第15話
部屋に取り残された僕は、しばし冷静ではいられなかった。大代麻実。一体、何の目的があって優海に接触を試みてきたのか? いや、優海のスマホに名前が登録されていたことからして、既に数回のコンタクトは取っているのかもしれない。
しかし、この胸騒ぎは何だ? 旧知の人間が突然僕や優海の人生の絡んできたのには驚かされた。が、それだけで解消できる違和感ではない。
麻実とは、少し前に出会ったような気がする。飽くまで『少し』前だ。幼少期の頃ではない。いつ、どこでだ?
「ッ!」
全く唐突に、僕の脳裏に雷光が煌めいた。そうだ。僕が強盗犯に襲われた時のことだ。犯人は二人組で、うち一人が女性だった。あの声――。襲われたあの場では頭が回らなかったが、どこかで聞き覚えがなかったか。いや、声自体は変わってしまっているかもしれないが、僅かなイントネーションは麻実のそれではなかったか。
それに、女性はもう一人の犯人に向かい、『僕の顔を確認した上で』犯行を取りやめるよう告げた。それは、僕が女性にとって知人だったからではないか。
仮に僕の考えが当たっていたとしたら、これは看過できない問題だ。幼馴染とは言え、犯罪者と優海の間に関連があるとしたら。
いや、そんな馬鹿な。優海はまともな人生に向かって一歩、まさに今、踏み出そうとしているのだ。優海が犯罪に加担するなど、あり得ない。
やはり僕の考え過ぎなのだろうか。
いずれにせよ、優海は僕の動揺を間違いなく察知するだろう。ここは、問い詰めるべきか。僕と優海の間に、心理的なズレを残してはおけない。
ちょうど、僕がそう思い立った時だった。ガチャリ、と玄関扉の開かれる音がした。
「ふいー、暑い暑い」
「優海、帰ったのか」
「ああ。ただいま」
もちろん、優海はいつものパーカー姿で外に出たわけではない。今は、ノースリーブのシャツにホットパンツという服装だ。僕はその場で回れ右をして、優海と向き合った。
「どしたの、兄ちゃん?」
「何かあったのか、優海? 大代麻実さんと」
「あれ、兄ちゃん知らなかったっけ?」
そう言うと、優海は何の危機感もない様子で歩み寄ってきた。
「麻実姉ちゃん、最近連絡をくれたんだ。最初は誰だったか、思い出すのに苦労したけどね」
「何を話した?」
僕は、勢い込んで鋭い口調になってしまった。しかし、優海はこくりと首を傾げて不思議そうな顔をしている。
「特に何も。近々会えないかって、それだけだよ」
「会うつもりなのか?」
「え? 駄目なの?」
『危険だ』と答えようとして、僕は躊躇った。優海と僕の間に亀裂を生むわけにはいかない。むやみに優海の行動を制限するわけにはいかないのだ。
そもそも、僕が危惧している事柄は、全く可能性の域を出ていない。それに、いざ優海に目の前に立たれてしまうと、頭が回らなくなった。
優海が犯罪に加担するようなことは決してない。そう信じたくて堪らなかった。
「……ない」
「なに、兄ちゃん?」
「何でもない!」
僕は俯いたまま声を張り上げ、目的地もないままに、玄関扉を押し開けた。
※
それからしばし、僕は街中をほっつき歩いた。優海はまだ、犯罪に関与した様子はない。いや、関与させてなるものか。僕は固い意志を持って、夕日の中を歩んでいた。だんだん影が伸び、空の明度が下がっていく。そんなことは、構わなかった。
ただ、何かしなければという強迫観念に駆られていた。優海の人生を、これ以上歪曲させるわけにはいかない。その意志は、どこか自分の喉元にナイフの切っ先が突きつけられるような危険性を帯びていた。
優海が犯罪に手を染めるようなことがあるなら、その前に、代わりに僕が――。
その時だった。さらさらと、軽やかに地面をなぞるような音が背後から響いてきた。振り返りかけた次の瞬間、ヒュッと空を切る気配がした。
「え?」
僕は初めに、アスファルトにうつ伏せに倒されていた。それからようやく、背中に横一文字を描くように、鈍痛が走ったのを知覚した。
全く速度を落とすこともなく、僕を追い越していく自転車。これは、前回僕が強盗被害に遭いかけたことの再現か。
一つ前回と違うのは、僕が不思議なほど冷静だったということだ。たとえこうしてでも、麻実に近づくことができるのなら。
小さな呻き声を上げて、僕は片膝を立てた。もう一台の自転車が角から現れ、ゆっくりと前方から進んでくる。沈みかけた陽光を浴びる、その黒い影。顔はフルフェイスのヘルメットで覆われていたが、僕はそれが、若い女性の影だと確信した。
