第13話

 僕の記憶は断片的になった。

 優海との交流の機会を得たことで、舞い上がっていたのだと思う。こんなに身近な肉親なのに、なんと心理的距離の広かったことか。まったく信じられない。

 弁当を受け取る際、『やけに嬉しそうだ』と須々木に言われた気がするが、一体なんと答えたのか、それすら定かでなかった。ただ、帰り道の夕日の元で、スキップしかねないほどの喜びに満たされていたのは事実だと思う。


「ただいま、優海!」


 短い廊下を渡り、優海に声をかける。反応はないが、大丈夫だ。優海は僕の部屋で待っていてくれる。そう期待して、僕はドアを押し開けた。

 

 果たして、優海はそこに座っていた。一冊の冊子を読みながら。


「何を読んでるんだ、優海?」

「兄ちゃん、あたし、間違ったことをしてるのかな?」

「は?」


 何を言っている? いや、その前に何を読んでいる? 


「ど、どうしたんだ、突然?」


 すると、優海の瞳がゆらり、と揺らいだ。その不安定な眼球の行く先にあったのは、件の冊子。ぱたん、と倒れた冊子の表紙のタイトルは、僕の立ち位置からもよく見えた。


『ゲーム中毒対処法 本人と家族のために』


 僕は呆気に取られて、冊子のタイトルと優海の顔の間で視線を往復させた。


「お前、どこでこれを……?」


 優海は脱力しきったゾンビのような手の上げ方で、僕の勉強机を指差した。その下にはキャスター付きの棚がある。確か一番下の段に、詩織から貰った資料を収納していたはずだ。


 勝手に見たのか? いや、今のところそれはどうでもいい。

 問題は、優海がその資料を読んで何を思ったか、ということだ。


「あたし、自分がゲーム中毒だなんて、全然分からなかった。うちの生活費の足しになればと思って、それだけで。でも言い訳だよね、あたしだって自分が好きでやってたわけだから」

「ゲーム中毒? お前が? 誰がそんなことを――」

「兄ちゃんと詩織姉ちゃん」


 シラを切ろうとしたところを、見事に切り返された。


「兄ちゃんの机を勝手に漁ったのは謝るよ。でも、もしあたしがゲーム中毒じゃなかったら、どうしてこんな専門書がうちにあるの?」

「お前も知ってるだろう? 僕はまだ一年生で、文系科目も受講できるんだ。その本は、心理学の参考のために買ったんだよ!」

「ふぅん?」


『だったらいいけど』と言って、優海は間を置いた。

 いつの間に用意していたのか、自分のグラスからウーロン茶を一口すする優海。


「お前の考えすぎだよ、優海。どうしてそんなことを思ったんだ?」

「だってさ兄ちゃん、最近おかしかったもの。うちの方が勉強しやすい、なんてずっと前から言ってたけど、だったらどうして帰りの遅い日があるわけ? 大学で勉強してたんでしょ? どうして? あたし、邪魔だった?」

「ッ!」


 僕は息を詰まらせた。心臓が一瞬、停止したかのような錯覚に囚われる。


「馬鹿言うなよ! お前がちゃんと気を遣ってくれてたのは分かってたよ!」

「それでも不十分だから、兄ちゃんは別なところで勉強することにした。違う?」


 会話の流れを完全に掌握され、僕は返答に窮した。

 まさか、ここまで優海が饒舌になるとは思ってもみなかった。いや、以前はそうだったのだけれど、ここ数日は全く口を利かなかったものだから、僕は優海の変わり様についていけなかった。

 

 優海はすっと立ち上がり、すっ、と小さく深呼吸をした。そして、


「ふざけんじゃねえよ!!」


 という怒声と共にテーブルを蹴飛ばした。

 宙を舞うグラス、ひっくり返るテーブル、その直撃を受けて倒れる回転椅子。僕の視覚と聴覚の間にズレが生じ、ガシャン、ドカンという音が、時間差をもって認識された。


「あたしがゲーム中毒になったのは、自分がゲーム好きだからだよ! でもそれで、生活費を稼いで兄ちゃんの負担を軽くできるなら、あたしはそれでいいと思ったんだ! だから賞金稼ぎの機会――大会への参加も決めたんだ!」

「そ、それは……」


 後ずさりする僕。優海、お前は何を言ってるんだ?


