第11話
講義棟を出た僕たちは、一旦その場で足を止めた。
「須々木くん、よければ君のお宅にお邪魔して話せるかい? 学食は他人の目もあるし、うちは優海本人がいるから論外だし」
僕が期待した答えは、もちろん『じゃあ、そうしよう』という一言だ。多少散らかっていたり、逆に潔癖症だったりして、他人を招きたくないという人もいる、という話は聞いたことがある。
とはいえ、須々木は常に僕の話を聞いてくれたし、増してや僕を拒むようなことはなかった。だから僕としては、須々木は僕を自宅へ招いてくれるものと思っていたのだ。
が、しかし。
「すまない、塚島くん。うちは結構離れていてね。僕は原付きで登校しているけれど、塚島くんは違うだろう? バスも地下鉄も、本数は少ないし。できれば相談は、やっぱり学食で済ませた方がいいと思う」
「なんだって?」
僕は一瞬、頭に血が上る感覚を得た。
相談場所を決めるのは重要だが、距離など問題にならない。優海のことを考えてみれば。だが、それでも狼狽えた様子の須々木を前に、小心者の僕は妥協してしまった。
「じゃあ、今から学食に?」
「ああ、そうだな。そうしてもらえるとお互い助かるよ、塚島くん」
こうして僕たちは学食へと足を向けた。
※
僕は、詩織や秋山先生たちの具体的なことは伏せつつ、『こういう立場の人にこんな相談をした』ということを須々木に伝えた。そこで得られた解答も。
「優海さんが動物虐待を? 本当か?」
「ああ。先生の話によれば、ね」
「俄かに信じ難いけどな」
膝に手を載せた僕に対して、腕を組む須々木。
「僕の持論だけど、きっとFPSは、優海にとっての暴力性の捌け口になっているような気がするんだ。近所で動物虐待の噂は聞かないしね。仮想空間で殺人を犯した方が、優海にとってストレスの解消になるのかもしれない」
「あの優海ちゃんが、ね」
『信じられないな』と、須々木は繰り返した。
「俺の知っている優海ちゃんは、多少無遠慮なところはあるけど、概ねいい子だ。そんな内幕があったとは」
「どうしたらいい?」
僕はすっと顔を上げた。僕の真剣さ、いや、情けなさに驚きでもしたのか、須々木は少しばかり狼狽えた様子だ。
「ど、どうしたら、と言われてもな」
そして、僕たちは二人揃って『うーむ』と唸りながら俯いてしまった。
「残念ながら、俺が協力できるのはここまでみたいだな。すまない」
「あ、ああ、いや。謝られるとこっちが困るよ。誰が悪い、って問題でもないしね」
「そうか。そう言ってもらえると助かる」
助けを求めていたのはこちらの方だったのだけれど。
その日は学食で須々木と別れ、そのまま帰宅した。
※
帰り途中に、見慣れた後ろ姿が視界に入ってきた。詩織だ。
「どうも、詩織さん」
「あら、優翔さん。こんにちは。これからお伺いしようと思っていたところなんです」
「じゃあ、ちょうどよかったんですね」
「ええ。優翔さんがお帰りになるまでは、部屋に入れてもらえなかったでしょうから」
確かに、昨日のこともあるし、優海が勝手に部屋に鍵をかけている可能性が高い。
「僕が部屋の鍵を持っていますから、大丈夫ですよ」
「助かります。では、一緒に参りましょう」
「ええ」
ちょうど頷き合ったその時、ピロリロリン、という電子音が聞こえてきた。詩織のスマホからだ。『ちょっと失礼』と告げて、詩織は通話ボタンを押し、会話を始めた。
「はい、小坂です。そうです。これから塚島さんのお宅に――え? 何ですって?」
突然声音を変えた詩織に向かい、僕は視線を遣った。
「しかし、それは重要なことでは? あ、はい、はい……」
僕を蚊帳の外にしながら、話は進んでいく。だんだん詩織の目つきが険しくなっていくのが見て取れた。
「分かりました。そういうことでしたら。はい。後は私の方で、なんとかします」
それだけ言って、詩織は通話を終えた。
僕は一歩、詩織に近づき、視線で『何があったのか』と尋ねてみた。
「優海さん、最近はゲームとネット動画に集中していたでしょう? 依存症の可能性ありということで、精神科も交えてお話の場を設けるつもりだったんです。それが、『優海さんについてはそこまでしなくていい』だそうで」
「うちの妹がどうでもいいって言うんですか!?」
思わず声が大きくなる。先日、優海を怒鳴りつけた時には及ばないけれど。
詩織は慌てて、両手を突き出して顔を横に振った。
「そ、そんなわけありません! ただ、依存症の治療には多くのプロセスと、多くの人々の協力が欠かせません。私は先日、そのきっかけとしての児童相談所との連携を提案していたんです」
その会議の時は、大多数のカウンセラーが賛同したという。
「でも、それが却下されました」
「却下、って……」
「正直、私も今、理解に苦しんでいるところです。確かに、私たちの組織の人材不足は致命的ですが」
僕は利己的にならないようにと、自分の心を縛りつけなければならなかった。でなければ、またもや大声を出してしまいそうだったからだ。優海のことを軽視するな、と。
「じゃ、じゃあ、これから優海との面会はどうなるんです?」
すると詩織は、落胆したようにため息をついてから、
「私と優翔さんが協力してやっていくしかありませんね」
と呟いた。
その時、僕の脳裏に何かが引っ掛かった。それは、先ほどの須々木の態度だ。
カウンセラーや精神科、児童相談所との連携が大切だということは、今詩織と話していて分かったこと。だが、あの須々木だったら、そのくらいのことは思い浮かぶのではないだろうか?