「麻実さん!」
聞こえなかったのか、自転車はますます迫ってくる。
「大代麻実さん! 僕だ! 塚島優翔だ!」
僕の叫び声も虚しく、距離はどんどん詰められていく。短めの鉄パイプらしきものを、背中から取り出す人影。だが、僕はここで退き下がるわけにはいかなかった。
「優海をどうするつもりだ、麻実さん!」
ここに至り、自転車はようやくスピードを落とした。
「麻実さん、あんたなんだろう? 優海に何をさせるつもりだ!?」
キキッ、と狐が鳴くような音を立てて、自転車は緩やかに停車した。
自転車の上で、ヘルメットに手をかける女性。この時既に、僕はこの人物が大代麻実であることを確信していた。
「麻実さん……」
「久しぶりね、優翔くん」
自転車に乗ったまま、麻実は語りだした。やっぱりだ。この、どこか外国人を連想させる語り口は、僕が知っている大代麻実のものに間違いなかった。その後ろには、やや離れたところでもう一台の自転車が待機している。恐らく見張り役なのだろう。僕が前回遭遇したのと同じ人物かもしれない。
麻実は自転車を降り、スタンドを立てて僕に歩み寄ってきた。
「生憎、このヘルメットを脱ぐわけにはいかないのだけれど……。構わないかしら?」
そう。彼女の母親はフランス国籍だった。フランス語特有の、どこか歌うような調子が、麻実の言葉の中にもある。
「優海ちゃんのことね? いいわ。洗いざらい話してあげる。ここにアクセスして」
すると麻実は、一枚の紙きれを僕に差し出した。
「これは……?」
「Skype。パソコンは使える環境にいるんでしょう?」
僕は頷き、ゆっくりとその紙切れを手に取った。
「じゃあ、今日の九時頃にでも。いかが?」
目の前のヘルメットを、僕はじっと見返した。目のバイザー部分を睨んでみたが、それでもこちらから麻実の目を覗きこむことは叶わなかった。
「おい、麻実!」
後ろ(僕から見れば前方)から聞こえてきた、男の声。それに対して、麻実は軽く片手を挙げるに留めた。
「じゃ、撤退するわね。気をつけて帰りなさいな」
そう言うと、麻実はくるりと身を翻し、自転車に跨って、あっという間に角を曲がって僕の視界から消えた。男の方も、ガンを飛ばすようにヘルメットを傾けてから、麻実に続いて角を曲がっていった。
※
「兄ちゃん、お帰りー」
夕日がほとんど闇に押され切った頃、僕はふらふらとした足取りで部屋に帰ってきた。背中が少しばかり痛むが、歩くのに支障はなかったし、怪我を負ったわけでもない。それでも足元が覚束なかったのは、当然、麻実のことがあるからだ。
「兄ちゃん、どうかした?」
「ああ、いや」
僕が先ほど麻実に会ったことは、優海に伝えるべきだろうか? そもそも、優海に聞かれてもいい会話になるのだろうか、これは?
顎に手を遣っていると、優海の方から話題を振ってきた。
「さっきね、麻実姉ちゃんから連絡があったんだけど」
「麻実から?」
無言で頷く優海。
「今日Skype使って話せないか、ってことなんだけど。連絡先のことは心配するな、って言われたんだけどさ、どういうことだろう?」
ははあ、そこまで話が進んでいるなら分かりやすい。
「さっき、僕が麻実からこれを預かってきた」
「兄ちゃん、麻実姉ちゃんに会ったの?」
目を丸くする優海に向かい、僕は『ああ』と告げるに留める。代わりに、ポケットに突っ込んでいた右手を引き抜いた。そこには、麻実に貰った紙切れが握られている。Skypeのアドレスが書かれたものだ――僕の手汗で皺だらけになっていたが。
「九時にコールしてくるそうだ」
「じゃあ、兄ちゃんのパソコンで話すの?」
「そういうことになるな。その前に、こっちから検索して話せるようにしておかないと」
そう言いながら、僕はノートパソコンを勉強机から下ろし、部屋中央の低いテーブルに置いた。電源を入れ、スピーカーとマイクを接続する。
デスクトップが表示されると、現在時刻が表示された。午後八時半か。まだ少し時間がある。
ところで、優海は自室ではなく僕の部屋にいたな。何をしていたのだろう。少なくともゲームではない。尋ねてみるか。
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