第14話【第四章】
それから一週間が経過した。僕と優海、それに詩織を交えた話し合いは四回行われ、優海と中学校とをどうやって繋ぐか、ということが議論された。今日行われているのは、まさにその四回目だ。
「これが、優海さんの編入学に関する書類です。それに、少なくとも一年は、中学生向けのフリースクールで勉強してもらうことになります。私たちが連携して臨みますから、どうぞ安心してください」
「ありがとうございます。優海、お前もお辞儀しろ」
「わ、分かってるよ。ありがとう……ございます」
こんな僕らの遣り取りを、詩織は微笑みながら見つめていた。
しかし、僕はこの一週間、喉に小骨が引っ掛かったような気分を拭いきれていなかった。
優海が、何故自分の将来を捨ててでも僕を大学に通うよう仕向けたかったのか。それが、未だに分からない。
こればかりは、詩織にも相談できなかった。他人にこの悩みを広めることで、再び優海の想いに、土足で踏み入る恐れがある。そう思うと、恐怖という檻に、自分の心臓が放り込まれるような妄想に取りつかれるのだ。
考えるべき事項はもう一つ。僕の就職先だ。
幸い、中退したとは言え、僕が国公立の大学入試を切り抜けたのは事実。高校一、二年生くらいまでの数学と理科なら教えられる。講師としてのキャリアを重ねるなら、バイトから始めて数年で正社員になれるだろう。
それに、僕と優海は両親からの虐待が認められている。よって、養育費などの面で難ありということで、生活保護を申請することができる。
「こうして考えてみると、世の中捨てたもんじゃないんですね」
「何を言ってるんですか、優翔さん? 急に年寄り臭いことを」
「え? 僕が年寄り臭い、ですか?」
僕の顔がよほど間抜けに見えたのだろう、詩織はクスクスと、優海はケラケラと笑っていた。するとふと、僕の胸中に不思議な感覚が生まれた。
――このままずっと、三人の時間が続けばいいのに。
勉強もゲームも関係なく、三人で笑顔でいられたら、どれほど幸せなことだろう。
「とんだ高望みだよな」
玄関で階段を下りていく詩織の背中を見つめながら、僕は一人、呟いた。
※
「少し出かけてくるよ」
部屋に戻った僕は、優海にそう声をかけた。
「どこ行くの?」
「大学。退学届を出さなきゃならないし、他にも手続きがいろいろ」
「兄ちゃん、やっぱり辞めちゃうんだ」
なんとも寂しげな口調で、優海は言った。
「まあ、この前決めた通りのことをやるだけさ。今度は僕が、優海のことを支えなくちゃ」
「あたしのことなんて、どうでも」
「どうでもいい、とは言わせないぞ、優海」
僕は威嚇するようなつもりで、目を細めた。
「この前、お前はようやくゲーム中毒から離れることができたんだ。それをぶり返させるわけにはいかない」
厳密には、ゲーム中毒の『一歩手前』だったのだけれど。もし本当に中毒だったら、こうも簡単に辞められるわけがないだろう。
危ないところだったな、と僕は思う。だが、ここは確かめておいた方がいいだろう。
「なあ、優海。お前がゲームの賞金稼ぎを続けるのかどうか、まだはっきりさせてなかったな。お前の考えはどうだ?」
「あたしは、そうだね……。じゃあ、全国大会まで行ったら、ゲームは辞める」
バッサリと言い切った優海。別に、完全にゲームを生活から放り出すことはないだろうとは思うが、確かにそうしてもらった方が安心はする。僕の勝手な想いだけれど。
「全国大会出場ってことは、県大会では――」
「トップ10には入らないとね」
そうだったな。その枠に対し、応募者数は県大会だけで百名を超えている。倍率十倍、か。そのあたりは、優海の腕次第としか言い様がない。だが、不敵な笑みを浮かべているところをみると、優海本人は自信満々のようだ。
「頑張れよ」
「おう!」
優海は勢いよく拳を振り上げ、意気揚々と襖の向こうへと立ち去った。
それから、僕は既に準備しておいたリュックを背負い、『行ってきます』と声をかけて玄関を抜けた。
「眩しいな……」
今日は一際、太陽光が鋭い。雲のない空を見ていると、僕と優海の生きていく道も晴れ晴れとしているように感じられて、こんな暑い日も悪くはない、と思わされる。
歩くこと十五分。僕は大学の正門前に到着した。ちょうどお昼時で、学食には長い列ができている。
ここの学生でいられるのも、今日で最後。いいものを食べて帰ろう。そんなことを考えたちょうどその時、
「お、優翔くんじゃないか」
僕は軽く背中を叩かれた。須々木だ。
「須々木くんも学食かい?」
「うん。次の講義まで時間もないし、今のうちに食べておかないとね」
