第12話
詩織が最初にこのアパートを訪れてから、一ヶ月余りが過ぎていた。FPSの県大会まで、あと二週間強。優海のゲームへの没入度は、増していくばかりだ。
昼間は僕が大学に行っているから仕方ないにしても、僕と優海が顔を合わせせたり、挨拶を交わしたりする機会も、どんどん少なくなっていった。最悪、丸一日顔を合わせない、その機会を得られない日すらあった。
正直、僕はこう思った。優海の脳は、ゲームに喰われている、と。
それでも、優海はゲームを止めなかった。どうしてそれが分かったかと言えば、今や僕の耳に貼りついたベレッタの操作音が、ずっと襖の向こうから聞こえていたからだ。
こうしてゲームに噛りつき、義務教育という現実から逃避し、殺人を続ける優海。仮想空間内とはいえ、僕はそれに生理的な嫌悪感を覚えるようになっていた。
今までも、優海はこのシリーズのFPSをプレイしてきたし、テレビやゲーム機からの音量がゼロであれば、つまり銃声や悲鳴、爆発音が聞こえてこなければ、僕は平気でいられるつもりだった。
しかし最近は、ベレッタの操作音だけでも気になる。取り分け、カチカチと引き金を引く音がすると、僕は思ってしまうのだ。ああ、優海はまた人を殺しているんだな、と。
詩織の訪問がない日は、僕は大学の図書館に籠ることが多くなった。優海は僕に気を遣い、ゲームの音量をゼロにしているようだが、コントローラーの操作音ばかりはどうにもできまい。僕はその操作音だけでも、恐ろしく思えてならなかった。否、恐ろしく思うほどに過敏になってしまった。
家に帰りたくない。優海の心が、暴力という魔物に真っ黒く浸されていく様を、もうそばで見聞きしていたくない。
それを詩織に、ひいては襖越しに優海に伝えられたら、どれほど気が楽になっただろう。だが、僕は優海に生活費のほとんどを維持してもらっている。
言えない。言えるわけがない。『帰りたくない』などと。それは、優海の気遣いを踏みにじり、彼女の生き甲斐を木端微塵にする言葉であろうと思われたからだ。
僕は臆病者なのか? 妹一人を説得することもできない、腰抜けなのか?
はたまた、僕は野心家なのか? 僕が大学を辞め、社会に出れば、まだ生活していける。それなのに、電子機器の次世代エンジニアになりたいとなどと駄々をこね、その尻拭いを妹にさせている卑怯者なのか?
そこまで考えて、はっと気づいた。優海に知られないように、誰かに相談に乗ってもらう。だったら、最も有力な話し相手である詩織に、僕が通っている大学まで来てもらえばいいではないか。
もちろん、受験しろという意味ではない。学食で、他の学生に混じって話をしようというわけだ。以前、僕と須々木がそうしていたように。
須々木は『自分が協力できるのはここまで』と言っていたが、詩織は違う。この手の話のスペシャリストだ。
僕は図書館の机に荷物を置いたまま、駆け足で図書館を出て、詩織に電話をかけた。
三回目のコールで、詩織は電話に出てくれた。
《はい、小坂詩織です》
「あ、詩織さん! 今話せますか?」
僕の胸は高鳴った。これで、一人で苦しまずに済む。しかし、詩織の対応は実に厳しい現実を僕に突きつけてきた。
《それが……ちょっと、難しいんです》
「難しい?」
《はい。最近、このあたりって治安が悪いでしょう? そこで、警察が動いているんです》
「そ、そりゃあ、パトロールを強化するなりなんなり、やることはあるでしょう? 今お話したいのは、警察のことじゃなくて――」
《優海さんのことは、警察と関係があります》
ぐさり。そんな音が、自分の左胸、心臓から響いた気がした。
「飼育小屋の件、ですか」
《それもあります。しかし、それだけではない、というか、もっと大変なことです》
僕は唾を飲み込み、眉間に皺を寄せ、覚悟を決めてから尋ねた。
「何が起こっているんですか?」
《監視態勢の強化です》
「か、監視態勢?」
何の話だ?