「どうして、提案してくれなかったんだ……?」
「優翔さん、なにか?」
「えっ? ああ、いえ、なんでも」
『そうですか』と答えてから、すっと顔を上げて、詩織は言った。
「たとえ組織のバックアップなしでも、私は優海さんを助けます。でも、大変な道のりになるかもしれません」
そう言うと、詩織は僕の目をじっと覗き込んできた。
「優翔さん、一緒にいてくれますか?」
ドクン、と心臓が跳ねた。って、馬鹿か僕は。同年代の女性に一言、二言言われたくらいで。
雑念は捨てろ。僕は飽くまで、優海を助けるために、詩織の助けを借りるだけだ。詩織は助っ人以上でも以下でもない。
心臓はすぐに通常操業に戻り、安定して血液を送り出し始めた。
「では、行きましょうか、優翔さん」
「はい」
※
「ただいま。優海、また詩織さんが来てくれたぞ。今くらい、出てきたらどうだ」
襖の向こうは無言。だが無音ではない。ベレッタの操作音がカチカチと聞こえてくる。
「おい、優海!」
「ちょっと待って」
襖に手をかけようとした俺を、詩織が引き留めた。
「依存症の場合、解決には多くのプロセスと尽力が必要です」
『さっきも言ったでしょう?』と続ける詩織。
「まずは優翔さんが、私と話してみてください。本人がいなくても、家族と話をして理解を深めて、本人との遣り取りに活かすのも大事なことです」
「分かりました」
それでも、何を話したらいいのやら。僕は唇を噛みしめながら、正座をして姿勢を正した。
「優海さん、私を部屋に上げるつもりはないようですね」
「どうもすみません、せっかく来てくださったのに」
「いえ、優翔さんが気に掛けることはありません。あまり遠慮しすぎると、家庭内で潰れる方が出てきてしまいます。精神的にね」
「は、はあ」
詩織の声は、いつになくハキハキとして自信に満ちていた。そのことに少しばかり違和感を覚えたが、僕は自分が何を話すべきか、それを考えようと意識を切り替えた。
「優海と僕の寝る時間帯がズレているせいもありますが、ほとんど顔を合わせなくなってしまっています。会っても何も話そうとはしません。ここ数日、言葉を交わしていない状態です」
「そうですか。では尚更、ですね」
僕は首を傾げた。
「尚更、って、何がですか?」
「急がば回れ、ということです」
淡々と、しかし温もりのある口調で語る詩織。そういうものなのだろうか。
「優翔さんの心配は分かります。だからこそ、焦ってはいけません。せめて、一日一言、挨拶を交わすくらいから始めましょう」
「あ、ちょっと、詩織さん」
僕は詩織と顔を近づけ、音量を落としながら問うた。
「この会話、優海に聞かれてもいいんですか?」
「ええ。私たちがどんなスタンスで自分に接しようとしているのか、優海さんに分かってもらうためです。偶然を装ってね。案外、襖の向こうで聞き耳を立てているかもしれませんよ」
そう言えば、詩織は言っていたな。彼女が初めてこの部屋を訪れた際、『優海はやきもちを妬いている』と。もしそれが事実なら、優海をコミュニケーションの場に引っ張り出すのに、僕と詩織が優海の意図せぬところで何かを仕掛けようとしている、と思わせるのはいい作戦かもしれない。
すると詩織は、さっと立ち上がった。
「今日はこのくらいにしておきましょうか」
「え? 話し始めたばっかりじゃ……?」
「いいんです。急がば回れ、ですよ」
僕に釘を刺すつもりなのか、詩織は繰り返した。
「分かりました。じゃあ、玄関まで見送ります」
「ええ」
ふと、興味が湧いた。
「詩織さん」
「はい?」
「今日のあなたは何点ですか?」
「そうですねえ……」
詩織はしばし、視線を宙にさまよわせてから、ふっと笑みを浮かべて『五十点くらいですね』と一言。
「それでは」
「あ、はい。お気をつけて」
ふと、空を眺める。その時にはもう、橙色が群青色に追い立てられていた。
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