんなこともあったわね。思い出話をしたいのは山々なんだけど、ちょっと険悪な顔をしている人がいるわね。何かあったの、優翔くん?》

「あなたは犯罪者だ、大代麻実さん。何の用があるのか知らないが、これ以上僕たちに構わないでくれ」

《おおっと、単刀直入に言うのねえ。随分と嫌われたもんだこと。まあいいわ、前置きする手間が省けた》


 画面の向こうでパンパンと掌を打ち合わせる麻実。すると、優海が軽く身を乗り出した。


「麻実姉ちゃん、さっきから兄ちゃんが変なこと言ってるんだけど、本当なの? 姉ちゃんが強盗犯だとか」

《そうよ》


 あまりに端的な意志表示。確かに、昔から麻実には回りくどいことを言わないという一種の美徳が備わっていた。まあ、諸刃の剣になることもあるわけだが。

 しかし、その本人を前にしてなお、優海は驚いたり、嘆いたりはしなかった。そこを突いてきたのは、麻実だ。


《あれ? 意外と驚かないのね、優海ちゃん》

「うん。麻実姉ちゃん、結構合ってると思う」

「はあ!?」


 僕は『どういうことだ?』と優海に詰め寄った。しかし、優海の態度は淡々としている。

 画面に目を遣ったまま、優海は答えた。


「なんか、女の勘、ってやつかな。違和感がないんだよ、麻実姉ちゃんが強盗やってる、ってことに」

《まあまあ、女の勘だなんて! 言うようになったわね、優海ちゃん》


 まずい。これでは、優海と麻実の会話が噛み合ってしまう。妨害しなければ。


「な、なあ優海」

《ねえ、優海ちゃん。最近人手が足りないの。私たちと一緒にお仕事しない?》


 呆気なく先手を取られてしまった。黙り込み、しかし画面から目を逸らさない優海。そんな彼女を押し退け、僕はカメラにぐっと顔を近づけた。


「ふざけないでくれ、麻実さん!」


 なんとか話し合いの主導権奪還を試みる僕。


「今の優海は、暴力沙汰に対して敏感になってるんだ! 冗談でもそんなことは――」

《いやねえ、冗談じゃないわよ、優翔くん》


 麻実は全く動じる気配を見せない。


《優海ちゃん、FPSが好きなのよね? 愛用してる武器はある? ガバメント、トカレフ、カラシニコフ。いろいろあるけど》

「僕の話を聞いてくれ、麻実さん! 優海、お前からも何か言ってやれ!」


 優海の方へと顔を振り向ける。しかし、優海が発した次の言葉に、僕は絶句することになった。


「ベレッタ」

《何?》

「ベレッタ92。カスタマイズは特になし」


『へえ、いいもの使ってるのね』――そう言って、麻実は画面の向こうで指を鳴らした。すると、隣にいた男が画面外に消え、すぐに戻ってきた。何かを麻実に手渡す男。


《ありがとう。そうね、こんなものかしら? 画面の向こうからしか見せてあげられないけれど》


 麻実の手には、僕ですら見慣れてしまった鉄の塊が握られていた。コントローラーの、軽量プラスチック製のものではない。金属特有の無機質な、怪し気な輝きをまとっている。


《ちょうど暴力団との繋がりができたところでね。それなりのものは手に入るんだけど、どうかしら?》


 僕は言葉を失い、ただただ優海のことを見つめた。その横顔は、淡々としながらもじっくり品定めをする表情だった。まるで、蛇が舌を伸ばしながら蛙を凝視するかのように。


 僕は、ぎゅっと握りしめた自分の拳が震えだすのを止められなかった。


「……けるな……」


 優海は、そして麻実も、僕の異常に気づいたらしい。

 優海の視線が僕を捉える直前、僕は


「ふざけるな!!」


 と叫びながら優海に拳を振り下ろしていた。

 あまりの勢いに、その場にしゃがみ込む優海。それからの長い数秒の後、僕の拳から、鈍痛が這い登ってきた。


 待て。僕は今何をした? 優海を、殴った? 兄であるこの僕が? 

 嘘だ。優海より先に、僕が対人暴力に魅せられてしまったとでもいうのか? 自分の制御を失ったとでも? そんな、馬鹿な。


 言葉を継げないでいる僕の前で、優海は髪の間に手を遣った。ゆっくり指を引き抜くと、そこには真っ赤な液体が付着している。やがてその液体は、優海の頭部からぽたり、ぽたりと滴って、フローリングに小さな染みを作っていった。


「あ……、う、うぁ……」


 呻いているのは、殴られた優海ではない。殴った僕の方だ。一歩、二歩と後ずさりし、気づいた時には広い窓に背を押しつける格好になっていた。


 そんな僕たちの膠着状態を打破したのは、画面の向こうの麻実だった。


《ちょっと、優海ちゃん大丈夫? 血が出てるみたいだけど。優翔くん、綺麗な布、あるかしら?》

「あ、ああ!」


 僕は部屋の隅の箪笥から、二、三枚の布巾を取り出した。慌てて優海に手渡す。本来なら僕が対処するべきなのだろうが、とてもそこまで冷静にはなれなかった。


《優海ちゃん、傷口に当てて。消毒液はある?》

「え、えっと……」


 半ばパニックになっている僕を無価値と判断したのだろう、麻実はまた淡々とした口調で語りだした。


《まあ、縫うほどの怪我ではないでしょう。優海ちゃん、目眩はする?》

「いや、大丈夫みたい」


 優海は自分の手についた血を、余った布巾で拭っている。


《優翔くん、突然ぶん殴ることはないでしょうに。まあ、それがあなたなりの愛情表現だと言うなら、無理に止めはしないけど。今日のところはここまでのようね》


『次に話す機会があれば、何らかの方法で連絡する』――そう言って、麻実はSkypeの会話を打ち切った。


「ゆ、優海、僕は、一体……?」

「突然キレちゃったね、兄ちゃん。大丈夫、あたしにもあることだから」


 それだけ言って、優海は布巾を洗面所へと持って行った。

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