「でも、そのための練習がこんなに兄ちゃんを追い込んでいたなんて、認めたくなくて、自分のやっていることが価値あることだと思いたかったから、中毒になるほどゲームをやって……。あたし、いったい何をやってるんだろう?」


 語尾を震わせる優海。俯いた途端に、瞳からぽろぽろと涙が零れ落ちた。


『あたし、いったい何をやってるんだろう?』――その問いに、僕は我ながら意外なほど落ち着いた声を出した。


「違うよ」

「え?」

「お前はゲーム中毒なんかじゃない」


 僕はゆっくりと、ひっくり返ったテーブルの下敷きになった本を取り上げた。


「これはこの、ゲーム中毒についての本に載ってたんだけどな」


 そう言って、僕は説明した。

 自分の言動を顧みて、中毒の危険性を自覚できる人間は中毒者ではないのだと。


「本当に?」

「お前に嘘をついてどうする? 今の僕にできるのは、本当のことをお前に素直に伝えることだけだ」


 優海は顔を上げ、新しい涙が頬を滑り落ちてくるのもそのままに、僕と目を合わせた。

 優海の着ているパーカーが、やたらとだぶついて見える。痩せたのだろうか? 食事もまともに摂らなかったから? もともと華奢な体躯だったというのに。


「僕、大学は辞めるよ」


 その言葉に、優海ははっと息を飲んだ。


「お前にばかり、苦労をかけるわけにはいかない」

「そんな、兄ちゃん!」

「いいんだ。営業は向かないだろうけど、事務とか会計とかならなんとかなると思う。須々木くんもいるし、安いアパートに引っ越せば、十分食べていけるよ」

「兄ちゃん、昔言ってたじゃないか! 人を楽しませる仕事がしたいって! それができるのが、デジタル・エンジニアだって! 兄ちゃんは夢を捨てるっていうの!?」


 正直、その言葉は痛かった。他の誰か、例えば詩織に『夢を捨てろ』と言われても、こんな痛みは感じなかっただろう。

 いや、逆だ。優海は『夢を捨てるな』と言いたいのだ。『捨てろ』と言っているのは、他ならぬ僕自身。その、僕と優海の間に軋轢が生じて、それが今の胸の痛みの素になっているのだ。


「気持ちは嬉しいよ、優海。僕の大学での勉強継続に、協力してくれるとはね。でも僕が、『僕の家族だ』って言い張れる人間は優海、お前しかいない」


 僕はじっと、優海の目を見つめ返した。


「一人の家族と、不特定多数の世間の人たち。天秤にかけたら、家族の方が大事だ。だから優海、僕にとっては、自分の夢よりもお前の健康の方が大切なんだよ。ゲームを止めろとは言わない。むしろ応援する。けど、そんなに無理はしないでほしい」

「無理?」

「ああ、無理だ。ゲームのために義務教育を放棄するのは」


 黙り込む優海。その視線は、再び床へと向かっている。


「お前がいじめられたら、僕はすぐに殴り込みに行く。勉強が分からなかったら、分かるまで教えてやる。だから優海、登校してくれ。そうしたら、大会にでも何にでも出ればいい。この通りだ」


 僕はゆっくりと正座をし、両手をついて土下座した。


「ちょっ、兄ちゃん!?」


 流石にここまではやり過ぎだったか。でも、僕は自分の誠意を示すために、これ以上の態度の取り方というのを、僕は思いつかなかった。


「そんな、兄ちゃんが悪いわけじゃ……。顔を上げてよ」

「だったらな、優海。一つ訊かせてくれ」


 僕はゆっくりと視線を優海と合わせ、しっかりと言葉を繋いだ。


「どうして、僕なんだ? 優海、何故自分自身の身の上よりも、僕の立場を重視するんだ?」


 その瞬間、優海は一切の動きを停止させた。

 だが、僕はその停止の意味を考えることなく、言葉を続ける。


「飼育小屋で暴れるのも、部屋に籠って人殺しみたいなゲームをするのも、他人から見えない暴力だ。もし何か問題を抱えているなら、僕に話してくれれば力になれたかもしれないのに、どうしてそうしなかったんだ?」

「それは、えっと」


 優海は、今度は泣きこそしなかったけれど、狼狽える度合いはひどかった。視線は上下左右をさまよい、両腕でそっと自分の細い肩を抱いている。

 ここに至って、僕はようやく、自分が優海の胸中に踏み込み過ぎたのだと気づいた。唐突に、優海がぺたんと腰を下ろしてしまったのだ。


「優海?」

「来ないで!!」


 絶叫とも言える声を張り上げ、優海は立ち上がりながら振り返り、一瞬のうちに襖の向こうへと姿を消してしまった。


「ゆ、優海……」


 僕は呆然として、それでもなんとか頭の片隅を回転させながら、優海の言動を振り返った。

 僕が大学を辞めることは、もう確定的事実だろう。だが、優海は『何故か』それを受け入れようとはしてこなかった。

 そもそも、年上の者が働きに出るのが筋ではないのだろうか。僕が優海を支えるべきではなかったのだろうか。


 以前もぶつかった、この疑問。その扉を開ける鍵を握っているのは、優海だけだ。しかし、その先の鍵は未だ僕の手にはないらしい。


「くそっ」


 僕は自分の無力さを呪いつつ、軽く拳を床に叩きつけた。

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