僕と須々木は、一緒に昼食を摂ることにした。
「今日は久々に豪勢だね」
トレイの上にカツカレーを載せてやってきた僕に、須々木は告げた。
「まあね。今日で食べ修めだから」
「そうか、食べ修め、か」
そう言って肩を竦めながらも、須々木の表情は優れない。どうかしたのかと尋ねる前に、須々木はこう言った。
「君のような優秀な学生が中退とはね」
「まあ、優海のこともあるし、仕方ないよ」
「俺もまだまだバイトするからさ、コンビニ、いつでも来てくれよ。賞味期限切ればっかりで申し訳ないけど、食事のことは心配しないで」
「分かってる。そのあたりも計算に入れて、生活するつもりだから」
すると、須々木はふっと笑みを零した。
「なあんだ、俺が言い出すこともなかったな。最初から当てにしてたのか」
「まあね」
「ただ、季節が季節だからなあ。食中毒には気をつけてくれよ。それと」
「甘いものばっかり食べるな、だろ? 僕だって分かってるさ。優海のやつ、ほんと甘党だからな。あんまり優海を甘やかさないでくれ」
「へいへい」
そんな他愛もない会話をしているうちに、昼休みは終盤に差し掛かった。
「じゃ、俺は講義に行くから。これからも応援するよ、塚島くん」
「サンキュ。よろしく頼むよ」
僕がそう言葉を投げると、須々木は軽く片手を挙げて了解の意を示した。
※
その後、僕は学内の厚生会館に行き、正式に退学の手続きを行った。
迷いや未練はなかった。これで優海と一緒に暮らしていけるなら。
逆に、どうして僕は、今まで『退学』という選択肢を無視し続けてきたのだろう?
もしかしたら、『大学生である』というステータスが欲しかっただけではないだろうか。『自分の夢』などというものは遠い沖に流されて、代わりに『実生活』というより切実な問題が迫ってきている。生きていくことを考えれば、どちらが重要な問題なのか、すぐに分かりそうなものだったのに。
どうして僕は、これほど優海に負担をかけるようなことばかりしていたのだろう? 今更ながら、後悔という海に溺れていきそうになる。
だからこそ僕は、こうしてステータスを捨てる覚悟をしたのだ。そう自分に言い聞かせ、自らを叱咤する。厳密には、自分の右腕を。今、右手には黒のボールペンが握られ、その先端には『退学届』の用紙がある。ここにサインして捺印すれば、今までの生活が終わる――そして、新しい生活が始まる。
僕はふっと軽く息をついて、淡々と退学届に署名し、判を押した。
※
僕が部屋に戻ろうとすると、ドアが開かなかった。
「あれ……?」
優海が部屋にいるから、施錠せずに行ったのだが。仕方がないので、僕は自分の鞄から合鍵を取り出し、鍵を開ける。
「ただいま。優海?」
部屋に向かって声をかけたが、返答はない。
「おかしいな」
僕は自室に入り、襖を軽く揺さぶってみたが、リアクションはない。優海はいないのか? しかし、僕に何も言わずに外出してしまうとは。元々、そんなに外に出る機会がなかったであろう優海が。
「入るぞ」
僕はゆっくりと襖を開け、中を覗いてみた。やはり、優海はいない。
まあ、何か思うところがあったのだろう。久々に散歩にでも出かけたのかもしれない。僕は振り返り、襖を閉めようとした、その時だった。
スマホが鳴りだした。僕のものではない。再び優海の部屋に入ると、ベッドの枕元で優海のスマホがロックを奏でている。これは電話の着信だ。
誰だ? 僕は思わず、優海のスマホを見下ろした。そして、そこにある名前を見て息を飲んだ。
「大代、麻実……?」
驚いた。どうして彼女の名前がここにある? かつて、僕と優海の幼馴染だった彼女の名前が?
大代麻実。僕たち兄妹が両親から引き離される前、遊び友達だった少女だ。いや、少女とは言えまい。僕よりも年上だったのだから。僕の記憶と計算が正しければ、今年で二十二、三歳になっているはずだ。
唐突な知人の登場に僕が戸惑っていると、ガチャリ、と後ろから音がした。
「あー、スマホ忘れちゃった。兄ちゃん、帰ってる?」
「ん、ああ」
すると、タイミングを合わせたかのように着信音は鳴り止んだ。
「どこに行ってたんだ?」
優海は特に慌てた様子もなく、『散歩に出ただけ』と答えた。優海が落ち着いた態度であることを考えると、僕も慌てる必要はないらしい。
しかし、最後に会って十二、三年が経った今、麻実は優海に何の用があったのか? 尋ねようかとも思ったが、優海はさっさとスマホを手にし、またすぐに出て行ってしまった。
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