僕の疑念が伝わったのだろう、詩織は続けた。
《この街周辺の監視カメラが、一ヶ月ほど前に一新されました。また、超高性能なマイクが併設された場所もあります》
「それと優海がどういう……?」
詩織はため息をついた。しかしそれは、僕に呆れているのではなく、むしろ自分の無力さを嘆くような気分があった。
《私たちのNPO団体は、正規の活動として、お宅にお伺いすることが認められています。しかし、電話相談やお宅以外での相談は、警察に盗聴される恐れがあるんです。だから、優海さんの過去のことも、今現在陥っている状況も、こちらから出向く以外にお話のしようがないんです》
「そんな! 警察は僕たちを守ってくれるんでしょう? それがどうして監視なんか!」
《そう、私もどこか、警察の狙いは別のところにあるように思えてなりません》
数年前、日本近隣の某国で、監視社会が行き過ぎだと主張する人権保護団体と政府との衝突があったのは記憶に新しい。幸い死傷者が出るようなことはなかったが、まさか日本もそうなろうとしているのか。
《ですから優翔さん、次に私がお伺いする時、明日までに、何らかの形で私に伝えたいことをまとめておいてください。これ以上はお話できません。失礼します》
「ああ、ちょっと! 詩織さん? 詩織さん!」
通話は一方的に切断され、僕だけがその場に取り残された。首筋から冷たいものを滴らせた僕だけが。
※
部屋に帰ると、優海とバッタリ出くわした。食事を取りに行ったり、トイレや風呂場に行ったりするのに、優海が僕のそばを通っていくことは多々あった。しかし、その際にはお互い心の壁を造っていたので、話をするには至らなかった。
それに比べ、今の状況はだいぶ異なる。優海は、廊下にある冷蔵庫の中身を漁っているところ。そこに僕が帰ってきた。要するに、互いが予期しない、サプライズだ。
「た、ただいま」
「んあ」
声なのか音なのか分からないものを喉から発しながら、優海はフルーツゼリーを手に取り、自室に引っ込もうとした。
駄目だ。今引き留めなければ駄目だ。そして、話をしなければ。
「ど、どど、どうなんだ?」
「は?」
優海は明らかにイラついていた。さっさと自分を解放しろ、と言わんばかりだ。ここは、優海に合わせた話をしなければ。
「だからさ、FPSの大会についてだ。勝てそうか?」
「相手の素性も分かんねえのに、『勝てそうか?』はないだろう?」
「じゃあ、お前の実力はどうだ? 上がったか?」
「上がったもなにも……」
「通信対戦だったら、不特定多数の人間と戦えるんだろう? どうなんだ、勝率は?」
我ながら、強引だがテンポのいい畳みかけだったと思う。優海は後頭部に手を伸ばし、『ま、ぼちぼちかな』と答えた。
そう、優海の方から答えたのだ。今ならコミュニケーションが図れる。ゲームのやり過ぎで毒された優海の脳に、いや、心に語りかけることができる。
「県大会は余裕なんだろう?」
「そ、そりゃあ、まあ」
「気になる相手プレイヤーはいるのか?」
「別に」
だんだん言葉が切れ切れになっていく優海。一気呵成に持論を繋いでいた、かつての言葉運びは見る影もない。
しかし、これが今の優海にとっての精一杯なのだ。ゲームによって虫食い状態にされた、優海のありのままの姿なのだ。そんな彼女に、兄として僕ができることは。
「兄ちゃん、話は終わり?」
嫌な沈黙が、ひたひたと僕の心臓を飲み込んでいく。ああ、くそっ。どうしてこんな時に、気の利いた一言も言えないんだ。
そうか。必要なのは、言葉ではないのだ、きっと。これが言葉の限界。あとは僕の挙動にかかっている。
「優海」
「あ?」
沈黙の間にイライラが募ったのか、棘のある口調と視線を刺してくる優海。
ここで退くわけにはいかない。僕は無造作に手を伸ばし、優海の頭に掌を載せた。
『おい、何すんだよ!』――それが、僕の予想した優海のリアクションだった。しかし優海は、きつい言葉を放つことも、僕の手を振り払うこともしなかった。かと言って、馴れ馴れしくしてくる様子もない。
きっと優海は、混乱しているのだ。僕の知る限り、優海はこの一週間ほど、一切外出していない。もちろん、他人に出会うこともない。そして、唯一接触のあった人間である僕との関係はと言えば、ロクに言葉を交わしていないという状態。
だから、他者との付き合い方を忘れてしまった。言い換えれば、他者とのコミュニケーションを司る心のパーツが、一時的に麻痺しているのだ。
僕は片手を優海の頭に載せたまま、空いた手で冷蔵庫の中を見渡した。
「ご飯ものがないな。今、須々木に貰ってくる。一緒に、食わないか」
さて、優海は何と言うか。僕は彼女の口元を見つめた。だが、優海も言葉を創るのには苦労したらしく、こくり、と頷くに留まった。
それでも、今の僕には十分だ。
「よし。じゃあ、行ってくる」
僕は心に羽が生えたような気分で、回れ右をして再び夕日の元へと踏み出した。
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